第94話 はじめまして公爵様(この姿では)

「この姿でははじめましてエイヴリルと申します」


 もうこうなってしまっては仕方がない。流れに身を任せ、カーテシーで挨拶をすればディランの方からガチャンと音がした。


 視線を上げると、顔を引き攣らせたディランがカップを手から滑らせたところだった。お茶はこぼれていないしカップも割れていない。よかった。


 後ろに控えていたクリスは笑いながら「この姿でははじめまして」というエイヴリルの挨拶をくり返し、状況を把握したらしいディランは笑いを堪えるようにして聞いてくる。


「……なるほど。洗濯メイドのエイヴリルはなぜここに?」

「お手伝いですわ。本当は洗濯室が私の居場所のはずでした……」


 遠い目をして答えれば、親切にも執事が名前を訂正してくれる。


「旦那様、彼女のその名前は洗礼名のようです。お呼びの際はクラリッサと」

「クラリッサか。名前の件も含めて、彼女には後でよーく話を聞きたいところだ」


(まぁ、そうなりますよね……)


 母屋で大人しくしているように言われたのに、こんなところで出会ってしまって申し訳なかった。王都のタウンハウスでエイヴリルが大人しくしていないのはいつものことだったが、ここは慣れない領地である。


 軽はずみな振る舞いを反省していると、やり取りを見ていた愛人たちの中から声が上がった。


「旦那様、ひとつよろしいでしょうか」


 見ると、猛獣扱いのテレーザ・パンネッラが進み出ている。


(テレーザ様。今日、ディラン様がここに来たのは彼女にご用があるからだと思いますが……テレーザ様のほうもディラン様にご用事が?)


 首を傾げて見ていると、執事が耳打ちをしてディランにテレーザの名前を教えたらしい。ディランの、さっきまでの穏やかだった眼差しが一気に厳しいものになる。


「テレーザ・パンネッラか。私もあなたには話があった。ちょうどいい、先に話を聞こう」

「ありがとうございます。……実はここのところ自室から私物が消えておりまして。行方不明になっているのはほとんどが大旦那様にいただいた贈り物の宝石なのですわ」


(これは予想通りですね)


 肩を落とし儚げに訴えたテレーザの姿に、エイヴリルはゆっくりと瞬く。一方のディランは全く狼狽える様子がない。冷静に問いかける。


「――つまり、この離れでは盗みが横行していると訴えたいのか?」


 部屋じゅうがざわめいた。愛人たちは甲高い声でおしゃべりをはじめ、管理不行き届きを指摘されたと思い込んだ使用人たちは青くなっている。


 動揺していないのは、エイヴリルと盗みの被害をディランに訴えたテレーザ本人だけだった。


「はっきりと断定はできませんが、その可能性はあると思っています。どんな偶然なのかはわかりませんが、そこの――今旦那様に紹介された洗濯メイドが入ってからなのですわ」


(! あらあら) 


 迷いなく一直線にこちらを示す人差し指。びしっと指をさされてしまった。


 エイヴリルは生ぬるい笑みを浮かべるしかない。思い浮かぶのは、この前洗濯物を回収しに行った日、クローゼットを見せられたときのことである。


(やはりこういうことだったのですね。私のような新入りにわざわざクローゼットを見せるのはおかしいですから、おかげで隠し扉を見つけられてよかったですけれど……って、直訴したご本人のテレーザ様が泣いていらっしゃるわ……?)


 エイヴリルが何となく納得しているうちに、テレーザの瞳からは涙が溢れていた。清楚系の美女が好きと評判の前公爵の好みはさすがである。


 悲しそうに涙を溢す姿がなんとも儚げで、ついつい味方してあげたくなってしまっているエイヴリルの前、テレーザは声を震わせる。


「私は隣国の男爵家の出で、きちんとした教育を受けております。大切な贈り物が頻繁に盗まれるこのようなところにいるのは怖くて……」

「あれこれ経緯がいまいち繋がりませんが、ランチェスター公爵家の旦那様はきちんとしたお方ですので大丈夫です。涙を拭いてくださいませ」

「!? 私の私物がなくなったのはあなたが来てからなのよ? よくそんなことが言えますわね」


 ついハンカチを差し出したものの、受け取ってもらえなかった。ついでに、さっきまで『救世主で猛獣使い』とエイヴリルを絶賛していた使用人仲間たちは固まっている。完全に盗みの犯人を見る表情である。


(……うーん。いくらでも方法はありますが、どれでこの場を切り抜けましょうか)


 この場で自分がディランの婚約者だと明かすのが一番簡単だ。けれど、それでは次期公爵夫人が盗みをしたという新たな誤解を生む可能性もある。


(そもそも、理由なく離れに忍び込んでいること自体がおかしいですから)


 本当にただ間違われただけだったのだが、公爵夫人っぽくない見た目の自分が申し訳なさすぎた。


 一方のディランは相変わらず鋭い視線をテレーザに向けている。


「そこまで言うのなら証拠があるのだろうな? あなたは私がここを訪れる機会を待っていたのだろう。何の証拠もなく動くはずがない」

「ええ……もちろんですわ。先日、この洗濯メイドが私のクローゼットを見たいと言うので見せたのです。その後です。大旦那様にいただいたエメラルドの指輪がなくなったのは」

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