また悪趣味な……

 



「一体、どうして……こっちに来るな……助けてくれ……」



 人気のない路地裏。 大人の男が絶望と恐怖で顔を歪ませ、何かから隠れるように身を縮こまらせている。



(ベン・ロジャー、30歳、既婚者。 自宅で診療所を開いている。 現在の妻とは医者と患者の関係として出会い、そこから仲を深めついには結婚。 好きなものは妻の手料理、嫌いなものは子供の頃に刺された毒虫、なるほどね)





 ***






「一体何がどうなっている!」



 私は逃亡していた。 ひたすらに助けを求めていた。



「ハァッ、ハァッ……誰か、助けてくれ……」



「まっ、待ってええぇぇ! 行かないでぇええぇ!」



 背後からは同情を誘うような声音の叫び声が聞こえるが、待ってやれる訳がない。 これは決して私が薄情な訳ではない。 



「待ッてえええ!」



「くそっ、ハァっ、付いて来ないでくれ! 誰かいないのかっ!」



 もし他の誰かが私の立場でも同じように必死で逃げるに違いない。 私に追い縋るあの化け物を見たのであれば。



「待゛ッ、デェェェエ!」



 追いかけてくる者の体は人間そのもので、どこにでも居そうな普通の服を着ている。 そして、人の言葉でしきりにこちらを呼び止めようとしてくる。


 しかし、その頭部だけは問題だった。 黒ずんで光沢を放つ硬質な皮膚。 頭の半分を覆うかのような巨大な複眼に、横に開いた鋭い牙の生えた口。 端的に言って、昆虫そのものだった。 



「待ッエ゛ェェエァ! マ゛ッアァァァァァ!」



 待って、待ってとだけ繰り返しているが、その言葉の意味を本当に理解しているのかも怪しい。 人間を騙すための鳴き真似と言われた方がまだ説得力がある。



「くっ……もうすぐ、私の家っ!」



 ここまで死に物狂いで走ったのは人生で初めてだった。 そして私と化け物がこんなにも大声をを上げて走っているのに、街は不気味なほど人の反応がなかった。 普段の街並みなのに、普段と違って人の気配が全くない。 世界から見捨てられたような不安感がある。 だが、もう少しだ。


 曲がり角を曲がり、運良く半開きだった自宅の扉に素早く入り、即座に扉を閉じる。



「ふぅーっ、ふぅーっ、ハァ、ハァ」



「……待っテえええええ!」



 上がった息を押し殺し、扉の外を横切っていく声を聞く。


 とりあえず助かった。 だが、厳重に鍵をかけておかなければ…



 ――あら、帰ってきたの?



 部屋の奥から妻の声が聞こえる。この危機的状況の中では心からの救いだった。



「ぶ、無事か! ハァッ、えっと、お、落ち着いて聞いてくれ!」



 外にいた、あの怪物のことを説明しなければ……!



「あなたノ方こそ、落チ着いた方が、良いわ。 ゴ飯の支、度もモウ出来てイるんだから」



 気のせいか、ノイズが混ざるような声音だった。だが、あまり気にしてもいられない。



「外にっ、人間の体のついた、虫のような怪物がっ……………は?」



 部屋の奥から現れたのは、愛する妻の姿ではなかった。 服装は見慣れたものだったが、その首から上には二度と見たくない異形がくっついていた。


 背筋がゾッと冷たくなり、ドアを蹴り開けて逃げ出した。 私は今度こそ、世界から1人取り残されたような気がした。






 ***






 本人の好き嫌いを記憶から読み取り、より恐怖心や不安感を煽れそうな夢を作ってみた。 



(んー、濃厚で、クリーミー。 ひんやりしてて美味しいなあ)



 意味不明なものへの恐怖と不安は厚みのある口溶けで、体が芯から冷える孤独な絶望は、ひんやり食感。 食べたことのある食べ物で例えるなら、ソフトクリームに似ている。 濃いめのバニラ味。 そして今回の夢はかなり上手くいったと思う。 どうやら妻の存在は普段から彼の心の支えになっていたようで、人格の芯の部分を犯すような味は、今までに無いくらい格別に美味しい。



(思えばたくさん食べてきたけど、デザートは初めてだなあ)



 住む環境が変わってからも僕の食欲は増大し続け、1日に食べる記憶や感情の量も増え続けている。 記憶を食べ過ぎて、もう宿主の彼も、夢から醒めた頃には妻の顔が思い出せなくなっているかもしれない。 食べても食べても食欲がなくならないなんて人生で初めてだった。 成長期ってすごい。 もしくは新生活のストレスで過食気味?


 そんな取りとめもないことを考えているうち、変調は訪れた。



(う……体が怠い。 なんで急に……)



 唐突にずっしりとした虚脱感が全身を襲ってきた。 浮くこともできず、地面に伏してしまう。 そしてついに、全身に全く力が入らなくなる。



(なんか変なもの食べたっけ? お腹冷やしすぎた?)



 まだ異常は終わらない。 今度は全身からどろりとした黒い粘液が滲みだす。 粘液はそれ自体が意思を持つかのように僕の全身を覆い、固まっていく。


 べたべたして、生暖かい。 溺れるのでは、と思ったが息苦しくなることはなかった。 僕は呼吸をしているのだろうか?


 しばらくすると粘液の動きは落ち着き、繭を模した形で固まってしまった。 できあがった繭の表面には卵の時のような紫色の目玉模様が脈動しており、不気味さを醸し出している。



(また悪趣味な……これは、繭? 糸吐いたりしないのか….…)



 どうやら世の中には糸を使わずに粘液で繭を作れる虫もいるらしい。 新たな雑学を得た。 ただ、卵の時と同様に、また動けなくなってしまった。 








 ***







 暇だ。 卵の時は同居人の謎の老人を観察するくらいの娯楽はあったけど、今回は何もない。 虫食いだらけの景色は何の変わり映えもしない。 殺風景にすぎる。




(どれくらい経ったかな……)




 人間の体内時計は、陽の光を基準に調整しているらしい。 昼夜の区別さえ無いこの空間では、僕の体内時計は狂ってしまっているかもしれない。 時間感覚は何の当てにもならなかった。 秒数を数えて時間を測ってみようとしたが、4000を越えたあたりで飽きたのでやめた。 そもそも1秒の間隔すら合っているか怪しい。




(……蛹といえば中身が神経まで全てドロドロに溶けているはずなのにこの思考は一体どこからやってきているのか……そもそも人間の思考ができる脳が芋虫に備わっていた のか……それに僕の記憶は一体どうやって……うん……?)




 背中側からピシリ、と何かが割れるような音。




(お、おお? もしかして、羽化?)




 久しぶりに背中が直接外気に触れた。 背中がスースーする。 確かな変化の兆し。 ついに限りない退屈から抜け出せるという期待が膨らむ。 さっきまで怪しく脈動していた繭がべりべり、ぶちぶちと割けていく。 今までだってちゃんと見えていたのに、初めて光を見たような気さえする。




 そして、世界が、割れた。

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