第1章 第3部 最終話

 翌朝。

 

 其処では、少し信じられない光景があった。

 夕べ焔が泊まったのは、確かに秋仁の家だったし、今立っているのも、その玄関先である。

 「お弁当持ちましたか?」

 少しつり上がり気味の教育ママ的な眼鏡を掛けて、美箏を二十年ほど大人に成長させた、非常に知的で、少々神経質そうな女性が、焔に手弁当を渡している。

 

 下品に振る舞うはずの焔が、娘でさえ気むずかしいと思う母から、それを貰っている。俄に信じがたい。

 「いいな。母ちゃんの手作り弁当なんて、美箏が羨ましすぎるぜ」

 焔はワルガキのように行儀良く並んだ白い歯を見せる。それを聞いた瞬間、黒野文恵つまり美箏の母は、思わず涙ぐんで、焔をヒシと抱きしめるのだった。

 当然はじめは、焔の女子らしくない言動や服装に文句を言っていたが、彼女は来客を追い返すほど無情な人ではなく、鋭児の友人であるということから、思いの外それを快諾する。

 寧ろ美箏の方が敬遠がちだったのだ。

 切っ掛けは食事の際、焔が母の味を知らないと言うことからだった。当然その暖かみを知らないわけだし、何を言おうか、文恵は料理が上手なのだ。しかも、とても行儀良く皿に並べられた見栄えの良いものなのだ。

 子共のような性格の焔は、当然食事のマナーも注意されるのだが、「とても美味しい」という一言や、それが母の味なのかという言葉を何度も言いながら、本当に美味しそうに食べるものだから、彼女の方が食事を進めてしまうほどだった。

 それほど焔は美味しそうに食べるのだった。

 焔は一宿一飯の礼として、彼女の背中を流すことにした。それは大人になりつつある美箏ですらすでにしなくなったことであるが、焔は構わずそうするが、寧ろ子共のような焔なので、結局世話を焼かせてしまう始末なのだ。

 「もっと、ちゃんとしなさい」

 という文恵の一言に、焔は悪気無く笑うだけだったが、確かに焔にとって、それは今まで知らない匂いだった。

 

 「俺も、飯作れるようになったら。鋭児の奴、喜ぶかな……」

 焔はすこしだけ、苦手そうに笑う。それは吹雪に出来て自分には中々出来ないことである。

 それは、間違い無く性分といったところなのだが、ふとそんなことを思う。

 そう言う焔は、本当に鋭児が好きなのだろうと、美箏は思うし、秋仁は思う。

 「また、遊びにいらっしゃい。そのときにでも、少しずつ教えてあげるわ」

 そう言う、文恵の表情は少し迷惑そうな表情ではあるのだが、決してそうではなく、照れ隠しのようなものが入っていることは、秋仁にはよく分かる。彼女が元々世話好きであるという部分が、非常に良く見える一幕でもあった。

 それは、娘の美箏でさえ焼き餅を焼いてしまいそうなやり取りだ。

 「そっか!何だかんだ言っても黒野家の味だからな!まぁ大学行くようになって、暇出来たら、そうするかな」

 焔はウキウキと、嬉しそうな表情をする。焔にとって、吹雪の料理とは、また価値の異なる味なのである。年月の分、そして文恵の積み上げた努力の分、その味の深みは全く違うのである。……がしかしである。

 「あの子は!あの子は、一度だって私のご飯を美味しいだなんて、言わなかったわ」

 思わず、声を荒げてしまい、そして、続いて悔しそうに呟く文恵が何とも悲しげだった。

 流石に今まで穏やかなだったはずの空気が、緊張に張り詰めてしまったものだから、焔も目を丸くして、驚いている。

 ただし、彼女の性格上おびえると言うことは、無縁だった。

 しかし、驚きも僅かで、とたんに焔の表情が一変する。眉は釣り上がり、怒りに歯をきしませ、何かに対して下から睨み上げる。ただし、それは文恵に対してではない

 「あの、クソ鋭児!こんな旨いモノ食ってなんも反応ないのかよ!零点だ零点!。任せろ、絶対俺が一発ぶん殴っといてやるからな!」

 鋭児の味方である筈の焔が本気で鋭児を殴りに行きそうな様子である。勿論本当に殴るのだが、その本気度が文恵には信じがたかった。

 「ぷく……あはは。貴女って子は!」

 自分にも鋭児にもないストレートさが焔にはある。文恵は思わず笑わずにはいられなかった。

 「また、遊びにいらっしゃい」

 文恵は、元気な男の子のような、女子である焔を一度ギュッと抱きしめて、その背中を落ち着かせるように、トントンと二度ほど優しく叩く。

 それは、赤子の背中をあやすような加減である。

 「おう。今度鋭児連れて、土下座させに来るぜ。今日はグシャグシャだから、勘弁してやってくれ」

 「そうね……あの子が泣いたなんて。もう十年もなかったことでしょうから……」

 焔の一言に掬われた。間違い無く文恵はそう思った。

 

 秋仁は焔を送ることにする。

 美箏は行かないらしい。彼女には彼女の用事があり、泣き明かした鋭児を見ることが出来なかった。少なくとも、その一端には自分の生活が関わっているのが、少し辛かった。

 

