第24話 踏み躙られる

 宴の会場は城で一番大きな広間で、今やその周辺には、会場入りに先んじて待っている令嬢と付添たちでざわめいていた。

 今回は王妃が王太子のために客を招待した宴なので、王太子といえど誰より早く会場に入り、客を出迎えることになっていた。その時間が迫っているのはわかっていたが、ユーラの姿が見えないかと、リューセドルクは広間から隠し階段で上がる上階の窓から、秘かに彼らを見下ろしていた。

 だが、ユーラらしき姿は見つけられなかったし、見つけられたとしても、気軽に話しかけることは難しい。今も客人たちは、会話の合間に辺りを見回し、人待ち顔だ。宴の目的から言っても、リューセドルクの気配を探しているのだろう。特定の誰かに声をかければ、収拾が付かなくなりそうだ。

 リューセドルクは諦めて、努めて平常通りの足取りで、客たちの視線を避け、東の塔、王妃の居室に向かった。



 竜舎を立ち去る時、どうしても我慢できずに、遠回りをして二人の客間に庭側からこっそりと向かえば、幸いにも、偶然ユーラに会うことができた。昨夜預かった子豚がいつの間にか姿を消していたのも気になって、と訪問の言い訳も用意していたのだが。言い訳を完全に忘れ去ったのは、出会ったユーラが濡れ髪で、その水気を吸った衣服が体に張り付いているという姿だったせいだろう。

 おかげで何もかも、やらかした。

 出会い頭は許してもらうとして、紅潮した肌があまりに鮮やかでまじまじと見てしまったし。ユーラが妃選定に参加する可能性が零ではないことがチラついて、まともな会話ができなかったし。なんなら、宴へ誘おうと思って誘惑を仕掛けたら、つい、思わず、魔がさして、口付けをしようとして、しかも、避けられた。さらに、逃げられた。

 仕方なく部屋に戻る道中、護衛からはずっと生温い視線が向けられ、部屋に着いた途端に濡れた布を渡された。「唇から血が出ています」と言われ、歯をぶつけて唇を切ったことを指摘された。反応したら負けだと、素知らぬ顔で受け取って拭ったが、「初々しくていい」と言ったやつは、蹴っておいた。


 しばらく憤然としていたが、とにかくもユーラから宴に参加するという言葉は聞いた。それを思い出してからは、羽根で撫でられるようにそわそわと落ち着かないままだ。

 立場上、常に複雑に絡んだ問題が山積しており、一つが解決しても山は変わらずそこに有り、時間が経てばすぐさま別の問題が積まれていく日々を過ごしている。立太子ごろにはすでにその果てしない泥試合が一生続くことを悟っており、無駄に一喜一憂することはなかったはずだ。

 それがこうも浮かれるとは。

 対の星であることを有効に使わせてもらおうなどと、くだらないことを考えていたものだと思う。


 浮かれていると、足元を掬われる。

 重大な問題を再浮上させておこうとして、とっさに思い浮かぶのは、昨日までいついかなる時も頭の中に居座っていた、竜たちの問題だ。だがこれは、見る間に解決されようとしている。

 では、とガゼオのことを考える。だが彼は、リューセドルクすら初めて見るほどに艶々と健康そうになっていた。森へ送り出すにあたっての思いはあるが、あとは彼次第であり、リューセドルクにできるのは成功を祈ることくらいだ。残念な結果となって帰ってきたら、あまり根掘り葉掘り聞かずに好きな食べ物でも用意するか、と年長ぶって算段をつけると、ガゼオについても悩むところがなくなった。

 では、父王が引きこもりがちなことか、と思ったが、すでに今の状態になってから数年経っている。代理を務めるのにも慣れてきた。また父王が短時間ではあるが毎日、政務の肝心の決断を下していることを知っているので、大して心配すべき段階ではない。

 では宴はといえば、すでに地獄のような準備期間は終わり、これから数刻の間の忍耐で、すべてが終わるところまできている。


 差し迫った問題がない。そんなことが、ありうるだろうか。

 腑におちずに首を捻っていたが。

 ふと、それがおかしなことであると思い至った。悩んでいなければ落ち着かず、追い立てられていないと正常ではないと感じるのは、異常なことだ。そんなことにも、これまでは気が付くことができなかった。


