ネル 甘い誘惑に屈する

 オジサンがあたしの部屋の前で待っていた。それを見て思わず、


「オジサン……いくらあたしの魅力にメロメロだからって、遂にロリコンヘンタイストーカーオジサンになっちゃったの?」

「んな訳あるかバカっ! 今日は偶々本部に用があって、仕事が終わったから買い物帰りに少し寄っただけだ」

「……そうなんだ。じゃあね」


 オジサンが待っていてくれたのは素直に嬉しかったけど、今はとても相手をしている暇はない。だからあたしはさっさと部屋に入って扉を閉め、


 ガシッ!?


「おいちょっと待て。この荷物を見て何とも思わんのかお前は」

「な、何?」

「ず~っと荷物が重くて手が疲れてたんだ。何でも良いから俺も中に入れろ。お邪魔します!」

「え~っ!?」


 閉まる扉をむりやり手で阻み、そのまま部屋に入ってくるオジサン。仕方ないなぁ。


「レディーの部屋に勝手に入ってくるなんて、オジサンったら強引だね!」

「そう思うんなら最初から入れろ。それにしても……やけにさっぱりした部屋だな」


 オジサンときたら、荷物を置くなり部屋をじろじろチェックする。ちょっとっ!? 女の子の部屋なんですけど!?


「……なるほどな。お前飯は?」

「えっ!? う、うん。食べたよ」

「本当かぁ? じゃあ……これは何だ?」


 オジサンが指差したのは、テーブルの上に置いた錠剤の束。そしてその空き袋の山。


「お前って奴は、また飯を錠剤だけで済ましてたなっ! ……ちょっと待ってろ。キッチンは向こうだな」

「ちょっ! 待ってよオジサンっ! あたし良いよ食事なんて!? お腹も……減ってないし」


 食材の詰まった袋を持ってキッチンに歩き出すオジサンをあたしは慌てて止める。今は食事なんてしている暇があったらまた訓練に戻らないと。


 だけどオジサンはそれを聞いてとんでもなく不機嫌そうな顔をする。


「嘘言えっ! ちょっと来い!」

「えっ!? 何?」


 オジサンに引っ張られ、あたしは部屋の姿見の前に立たされる。そういえば最近訓練ばっかりで鏡を見てなかった。


「これ……あたし?」

「見ろっ! 頬は前より大分こけてるし、肌色も悪い。疲労が溜まっているのか目に隈があるし目つきも鋭い。これは明らかに栄養失調の傾向だ」


 確かにちょっと顔色が悪そうに見える。そういえば最近ちょっとふらつくようになってたし、思えばあたしの顔を見て職員が逃げ出したのもそれが原因かも。でも、


「こ、こんなの光の加減かも。それにほら! 栄養なら錠剤で摂ってるし」

「栄養はな。それにどうせお前、もうすぐ幹部昇進試験だからって無茶な訓練でもしてるんだろ? その分エネルギーの消費が激しいんだ」

「なら錠剤の量を増やせば」

「それも込みでもう錠剤だけじゃ補いきれなくなってんだ。カロリーが単純に足りてねぇっ! ちょっとした飢餓状態だ」


 そう……かもしれない。だけど、


「……やっぱりご飯は良いよ。それより訓練に行かなきゃ。食べてる時間もないし」

「んな事言ってる場合か。まず何か腹に入れろ。そしてさっさと休め。このままじゃ」

。もう」


 そこであたしは軽く邪因子を解放する。並の戦闘員ならこれだけで怖がるくらいの圧だ。勿論傷つけようだなんて思っていない。軽く脅かすだけ。


「見てよこの邪因子を。明らかにオジサンと最後に会った時より多い。……あたし分かったんだ。邪因子が一番活性化するのが多いのは、なんだって」


 あたしはそのまま軽く手を広げてオジサンを見る。オジサンは何も言わない。


「あと一週間。たった一週間で試験なんだよ。あたしはお父様に期待されている。どうしても今回の試験で幹部にならなきゃいけないのっ! 飢餓状態で身体がちょっとふらついて重いくらいどうってことない。だから……もう帰ってよ。……来てくれてありがとう。オジサン」


 あたしはそう言って背を向ける。それはさっさと帰れという意志表示。これだけやれば分かってくれるだろう。


「……そうか。分かった」


 背中でごそごそという音が聞こえる。諦めて帰るのだろう。……これで良い。これで良いんだ。


 カチッ!


 カチッ? 何か変な音がしたので振り向く。そこには、


「な、何やってるのオジサンっ!?」

「何って……見りゃ分かんだろ? んだよ。……よし。上手く動いているな」


 わざわざテーブルの上を片付け、デンっと電気式ホットプレートを置くオジサンの姿があった。どこから出したのそんなのっ!?





「オジサンっ! 今の話聞いてたっ!? あたしは帰れって言ったの!」

「ああ帰るさ。だがなにぶん少し足が疲れててな。十分ばかり休んでいかないと歩けそうにない。それで十分もあれば軽く一品作るには充分だ。……ああ心配するな。材料はこっちで用意してあるし、お前に無理に食べろとは言わん。


 お茶会の保険でタネを作っておいてよかったと言って、オジサンがキャリーバッグから取り出したのは何か乳白色のドロッとした物が入ったボウル。


 オジサンは買い物袋からサラダ油を取り出し、プレートに軽く注いだかと思うとどこからか出したヘラでサッと引いていく。


 ジュ~!