 その車中。

 「いや、焔ちゃんはすごいね。俺も絶対雷落ちるとおもったんだけどな」

 「そうか?ま、俺も吹雪みたいに、淑やかにしてれば、もうちょっと色気とか言われんだろうけど、ガラじゃねぇし。でもよ、鋭児の奴がウジウジしてるからワリィんだ。あんなに旨いもんを、旨いっていえねぇあいつは、間違い無く零点だよ」

 「そうか……」

 「しっかし……俺は真っ先に髪の毛、黒く染めろ!とか、言わると思ったけどなぁ。それくらいは話から、想像してたけど……」

 「ああ……茜さんが、そんな感じの髪の色してたからね。けど、文恵が今の焔ちゃんの話通り、黒く染めろ!って、言われて、困りながら染めてたっけかな。それが地毛だっていうのも、後から解ったけど、黒い方が落ち着いて見えたから、茜さんはずっと染めるようにしてたよ」

 と、其処まで言われて、焔の顔が少し強ばる。

 そう、それは鋭児が突発的に強い力を手に入れたわけではないという、確たる証拠なのだ。

 「おっちゃん……」

 「ん?」

 「鋭児のかあちゃんの旧姓って?」

 「ああ……えと。そういえば、言いたがらなかったかな。なにやら断絶だのどうのとかで……。二人は席こそ入れたが、そう言う大々的な式も上げてなかったし……」

 「そか……」

 「なんだいなんだい。鋭児のお嫁さんになるために、あの社長さんと同じように、下調べかい?」

 「へへ。まぁな。コレでも鋭児の童貞奪った女としては、そこんとこしっかり握っとかねぇとな!」

 「はは。焔ちゃんは、ホントざっくばらんだね」

 あまりのも明け透けすぎる焔には、大人の方が困ってしまう。

 確かに焔には淑やかな色気はないが、大胆で健康的な彼女の服装は、瑞々しくて思わず目を見張ってしまいそうになる。

 「鋭児の両親て……どこで知り合ったんだろうな。どうやったら、あんな真っ直ぐじゃねぇのが育つんだか……」

 焔は態と鋭児を悪者にして、からかっているように見える。だが、彼女の意図は少々違った。それは、とても高校生らしからぬ探りである。

 彼女は、勉学こそ、等閑(なおざり)にしてしまっているが、思考そのものは単純なようで、一度狙い澄ませると、これで中々クレバーなのだ。

 彼女とて、いつもバカばかりをやっているわけではない。

 「おいおい。今のは鋭児に聞かせられないぞ?」

 「はは。まぁ気になるじゃねぇか。オバサンの弁当もらってよ。鋭児はどんな風に育ったのか、どんな両親に育てられたのか……俺はそれこそ、そんな思い出ねぇからよ」

 それは間違い無く焔の本音であった。

 「まぁ……詳しくはないが、しばらく街を離れて仕事をして……そういえば、徹人の奴、どんな仕事をしてたのかな。始終飛び回っていたのは確かだが……」

 なるほど……と、焔は思う。ぼんやりとでは有るが、大筋ではあるが理解した。

 第一条件に、蛇草が鋭児の身辺を調べたと言うこと、それに加えて、彼を安全だと評価したこと。そして、黒野鋭児の母、茜は、黒髪ではなかったこと。

 鋭児の父親は、仕事でこの町に滞在している事は少なかったこと。黒野鋭児の父親がどういう学校に通っていたか?などは、聞かなくて良い。

 どうせ、秋仁は知らないだろう。ただ、推測するとするならば、全寮制の学校だということくらいしか言えないはずだ。

 いや……焔は少し考える。恐らくそれは、二人だけの間でやり取りしてもいいのだが、それは今でなくとも良いし、聞かなければ何らかの非常事態に陥る訳ではない。

 諄いようだが、それは蛇草が下した選択肢が、その判断材料になる。

 「まぁ、俺にしろ、吹雪にしろ、なかなか、見応えのある花嫁姿になると思うぜ?鋭児の奴は、両方とか強突く張りな事いうだろうけどよ」

 と、話をお茶に濁すようにして、カラカラと笑う焔だった。

 「そう……か。さて、何年後の話だろうねぇ……」

 若くて無謀で自身たっぷりな焔の発言は、本当に若々しいと思った。そして、その型破りな純愛が、実るかどうかは、彼ら次第であると、秋仁は大人の余裕有る笑みを浮かべる。

 

 この後、焔達は鋭児と合流し、蛇草との合意により、黒野家は無事に彼らの手元に残ることとなる。

 とはいうものの、蛇草もそれほど甘いわけではなく、鋭児は働いて、これをきっちり買い受けるというのが、正しい条件で、それまでは東雲家の所有物としておくそうだ。

 どのみに、仮に、万が一、鋭児に何かが起こったとしても、この家が見知らぬ誰かに譲られ、立ち入ることの出来ない場所になることはない。

 そして今はそれだけで十分だ。

 涙の晴れた鋭児は、本当につきものが取れたような、穏やかな目をして、焔達共に学園に戻るのだった。


 

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