第26話 母の盲目

 取り次いでもらって部屋に入るや否や、ユーレイリアは帰りたくてたまらなくなった。

 王妃と王太子の顔は知っている。今、部屋にいる二人がその二人であることは間違いない。だが、ここまで険悪な関係だとは、一度も聞いたことがなかった。

 ユーレイリアの父母も仲は良くないが、父は怒鳴ったり機嫌を悪くしたりはしないので、こうもあからさまな空気の悪さに晒された経験は、あまりない。すぐに体が縮こまり、冷や汗が背に滲んだ。

 だが、母ヘネは強かった。発言は愚か、衣擦れすら忌避されそうな、張り詰めた空気をものともせず、王妃に丁寧に礼をとった。だが、同じ部屋にいる王太子は我関せずとばかり、窓の外をみている。

 「恋人」が同じ部屋にいるのに取る態度では有り得ない。

 母の思惑通りに、事が進むはずがない。

 ユーレイリアは、生まれて初めて、領地の屋敷へ帰りたいと思った。あの地の平穏を守るために、後継としてもう少し真面目に努力してもよいと。母が、父とユーレイリアを置いて移住した、領地の中でも王城へ近い街、そこに何度長期滞在しても、一度も思ったことはなかったのだが。


「……こほん、このたびはご招待いただきまして、心より御礼申し上げます。私はネクトルヴォイ領主夫人のヘネ。こちらが、娘のユーレイリアですわ、王妃陛下、王太子殿下」


 紹介されて渋々前に出たユーレイリアを見て、王妃は化粧越しにも青白く見える顔を、嫌そうに歪めた。いや、少し、怯えているのだろうか?


「貴女は、ユーラではないの……?」

「あの……」

「ユーラですわ、王妃陛下。我が家ではユーレイリアだけが嫡子ですので、可愛がって、いつもユーラと呼んでいたのです。ねえ、王太子殿下」


 ねえ、ではない。今、絡んでよい状態かどうか、王太子を見れば一目瞭然だ。なぜ、母はここまで強く出られるのか。ユーレイリアは、母の知らぬ一面を見てしまった衝撃もあり、口を半端に開けたまま一言も発することができなかった。

 案の定、王太子殿下は返事どころか、視線すら寄越さない。


 だが、ユーレイリアが城に着いてから仕入れた情報によれば、これが殿下の通常のようだ。

 たしなみを超えた剣の腕を持ち、鍛えられた体躯は美事。執務も的確迅速で、政治の機微にも敏く、また、学び続ける意欲が高く、多くの実力ある若者を採用して周囲に置き、互いに切磋琢磨して能力を引き上げているという有能ぶり。

 一方、性格は厳しく冷淡と言われている。自分同様他者にも厳しく、能力以上のことを求めがちであり、それは令嬢にも適応されるため、誰にも平等な反面、令嬢受けの良い紳士的な振る舞いとは無縁の青年。

 だがそれでも令嬢方に非常に人気があるのは、王太子が唯一、王妃とともにある時だけ、柔らかな表情を見せるからだったのだ。ひとたび懐に入れたのなら、きっと自分だけが、優しくしてもらえるはず。そんな夢見がちな令嬢はとても多い。


 しかしこの室内の空気に触れてしまえば、そんな幻想は穴を掘って埋めろと言いたい。いや、そもそも、母親にだけ優しいという男が、果たして優良物件なのか——?

 王妃陛下の手紙を利用すれば王妃陛下を大切にする王太子殿下が断るはずがない、と思いたいヘネには、都合の悪い光景は一切見えなくなっているようだ。当然、額に汗まで浮かべるユーレイリアにも、気づかない、あるいは、気づかないふりだ。


「ほほ、私も、王妃陛下からお手紙をいただくまではまったく存じ上げませんでしたわ。とても上手に隠していらしたんですね。反対などいたしませんのに。どうぞ、堂々とエスコートをお願いいたします。——実は、お呼び立てに応えるのに致し方なかったとはいえ、ここに参りますまでにもたくさんのお客様がいらして、その中を来たのです。私どもへのお呼び出しは、すでに皆さまご存知のこととなりました。

 万が一ですけれど、もしここにきてエスコートを断られたりいたしましたら、この子の一生の恥になります」


 もう、やめて。

 ユーレイリアの手が、抑えようもなく震え始めた。

 初めは怯えや後悔のような表情をしていた王妃が、ヘネの言葉を聞くにつれ、眉を釣り上げ、頬を赤らめ、口元を引き結んで、怒りを示し始めている。当たり前だ。ヘネは明確に、ユーレイリアの人生を盾にして脅しているのだ。

 その脅しが、一体何になるのだろう。

 何もかも、母は見えていないのだろうか。——見えて、いないのだ。


「お母様、何かの間違いです」


 袖を引いて小さく訴えたが、笑顔のまま黙殺された。

 王太子が、こちらを向いた。

 その、目が、こちらの何も映していないようで。母を、虫けらのように見て。


「お、お母様! わたくしは、王太子殿下とは初対面です。こうしてお会いして、確かに初対面だとよくわかりましたわ。ですので、恐れながら、王妃陛下におかれましては、何か取り違えがおありだったのかと。そう、ユーラという名の、別の娘がどこか——!」


 声を振り絞り、母の腕を掴むが、思い切り振り払われた。

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