 警備兵が立ち並ぶ城壁の上、東の塔へと入る扉の前で、はあ、と声を出して息を吐けば。この数年で初めてといっていい、空白の時間が訪れた。

 目を閉じて、しばし。今、に集中する。

 散逸していた己の欠片が、呼吸と共にするすると集まり戻ってくる様な心地だった。

 満ちてきた、その心で思い描いたのは、木漏れ日に透かした梢の様な、芽吹いたばかりの柔らかな葉のような、明るい緑の目が瞬く様子だった。

 あの目を、もう一度見たい。できれば、間近で。自分の他に、何も映さないようにして。




ー・ー・ー・ー・ー




「リューセドルク!」

 

 王妃の居室に入ると、王妃がこちらを見てわずかに戸惑ったような顔をした。呼びかける声が、いつもより遠慮がちな気がしたが、気のせいだろうか。


「母上、今日はこの様な機会を設けていただき、感謝いたします」

「え、ええ。今日のこと、ちょっと強引だったことは反省してるわ」


 あり得ない回答に、リューセドルクは産みの母の顔を、じっと見た。

 若くしてリューセドルクを産んだ王妃は、いまだに若々しい。自分と同じ色合いと顔立ちだが、客観的には美しい女性だとも思う。だが、立太子してからは特に、接するときはいつも自分が正しいと信じることを言いつけ諭すという話ぶりばかりで、傲慢で尊大、時に迷惑な印象ばかりだ。あるいは突然泣き崩れ、ただ自分のやり方が悪かったのだと、反省する振りをするだけ。

 このように自信なさげに、こちらの反応を気にする素振りなど、かつて一度もなかった。断言してもよい。


 あちらこちらへと泳ぐ目線は、時折リューセドルクの表情を窺うように向けられる。だが、すぐに逸らされて視線は合わない。王妃の両手は、もじもじと扇を揉んでいた。

 これは、一体なんだろう。なぜ急に、こうも変わった態度をとるのか。

 子供じみた仕草であり、よい大人の態度として相応しくもない。が、父と二人、王妃の聞く耳を持たない態度にこそ長年悩まされてきたので、こうしてこちらの意向をうかがう態度が見えただけで、驚くべき変化に見える。

 きっと、だが、表面上のことだ。

 そう冷静な声が頭に響くが、もしかしてという思いは、堰き止めることはできなかった。


「……母上、私が妃選定に前向きではないことを、お分かりいただけたのでしょうか」

「っ、そう、そうよね。私は、貴方の気持ちをわかったつもりになっていて。あなたの意向を無視していたなんて思わなかったの。しかも、結局すべて貴方の負担になっていたなんて、そんなつもりは、なかったのよ。ただ、貴方には幸せになって欲しかっただけ。貴方が幸せになれば、私も幸せだと。けれど、押し付けるつもりは——」

「では、今後は押し付ける様なことはなさらないと?」

「も、もちろんよ、リューセドルク。どうして? 当たり前でしょう? だって私は貴方を苦しめるつもりではなくて、貴方を、少しでも守って助けてあげたいと思っているのに」


 リューセドルクは、足元がぐらぐらと揺れているような錯覚を覚えた。

 目の前の女性は、本当に王妃だろうか。昨日花火について責めた時とは、いや、これまでの長い間見てきた人間とは、別の人間ではないのだろうか。

 訝しんで、目つきが鋭くなったせいか、王妃はみるみる焦り始めた。


「いやだわ、リューセドルク、それだけは信じてよ。私は貴方のことが大事。だから、貴方にとって不都合なことは、しないわ」


 いや、結局言っていることは、自分本位ではないだろうか。自分の母としての思いを疑われることが許容できずに焦っている。そう見える。疑われて当然だと思うほどには、自らの行いを悔やんではないのではないだろうか。


「本当よ。妃だって、私が選んであげなくちゃと思っていたけど、貴方がよい人を見つけているなら、その子でいいのよ」


 ものわかりよく言う王妃に、リューセドルクは慎重に問いかけた。

 

「今までの母上のお言葉とは真逆ですので、にわかに信じ難いですが。ですが、ユーラを招待なさったと聞きました。もしかして、今のお言葉に関係があるでしょうか?」


 母というものは。どれほど相容れないという事実を骨身に刻んで育っても、子供の心のどこかに、深く食い込んで、抜けない。もしかして、リューセドルクのユーラへの気持ちを、母として鋭く察し、受け容れてくれたのかと——。

 王妃は、どこか得意げに顎を上げた。


「ええ、もちろんそうよ。貴方のためにここにご招待してあるわ。今日は会場入りは、ネクトルヴォイの姫をエスコートしなさい。ね。私がお膳立てしたのだから、断る権利などなくてよ?」

「……は?」

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