「流石本部の市場で買った油。第9支部の奴より質が良い。そして軽く熱した所に……こうだ」


 そこへさっきのボウルの中身を二度注ぎ込む。ドロリとした物は上から注がれて二つの円を形作る。


「さて。焼けるのを待つ間に準備をするか。ちなみに俺はこれでも甘党でな」


 オジサンは手際よくテーブルに様々な物を並べていく。ハチミツ、バター、チョコレートソース……その他諸々の調味料。


「ねぇ……オジサン。何作っているの?」

「ここまで来れば分かるだろう? だ。……よ~しそろそろだ。そりゃっ!」


 生地にぷつぷつと泡のような物が出てきたのを見計らい、オジサンはさっきのヘラで一気に一つずつひっくり返す。そこに現れたのはキレイに焼けた薄茶色の面。


 それと同時にふんわりと美味しそうな香りが部屋中に漂う。


「どうした? 別に俺に構うことは無い。訓練に行くのだろう? 行けば良い」

「そ、そうだけどっ! ……一応どんなのが出来るのかくらいは見ておこうかなって」

「ほぉ。それはそれは。あとはナイフとフォーク。そして皿っと」

「あっ!? その皿っ!?」


 オジサンが取り出した2枚の皿。それはあたしとの買い物でセットで買った物だった。


「これか。柄にさえ目を瞑れば、そこそこ頑丈だし使い勝手の良い皿だから使っているだけだ。決して他意はない。……そぉら焼けたぞ!」


 オジサンはそれぞれにポンポンと焼きあがったホットケーキを乗せていく。そこへバターの欠片を乗せ、トロッと蕩けたバターの香りがそれまでの香りと混ざっていく。


 ……ゴクッ。


 いつの間にか、あたしは生唾を飲んでいた。ホットケーキから目が離せない。


「アツアツの生地の上にハチミツと、チョコレートソースを少々掛けまして……完成だ!」


 薄茶色のホットケーキを、黄金色とこげ茶色の線が蹂躙する。微かにまだ蕩け切らずに残っているバターと相まって、それは一枚のキャンバスに描かれた絵画のよう。



 ……はっ!? あたしは今何を考えて。



「では実食。いただきます! ……うん。美味い!」


 ナイフとフォークで行儀よく、一口大にホットケーキを切って口に運んでいくオジサン。みるみる内にホットケーキは小さくなっていき、


「うん。美味かった。しかし、もう一枚あるなぁ」


 一枚目を軽く平らげると、オジサンはもう一枚の方に目線を向ける。


「こちらも食べてしまおうか。だが、大人として子供を放っておいて二枚目に行くというのは少々大人げない。なので……

「い、要らないよ。この幹部候補生のネル様にそんなの食べている暇なんて」



 ぐぅ~~。



 部屋に響き渡る間の抜けた音。……認めない。認めないよっ! 多分あたしの顔は今真っ赤になっていると思うけど、断じてこれは腹の虫なんかじゃないよっ!


「身体は正直だな。さあクソガキ。


 あたしの選んだ皿に、さっきと同じように化粧を施されたホットケーキが僅かに湯気を立てて乗せられ、あたしの前に差し出される。


「はぁ……はぁ……だ、ダメっ!? 要らないっ! 邪因子の活性化には寧ろ飢餓状態の方が」

「ちなみにこれは余談だが、過度な食事制限を長く続けていると身体がそれに慣れてしまう事がある。だってな。そうなったらそれこそ邪因子の活性化には良くないんじゃないか?」


 くぅっ!? オジサンのくせに正論をぶつけてきたっ!?


「でも……でも、あたしは、お父様の為に」

「なら免罪符を一つ。そのお父様はお前が幹部になることを望んでんだろ? だけどこのまま飯を食わずに体調を壊したら、それこそ昇進試験どころの話じゃない筈だ。つまり、。違うか?」


 そこであたしは押し黙り、オジサンをじっと見る。一つ一つ逃げ道を潰していくこの感じ。まるで相手の掌の上に居る感覚。これがまさしく“悪”なんだろう。


 あたしはふらふらとナイフとフォークを手に取り、そっと一口分を切り取る。あとは口に運ぶだけ。……だけど、


「あ、あたしは次期幹部候補筆頭ネル・プロティっ! けして、けっしてオジサンの思惑通りになんかなったりしないんだからっ!」


 そう。


 幹部候補生としてのプライド。ここで食べたらなんか負けた気がするという反骨心。やっぱり食べないでこのまま飢餓状態を維持した方が邪因子の活性化に繋がるんじゃないかという疑念。


 それらがギリギリでホットケーキを口に運ぶ手を押し止めていた。後はこのまま皿に戻せば、


「……仕方ない。ではこっちもとっておきを出すとしよう」


 オジサンはそう言って、買い物袋からある物を取り出す。それは、


「何の変哲もない。だが、それをこの温かいホットケーキの上に落としたらどうなるかな」

「や、止めっ!?」

「トドメだ」


 ポトリ。


 温かいホットケーキに白いバニラアイスが落ち、その瞬間冷たさが熱さに負けて蕩けだす。


 バター。ハチミツ。チョコレートに加え、甘いバニラの香りが鼻孔をくすぐり……そこであたしの意識は真っ白に染まった。









 ごめんなさい。お父様。


 あたし……食欲には、勝てませんでした。

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