14章.犠牲(1925年7月30日 4:30)

「具合はどうだ、藤乃」部屋に入ると真っ先に妹の顔色の悪さが目に入った。

「お兄様、ええ大丈夫です」

昨夜、無理な「修行」の途中で倒れて以来、昭三には心が休まる時は無かった。藤乃は美しく、華奢な体は今にも消えてしまいそうな儚さがあった。

「お爺様達は頭がおかしくなった。科学万能の世でこんな事にお前を使うなんて、人間性を捨ててしまったのだ」

「お兄様、またそのようなことを。おじい様に聞かれたら大事になってしまいます」

「いいや、誰かがこの連鎖を断ち切らねばならないのだ、藤乃。お前は犠牲になる必要はない。この忌まわしい定めに振り回されるのは間違っている」

「でも私たちは『オオゲツ様』の力によって繁栄し続けてきたのです。それは本当の事でしょう。一族の繁栄の為ならば、些細な犠牲は受け入れるしかありません」

「藤乃、それは思考の停止だ。前時代的な力によって見せかけの繁栄を続ける時代は終わらさなければならない。私たちに必要なのは人として生きる勇気だ。『オオゲツヒメ』ではない」

「それは無理ですよ、お兄様。私たちの一族は『オオゲツヒメ』に頼って生きてきました。『オオゲツヒメ』はもはや我が一族の生命線であり、運命共同体です。『オオゲツヒメ』を失えば、灯台の明かりを失った船と同じです。一族の存続は不可能でしょう」

「藤乃、お前はそれでいいのか。過酷な修行という虐待を受け、そして待っているのは、『オオゲツヒメ』の器として生き続ける、いや存在し続ける事だぞ。お前は永劫の孤独の中に閉じ込められるのだぞ。そしてその対価を受け取るのは浅ましいあの男だ。祖父もあの男も腰抜けだ。多くの人間たちを蒙昧として見下しているのに、その実『オオゲツヒメ』の傀儡じゃないか。これは人間として生きているとは言えない」

「お兄様が私の身を案じてくれるのはうれしゅうございます。ですが私も千家の女でございます。物心ついた時から覚悟はできています」

「諦めないでくれ、藤乃。お前だけが私の家族なのだ」

「でしたら、お兄様。お兄様が私を解放してください。『オオゲツヒメ』の力はすでに私の身に宿りつつあります。好むと好まざるとも私には自分の運命に従うほかありません。ですからお兄様、私は何時までもお待ちしております、時間は十分にございますので」

「俺は呪法などには頼らない、必ずや科学の力で、人間の力で『オオゲツヒメ』の力から解放してやる。必ず、必ずだ。待っていてくれ、藤乃」


またあの夢か、最近はあの夢をよく見る。目覚めの気分は良くなかったが、もう慣れてしまった。あのような夢を見るということは自分の心の中では未だに藤乃への執着が残っているのだろう。自分は若かった。そして傲慢だった。美しかった妹があのような姿になってから50年が経過した。藤乃の意識はまだ残っているのだろうか。まだ自分を待っていてくれているのだろうか。一族の使命から逃げ、『オオゲツヒメ』から逃げ、妹との約束から逃げ、逃げ続けた人生だった。気が付けば、自分は嫌っていたあの男と同じような道を歩んだ。言い訳ならばいくらでも思いつける。だがどのような弁を、理をもってしても自分を騙すことはできなかった。

最近は自分の成した事を思うと胸が張り裂けそうになる。自分を裏切った人間も自分を嫌った人間たちの事も今なら許すことができる。自分は人の信頼にこたえられるような人間ではなかったのだ。肉体も精神も衰えた。だが、衰えたからこそ自覚できる。許すこともできる。

藤乃が「オオゲツヒメ」になってから50年の時が流れた。若いころの自分は科学の万能性を信じていた。一族を解放し、愛する妹と同じ運命をたどる人間を増やしたくなかった。救えると信じていた。それは傲慢であったが、自分であるならば可能だと信じた。だが結局は何もできなかった。時を経て、自分の成したことを考えると「あの男」と嫌った父親と同じだった。憎んだ能力を持って財を成し、名声を得た。だがそれが何になっただろう。自棄になっていたとすることもできるが、自分を騙すことは結局できなかった。去っていった友人も自分を裏切った恋人も今ならその気持ちも理解できる。自分は愚か者であった。ただそれだけの事であった。

しかし、今更ではあるが「オオゲツヒメ」から一族を解放する算段は整った。自分の血が絶えれば、もはや「オオゲツヒメ」の力を使う事は無いだろう。そのような契約だったからだ。あとは自分が死ぬことですべてが達成される。晃には迷惑をかけるかもしれないが、大丈夫だろう。晃には才がある。一族を継いでいけるだろう。千家の穢れた血は私で終わるのだ。心残りなのは藤乃の事だ。約束は果たせなかった。藤乃は何時まで存在し続けるのだろうか。古文書を見る限り、オオゲツヒメの力はおおよそ70年位で無くなるとされている。その後「オオゲツヒメ」だった人間はどうなるのだろうか。「オオゲツヒメ」になった直後から人間としての自我を失うのだろうか。そんなわけではあるまい。千家一族はオオゲツヒメに祈祷し、政敵や商売敵、邪魔者どもを排除してきた。それはオオゲツヒメに自分たちの願いを告げて目的を示さねばならない。その願いを叶えるかは「はすたぁりく」ではない。意識を統合し、自我を形成するオオゲツヒメの判断によって行われているのだ。それはつまり藤乃の意識は「はすたぁりく」に取り込まれ、「はすたぁりく」そのものになっている。彼女の意識は今も続いているのだ。妹が今何を考え、自分の状況をどのように捉えているのだろうか。死後も千家家に支配され続ける今の状況は決して幸福などではないと思っている。死ですら妹を解放する手段にはなりえないのだ。そして彼女が千家家の願いを聞き続けている理由は一族の血を引いているから、ただそれだけである。我らの一族は犠牲になった女性たちの義務感と慈悲に支えられているのである。

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