38「異形の者」
林道を抜けた先の、今はもう人が通ることのほぼないその土地には、小さいながらもかつて栄えていた町があったらしい。
名前もわからない鳥の鳴き声が不気味に響くそこには、一つのホテルが残っていた。
すでに廃墟と化しているそこを訪れたのは、肝試しというよりは虐めに近いものだっただろう。
話はいつの間にか進んでいて、先輩のうちの一人が車を出し、気づけば俺もそこへ参加していた。
サークル仲間の五人を含めた俺たち六人は、暑くも寒くもない昼の二時ごろ、そのホテルの前に到着した。日が完全に沈むにはまだまだ時間がある。
周囲は木々に覆われ、ホテルを除いて、アスファルトの道路以外に人工物は見当たらない。
あたりには長年放置されていたため手入れがされていない草木が
見上げたホテルは、人がいないという点を除けば想像の範囲内の外観で、クリーム色の外壁は経年変化により茶色をしていて、掃除されていない窓ガラスは砂埃で曇っている。
俺たちは早速、デジタルカメラを片手に中へと入っていった。
◆
俺が写真を撮り始めたのは大学に入ってからだ。特にやりたいわけではなかったが、何かはやろうと思っていた所に、たまたま声をかけられて入ったのがこの写真サークルだった。
だが、いざ入ってみれば異常な額の部費の徴収、活動内容に関係のない飲み会の数々。何人もいた新入生は、気づけば自分一人になっていた。気の弱い俺はいまだ抜けれずにいた。
そんなわけで今俺は、こんなところにいるというわけだ。
ホテルの正面玄関は大きなガラスでできていたのだろう。今となっては想像することしかできないそれは、他の廃墟探検家か誰かによって粉々に砕かれていた。
割れたガラスに注意しながら、奥へと進む。
このホテルに来たのは、廃墟なら心霊写真が撮れるだろうというそんな理由だそうだが、真の目的は他にあったようだ。
車中で誰かが、こんなことを話はじめた。
「そのホテルの一番奥にあるエレベーターはなぜか今も動いていて、一人で乗っていると異形の者が途中の階で乗ってくるらしい」
にわかには信じがたい内容だった。それを確かめるというのは建前か、あるいはそこに俺を乗せて、俺を虐めて楽しもうとしているのかは定かではない。
建物の中は当然ながら明かりがついていない。だが昼間ということもあり、どこからか光がさして完全に真っ暗というわけではなかった。俺たちは言葉少なに、目的の場所へと進んでいく。
中は想像していたよりも何もなかった。物が散乱しているわけでもなく、落書きが壁中にされているというわけでもなく、掃除されずに埃を積もらせただけの無音の廊下。
やがて目的の場所へとたどり着いた。
廊下の突き当たりにあった一枚の扉。それは、ただそこにあるだけのごく一般的なエレベーターの扉であるはずなのに、なぜだか妙に威圧感があった。
「それで誰が行くかだが」
ふいに、先輩の誰かが言った。すると、皆の視線が自然と自分に寄る。無言の圧だった。
「自分が、その……行きます」
嫌々ながらも扉の前へと移動する。
「クジ作ってきたから別にお前じゃなくてもいいんだぞ」
別の誰かが、口端で笑いながらそう言った。
「いえ、俺が行きます」
細工がしてあるに違いなかった。それが先輩たちのやり口だった。俺はそれで何度も飯を奢らされてきた。
嫌だったのは、エレベーターに乗って変な体験をさせられようとしていることにではなく、弱い立場に居続ける自分にだった。そう思うそのくせ、現状を打破しようとせず、何かを恐れて放置している。
俺はエレベーターのボタンを押した。
当然何も反応しないと思っていたから身構えてなどいなかった。電気はとうの昔に止められているはずだ。それなのに。
“チーン……”
音が鳴った。心臓が跳ね上がり、一瞬にして全身の毛穴が閉じた気がした。
ゆっくりと扉が開いていく。
中には誰もいない。明かりがついていた。薄暗かった廊下に弱い光が広がる。
「あの、俺やっぱり」
振り返り、俺は恐怖した。
目を異常に細くして笑っている先輩たちが、俺をじーっと見つめていた。貼りついたような不気味な笑み。
「うわあっ」
俺は咄嗟に、エレベーターに飛び乗った。乗ると同時、扉は閉まりだす。
先輩たちは笑っているはずなのに、その目にはまるで生気がなかった。
闇に睨まれているような感覚。
そこから逃げたいという気持ちが一瞬で湧きあがり、俺は一度急いでエレベーターのボタンをランダムに押す。
心臓はバクバクと脈を打っていた。
エレベーターの扉が完全に閉じるその瞬間まで、先輩たちは一言も声を発さずに、異様に笑っていた。
俺を乗せたその箱は、閉まると同時に勝手に上昇し出した。
無機質な機械音が重く響く。
俺は状況の不気味さに少しの間、何もできずにいた。
ふと我に返って改めてボタンを押したが、反応はなかった。
どうなっているのか、まるでわからない。あの表情は先輩たちがわざとやっているのか、それとも先輩たちは、得たいの知れない何かに取り込まれてしまっているのだろうか。
扉の上の階数の表示を見るも、壊れているのか何も変化がなかった。
