幕間2.折口 忍の事情

下宿先に帰ると師から頼まれていた雑用をこなすことになった。論文の要約文の作製や英文の翻訳などである。師が研究しているのは民俗学である。欧米では「フォークロア」と呼ばれる学問で主に民間に伝わる伝承や信仰、言い伝えを研究し歴史を新たなる観点から再構築・観察しようとする学問である。日本ではまだなじみのない学問である。師である柳田国男はこの学問の先駆者であり、現在は資料集めや現地調査で自宅にいる事は少ない。師は山人信仰等、山岳部にある独自の伝承に着目し、現状の歴史考察に関して新たなる観点を確立することを目的としていた。

 自分はというとそこまでの気概は無い。大学生になったのもたまたま幸運が重なっただけであり、卒業後は役人になるとか学者になるなどの進路の事はあまり考えていない。同じ書生仲間からは民俗学など研究する価値が無いとか、金にならないという理由で民俗学を敬遠するものも多かった。自分が民俗学を始めたのは単なる好奇心である。昔から歴史の勉強は好きだったし、一通りの勉強はしてきたとの自負はある。民俗学はそういった自分の歴史観に新たな観点を設けてくれた。単純に面白かったのである。

 今の時代、大学生に求められるのは将来の政界・財界・諸学問の学会の牽引者となることである。そういう意味では自分は異端だ。ただ何となく流されるままに東京に出てきて金にもならない勉強をしている。卒業してもこれといった職に就ける可能性は低いだろう。そういう意味では学費を出してくれている鷹司家には申し訳なく思っている。何となくだが師の後を継いで民俗学の研究者に進むのだろうと漠然と考えている。

 お嬢さんを見ていると漠然とした劣等感を感じる。この時代、女性の社会的地位は低い。最近でこそモダンガールや職業婦人という言葉が浸透し、社会に進出する女性も現れた。お嬢さんはある意味では社会の先頭にいるような女性だ。勿論、鷹司家の財力や権力の為に生活の為に働かなくても良いという環境の影響もあるからでもあるが、自立した女性になろうとして、懸命に仕事をこなしている。自分にはそんな情熱は無い。ただ流されるままにここまで来てしまった人間だ。生きる意欲というか目標をもって生きる人間が正直うらやましい。

 大学には明日の日本のためにと懸命に学問を修める人間は数多くいる。自分はそんな意欲も無けれれば、研究内容も社会や国家にこれといった貢献はできないだろう。勿論、師に話せばそんな事は無いと叱り飛ばされるだろう。

 どうにも自分の人生を振り返ると覇気というか気概というか、ともかくそういったやる気のようなものから縁遠い生き方をしてきた。実家はただの商家なので本来なら幼少期から丁稚奉公などに出され、家を盛り上げるために働いているべきだったのだろう。だが自分は商売というものにもやる気が見いだせなかった。そして何となく勉強していたら、そこまで好きなら学生をおやりなさいと言ってくれた祖父の意向で学問の道を歩むことになった。他の兄弟たちはもう立派な商人になっており、家業の一部に参加している。もう家には自分の居場所は無いだろう。皆が懸命に働いている中で、学生などの身分でのんきに暮らしている自分は家には帰れない。忍はそんなとりとめのないことを考えながら師からの頼まれごとをこなしていった。

「折口、戻っていたのか」

夜も遅いが下宿先の書生の先輩が声をかけてきた。この先輩は経済学を専攻していた。将来は官僚になって国の中枢に関わる仕事をしたいと普段から公言していた人だ。

「ええ、鷹司家の雑用していたら、遅くなってしまって」

「ふん、まあいいだろう。鷹司家は名門華族だ。貸しを作っておいても損は無いだろう」

「そこまでは考えていませんが……、学費を出してもらっている以上、御機嫌は取っておかないと」

「うむ、世渡りは上手い方が良い。なあ折口、お前やっぱり専攻換えたほうがいいんじゃないか。お前語学は堪能だし、文献調査や書類仕事も速くて正確だ、もっと自分の才能を生かせる生き方をした方がいいと思うぞ。師は民俗学なんてやっているが、そんな学問で食ってはいけまい。もっと社会や国家に貢献できる仕事をした方が良いと思うのだが」

「ええ、まあそうですね。自分でももう少しうまい立ち回りの仕方はあるとは思いますが。でも自分は民俗学が好きなので、もう少し研究してみます」

「そうか、まあいいだろう。お前の人生だ、お前の生きたいように生きればよいさ。だがいつまでも学生をやっているわけにもいくまい。今更実家に戻る気は無いのだろう。お前が商売人に向いているとは思わないが、やっぱり大学に残って研究者になるのか」

「どうでしょうね、そもそも大学が民俗学を言うものを学問として認めてくれるかどうかという点から問題になりそうですが」

「師が研究しているのだから、何とかしてくれるだろう。正直俺には民俗学が何の役に立つかは分からないが、今後の身の振り方だけは考えておけよ。学生でいられる期間は短い。先の事を考えておけよ」

そういうと先輩は部屋から出て行った。

「そうなんだよな、わかってはいるんですけどねぇ」

そう独り言ちた。忍もまた人生に迷っていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る