第86話 潜入します

 ディランは領主としての仕事に戻ってしまった。本当であればここで離れの妾たちや使用人にエイヴリルを紹介してもらうべきところだったが、『優秀な洗濯メイド」の評判を知ったディランは先送りにした。


(つまり、もう少し潜入して調べてほしいと。ディラン様の意図はそういうことですね)


 勝手に納得したエイヴリルは、昨日着ていた少しくたびれ感のあるドレスに袖を通し、よしっ、と気合を入れる。


「エイヴリル様。どちらにいらっしゃるのですか」

「わぁっ」


 背後に立ったのはグレイスだった。まるで全てをお見通しというような表情でこちらを睨んでくる。


「まさか二日連続で迷子になることはありませんよね?」

「いえそれがあの、私を心配している人がいる気がしまして」

「どちらにでしょうか」

「……向こうに、です」


 窓の外に見える離れを指差せば、グレイスはわかりやすく顔を引き攣らせた。


「もう。“離れに現れた救世主”ってやっぱりエイヴリル様だったのですね!?」

「救世主……これはまたとっても素敵な二つ名を」

「例のピローケースは洗濯メイドだけでなく、離れで働く人間皆の悩みだったといいますから。当然のお名前です」

「そんな。お役に立ててうれしいかぎりです」


 本当にありがたく恐縮ですではこれで、とひらひら手を振りながら部屋を出ようとしたが、グレイスは道を譲らなかった。


「私は王都のタウンハウスにしかお仕えしたことがありませんが、噂では領地の本邸では母屋と離れの使用人同士の確執があると何度も聞いてきました。ですから、たとえディラン様が見逃していらっしゃるとしても、エイヴリル様が向こうに出入りすることをお止めしないわけにはいきません」


 そうして、ずんと前に立ちはだかる。


(ああ……グレイスは今回の訪問の目的を知らないのですよね……)


 エイヴリルたちの今回の訪問の目的は、離れに最近入ったある男爵令嬢について調べるためである。けれどそれを知っているのはエイヴリルとディラン、クリスだけだ。ただのメイドであるグレイスには知らされていない。


 経緯からすれば、グレイスがエイヴリルのことを心配してくれるのは当たり前だった。その心配の裏にある事情が気になって、聞いてみる。


「母屋と離れで仲が悪いのはどうしてなのでしょうか?」

「離れにいる使用人は皆『大旦那様のお気に入り』です。王都のタウンハウスも昔はそうだったらしいですが、ディラン様が成人されてからはだいぶ変わったようです」


「なるほど。離れで働く人々が優遇されるから母屋の皆さんの反発を生んでいるのですね」

「それだけではありません。使用人の中にも階級意識のようなものがありますので。タウンハウスでもそうですが、母屋で働く人間の方がより『出来る人間』として評価を得ているはずです。しかし、実際の待遇は真逆になっているため働くもの同士の仲が悪いのです」

「確かに、それはよくありませんね。だから私は向こうとはあまり関わるべきではないと」

「その通りです」


 そういえば、と昨日やってくるはずだった新人メイドの『クラリッサ』には1人部屋が与えられたことを思い出す。普通ならありえないことだ。


 あの高待遇の理由に納得して、エイヴリルはため息をつく。


(離れをなくしてしまえればいいのですが……タウンハウスはともかくとして、ここでは難しそうです。何といっても、前公爵様の妾の方々がお住まいですから)


「グレイス、公爵家を支える人々の仲が悪いのは悲しいことですね。いずれ取り返しのつかない事態になる可能性もあるのではと」

「旦那様もそれを心配しておいででしょう。ですから、代替わりしてから初めての長期滞在になる今回は、離れの解体に向けてお話をする用意があるのでは、と注視しております」

「なるほど」


 ディランはエイヴリルに相談することがなかったが、タウンハウスの書斎には淑女向けのお稽古事や求人をまとめた資料があった。おそらく、それらはこの準備のためのものなのだろう。何となく腑に落ちた気分になる。


(ローレンス殿下がわざわざディラン様に調査を命じたのは、そういった動きを後押しできるように考えてのことなのでしょう。領地経営のあれこれに、内部事情……少しでも私がお力になれたらいいのですが)


「しかもランチェスター公爵家は代替わりしてからまだ日が浅いうえに、新しい公爵夫人となる方がいらっしゃっています。皆警戒してナイーブになっていますので、エイヴリル様は離れに行かれない方がよいのでは、と」


 遠慮がちに進言してくるグレイスだったが、エイヴリルは迷わずにその手を取った。


「いえ、大丈夫ですわ。そういうことでしたら、一緒に参りましょう」

「……は?」

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