あるスチームパンク的東洋風異世界探訪

刻露清秀

「いつぶりかな。誰かに会いたくなるなんて」


 学者は独り言を呟いた。学者というのは無論、この女の名前ではない。だが一人で山に住む彼女にとって、彼女が学者であるということがもっとも重要であって、他の情報は不要だった。


 彼女はその日も、いつものように朝食をとりながら本を読んでいた。彼女の家は小さな山小屋で、その一室が寝室兼書斎になっている。家具と呼べるものは寝台と机ぐらいしかない殺風景な部屋だ。


 一つに縛った白髪混じりの黒髪、日焼けした肌、質素な衣服。鼻が幅広で低く、口は見事なへの字。彼女は若い頃からいわゆる美人ではなかったし、これからもそうだが、野生動物のような光を持つ瞳は、人間を惹きつけてやまない魅力があった。


 彼女はもうここで十年以上、この地で探求を続けている。美人ではないが魅了の才のあった彼女は、若い頃は人の心の移ろいに悩まされたこともあった。今だって基本的に人間が好きではないはずだ。それなのに。


「いつぶりかな。誰かに会いたくなるなんて」


学者はもう一度呟いた。今日は人間に会いたい気分だ。


 それも、できるだけ大勢の人間がいい。そう思いながら彼女は簡素な朝食を食べ終えると、いつも通り食器を洗って片づける。そして服を着替えた。


 着替え終わった時、ちょうどよく戸が叩かれた。


「どうぞ」


学者が声をかけると、一人の少年が顔を見せた。ほっそりと小柄なこの少年は、町の食品問屋の奉公人だ。


「あの、塩をお届けにあがりやした」


 少年は正直なところ、この女に会うのが嫌でしょうがなかった。人嫌いのこの女はいつも不機嫌で、髪もボサボサで、恐ろしい魔物のように見えたのだ。


 ところが今日はどうだろう。少年は彼女の姿を見るなり驚いた。学者は上機嫌で身なりを整え、出かける支度までしているではないか!


「いったいぜんたいどうしたんです? 」


おっかなびっくり質問をすると、学者は上機嫌のまま答えた。


「今日はね、ちょっと街へ降りようと思うんだ。でも一人じゃ寂しいからさ」


 学者はそういうと少年の手を握った。それは一瞬のことだったが、それでも少年には充分だった。


 この女はつまらない日常から自分を連れ出してくれそうだ。子どもらしい直感で、少年は頬を薔薇色に染めた。


「そっ、それならあっしもお供しますよ!」


少年はこの珍しい日を楽しもうと決意した。明日は天変地異かもしれない。




✳︎✳︎✳︎




 学者と少年は麓の町まで降りてきた。


 氷上帝国中部の地方都市であるこの町は、実に平均的な近代都市の様相を示していた。


 異人の発明した蒸気機関が伝来して十年ほどである。氷上帝国は近代化の道を辿っていた。


 この町の変化は激しい。例えばつい半年ほど前には、駕籠かきの走っていた道も、このごろでは、蒸気自動車が汚らしい蒸気を吐いている。殊に、学者のような出不精なものは、それだけ変化にも驚き易く、彼女は呆けたように変わり果てた町を見ていた。


 学者がまだ町にいた頃だって、この町は住み心地のよくないところだった。だが今のこの町は、もっとずっと住み心地のいいところではなくなっていた。


 例えば、大通りのすぐ側を流れる川にしても、学者が若かった時分には、まだ木製の橋もあったし、岸には大人の身の丈を超える草がぼうぼうしていたが、もう今では如何にも都会の川らしい、石橋によくわからない構造物が積み上げられた妙ちきりんなものに変ってしまった。


 殊に学者が奇妙奇天烈に感じたのは、この頃出来たであろう大建築である。蒸気機関で空中にデンと浮かんだ構造物は、幾何学的無機質さと異人風の厭らしさが同居していた。


 何より道が汚い。蒸気機関はただでさえ湿っているこの国に、煤と蒸気を持ってきた。


 早くも町にゲンナリしてきた学者に、少年が声をかけた。


「面白いところがあるんで、一緒に行きましょうや」

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