エレベーターは突然止まった。
扉がおもむろに開く。その時になって、俺は今更ながら思い出した。確か、一人で乗っていると異形の者が乗り込んでくるんだと。
噂通り、誰かが乗ってきた。
やばい! と思ったのに、しかし俺はそれほど恐怖を感じていなかった。異形と聞いていて勝手にモンスターや不気味な怪物を想像していたからだろう。
乗り込んできたのは一人の人間だった。
背は俺とほぼ同じ。格好は大学構内を歩けば二人や三人見かけそうな、ワイシャツにジーパン。
ただ、その顔は確かにおかしかった。
異形とまでは言わないが、変ではあった。
首から上をすっぽりと覆うような四角い箱をかぶっていた。
材質はわからない。段ボールのようにも見えるし、プラスチックにも見えなくはない。
俺はエレベーターの隅の方に寄った。そいつは体をこちらに向け立っている。そして扉は閉まり、再び動き出した。
今、小さな箱の中には、俺とそいつの二人きり。
話しかけるべきなのだろうか。それとも何もせずにいれば良いのだろうか。
エレベーターは上昇しているのかそれとも下降してるのか、それすらわからなかった。
「ところで」
唐突に、そいつは話し始めた。あまりにも不意打ちだったので俺は驚いた。
「君はこの後どうする」
「は……え?」
言っている意味がわからない。
その声は生の人間の声ではなく、変声機を通したかのように甲高かった。
「知っててきたのだろう?」
何をだろうか。
戸惑っていると、そいつは何かを察したかのように頷いた。
「そっか……まあ、でもそんな奴も珍しくはない。ありがとう」
なぜだか感謝された。
「目を閉じろ」
「え?」
「だから、目を閉じろ」
何かされると思ったが、俺は言われるがままに目を閉じた。
頭に重みを感じる。何かを被せられているようだ。
そのすぐ後、エレベーターは止まったようで、扉が開く音がした。
今、外はどうなっているのだろう。俺は目を開けずにそのままいた。
「じゃあな」
小さなそんな声が聞こえた。位置からして、あいつだろうが、声が微妙に違っていた。どこかで聞いたことがある気がする男の声。
その言葉を最後に、音も声もしばらく聞こえてこなかった。
三分くらい経っただろうか。
さすがの俺も行動を起こすことにした。まず、目を開ける。真っ暗だった。頭にかぶさっている何かをはずす。それは、さっき乗り込んできたやつが被っていた箱だった。
そこはエレベーターの中だった。誰もいない。
俺はダメ元でボタンを押してみる。すると、今度は反応があった。エレベーターが動き出す。
しばらく待っていると、エレベーターは止まり、扉が開いた。外に出て階数を確認すると、そこは先程俺が乗った一階だった。
だが、先輩たちがいない。俺を置いてどこかに行ってしまったのだろうか。ありえる話だが、それにしても妙に暗い。
俺は用意していた懐中電灯の明かりで廊下を照らしながら、入ってきた入口を目指す。すると。
「え?」
あたりは真っ暗だった。外は闇に包まれ、肌寒さを感じる。慌てて腕時計で時間を確認すると、針は二時を示していた。そうすると俺は半日以上この建物にいた計算になる。
「そんな馬鹿な……」
嫌な予感を覚え、俺はとにかく車が駐車してあった場所へと走った。だが、やはりと言うべきか、車はなかった。
電話をかけようとしたが、携帯電話は持っていなかった。
俺はどうしようもなく怖くなった。
いてもたってもいられず、俺はとにかくその場を離れたくて、走りだした。
町に戻ってこれたのは、走り出してから六時間ほどたってからだ。記憶を頼りに林を抜け、人通りの多い場所に出てからもひたすら走り、疲れても休むことなく、とにかく歩き続けた。
途中バス停を見つけるも、財布を持っていなかったので乗ることができなかった。俺は途中で力尽き、公園の芝生の上でしばらく眠りについた。
◆
その後、サークルに一度だけ顔を出したが、先輩たちはその件に関してシラを切り続けた。
「なんの話をしている?」「肝試し? いつ? そんなの行ってないぞ」「俺が車を運転してたって? 無理無理。俺、そもそも免許もってないし」「林を抜けた先に廃墟ホテルがあるって……いや、そんなホテル聞いたこともないぞ」「てかお前誰だよ」
まさかここまで俺を馬鹿にしているとは思っていなかった。それっきり俺はサークルに顔を出すのをやめた。すると、あんなにしつこかった部費の催促や飲み会の連絡は、一切なくなった。
意外だったのは、その場に見慣れない顔の人間がいたことだ。新入部員だろうか。変な時期に入ってきたものだと、その時は思っていた。
とすると、俺に代わる玩具を得られたから俺は用済みになった、ということだろうか。
そいつには悪いが、それならそれでよかったとほっとした。
目下の問題は、俺が何者で、家がどこだったのか思い出せない点だ。名前とか住所とか、そんな重要なことが思い出せない。覚えているのは、この大学のこのサークルに所属していたという、ただそれだけだった。
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