王太子と救いの娘 ——揺籠に降る愛の夢——
ちぐ・日室千種
第1話 プロローグ、そして旅立ち
昔々あるところに、とても勇敢な王太子様がいました。王と王妃自慢の、民思いの王太子は、ある時世界を襲った未曾有の災害に立ち向かい、多くの人を安全な楽園へと導きました。
王太子を助けたのは、心優しい魔法使いの娘と、竜でした。
険しい山を越えて、深い森を抜けて、たどり着いた湖のほとりに、竜は王太子のために王国を建てました。魔法使いの娘は、たくさん木や動物たちと仲良くなって、穀物や木の実を集めてもらい、王国は豊かになりました。王太子は、王と王妃を失い、魔物との戦いで傷ついていましたが、魔法使いの娘が優しく看病してくれました。ふたりは結婚して、竜とともに、いつまでも仲良く暮らしました。
めでたしめでたし、と心を慰める、
「そうでなくっちゃ。——だけどね、それだけじゃ、ないはず」
誰かがそう、呟いた。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
ユーラの出立の朝。その年で一番朝靄が濃く、木々の間を埋め尽くしていた。古い力に満ちたこの森にははっきりとした季節はない。だが、はるかに霞むほど森の奥に聳え立つ山脈から、地下に流れ込む清水の量がわずかに増えると、地面はひっそりと潤いを増し、こうして吐息のように靄を吐き出すようだった。
つまりは、山の方では暖かな季節となったようである。
そういえば毎年この時期に渡ってくる鳥たちが、先日から恋に姦しい。ユーラの準備を急かすように、今日も鳥たちは高く低く囀っている。
『うっかり鳥のルコルクウ、日の出の前に起き出して、ヤドリギの枝に巣を張った〜』
気持ちよく口ずさむと、まるで応えるように、ぼとりと目の前にひと抱えもあるヤドリギが落ちてきた。
『あっ、ごめんなさい。つい、言葉に力を乗せてしまったわ』
立派なヤドリギには力もよく宿っているので、ユーラの鼻歌にも反応してしまったのだろう。そっと両手で抱え上げて靄を透かして見れば、このあたりには珍しく、葉を落とす木が梢を広げている。その枝に、若葉と白い小さな花がたくさんついているのを見て、つい、ぱちぱちと瞬いた。
視線を落とせば、手にあるヤドリギにも小さな花がたくさん咲いている。
『どこもかしこも、なんだか急にうきうきしてるのね』
ひょいと腰をかがめてから軽く地を蹴り、ユーラは綿毛のようにふわりと浮いて、いともたやすくヤドリギを枝に戻してやった。
編み込んでまとめた頭からまとめきれずに溢れた濃い茶色の後れ毛が、着地に合わせてぽわぽわと動く。だが、人の男性と同じ型の服装に、柔らかな革の編上げ靴を履き、必需品の入った小さな鞄を背中に一つ。旅の道中、動きやすく楽であることを目指した姿が、実際、今の動きをまるで妨げないことを確認できて、大変満足だった。
側に置いておいた保温性のある外套をその上に被り、外套で隠れる腰の背側に短剣を吊るした。
そこで一つ、深呼吸。
豊かな水と木と、土の匂い。故郷の匂いだ。
いつもは気持ちを落ち着けてくれる匂いなのだが。抑えきれない旅への期待と興奮で、ユーラの春芽の色の目は、一層きらきらと輝いた。
うきうきしているのは、鳥や木々たちだけではないのだ。
『ユーラ、やはり行くのか。いや、行くと決めたのは知っているが……。迷いはないか? 体調は悪くはないか?』
対照的にしょんぼりと背を丸めた父は、それでもユーラをはるか見下ろす。
ユーラは精一杯に背伸びをし手を伸ばして、父の手を握り、そして、それを思いっきり振り回した。
『大丈夫よ、とうさま! 準備は万端。うるさそうだけど、ケールトナもいるし。わたし、竜たちに会えるの、本当に楽しみ。帰って来たら、たくさん話すことがあるはずなのよね。待っててね』
『う、うむ、ちょっと、やさしく振ってくれんか』
『あ、ごめんなさい』
父は最近、腕やら腰やらを痛めやすいのだった。ユーラは慌てて手を離すと、代わりに父の揺るぎない堅い体に抱きついた。
『いってきます、とうさま。こんな機会をくれて、ありがとう』
『うむ。一度は、外を見ておくのもよいだろう。心のままに、外を感じておいで。……ああ、けれど、特に面白いものもないようなら、早めに切り上げて』
『いい加減にしましょうよ、叔父上。昨夜もさんざん酔っ払った挙句に泣き言ばかりで。最終的に手を離してみるってことに落ち着いたでしょうが』
別れ難そうな父を、肘でごつごつつつきながら、父の甥にあたるケールトナが冷たく言った。いつもだらだらと屋敷で過ごすことが多く、寝間着のような草臥れて薄っぺらい服をだぼっと来ていることが多いケールトナが、旅支度を済ませているので、見違えた。
なにより、前か後ろかわからない長い髪が、梳られて後ろで一つに括られている。そうしていると、まるで朝露に飾り立てられた蜘蛛の糸のように金銀に煌めいて、見事に光り輝いている。
『ケールトナの顔、久しぶりに見たわ!』
一族にも珍しいその美しさは健在だったか、と感嘆すれば、金色の瞳がこちらに向けられ、無感動な顔でふんと鼻を鳴らした。感じは相変わらず悪い。
『顔を出しておくと、外ではいいことがあるからな。あ、でも残念。お子さまはわかんなくていいんだよ』
『へえー』
いいこととはなにか、気にはなったが、もう出発の時間だ。
待ってくれていた馬に飛び乗って、ユーラは最後にもう一度、父に手を振った。父の向こう、靄に埋もれて見えない我が家と家族、そして他の一族にも。
ケールトナが無言でもう一頭の馬を走らせ始める。それに遅れることなく、『行こう!』と馬の首を軽く叩いたのだ。
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