第十九話 日本式双晶 前編

「どうしても思い出せないんです」

 と、その人は言った。

 なぜこんなことになったのか。いったい何が始まりだったのか。そんなことをたずねていた。

 その人が語ったのはこんな話だ。

「きっかけ、かどうかはわかりませんが……梅雨の合間の、晴れた日だったかな。お出かけ日和で。あのとき、仲のいい友人が深泥池に行こうと言い出したんです。おもしろい噂があるからって。肝試しのようなものだったと思います」

 空木が深泥池の噂について知ったのは、このときが初めてだった。

 どうもこの噂、京都の学生を中心にささやかに広まっていたものらしい。道理で知らないわけだが――とはいえ、そもそもこういったことに興味を持てない空木では、たとえ耳にしていたとしても、覚えていたかどうかはわからない。

 空木はその手の話が嫌いだ。そういった話題が定期的に流行る辺り、世間はそうでもないようだが。ただ、話を聞いていたその人も、その提案――深泥池への肝試し――に喜んで飛びついた、というわけではないようだった。

「私は――行きませんでした。私には、妹がひとりいるんですが、あの子、幼いときにはそういうところをひどく怖がって。今はもう――そんなことはないかもしれませんが、そういったこともあって、私自身も何となく避けるようになっていたんです」

 空木はその話に親近感を抱く。

 怪談だの肝試しだの、そういったものをありがたがるやつは思いのほか多い。それに対して斜にかまえた反応を返そうものなら、怖いのか、などと冷やかされる。興味がないだけなのに。本当に。心の底から。

 ――そんなものに関わったと知れたら、兄貴に何を言われるか。

 空木は怪談で語られるおばけよりも、兄の説教の方が恐ろしい。恐ろしいというか、面倒くさい。避けられるのなら、全力で避けたいほどに。ともあれ――

 その人は、深泥池でのことについてこう話した。

「でも、深泥池に行った子たちは、そのあと、何もなかったよって笑っていました。真昼に散策しただけですし、その、噂――ですか? いろいろと条件があるのだとか……でも、それを実際に試してみただとか、そんなこともなかったようです」

 流行りの場所に行ってみよう。噂の場所に行ってみよう。暇を持て余した若者の行動としては、それほど奇異でもないだろう。そうする者たちも、別に何かがあるとか、何かが起こるとか――そんなことを期待しているわけではない。おそらくは。

「でも、それからしばらくして、少しずつ……」

 その人はその先を言い淀むと、しばしその口を閉ざした。

 話の雲行きがあやしくなった、と思ったのは、声の調子が変わったからだろう。別に、今のところ何か恐ろしいことを話したわけでもない。

 ただ、どうも――その人の心の内には、これから話すことについて、何かしらの気がかりがあるらしい。案の定、その表情は明らかに暗く沈んでいった。

「何が、というわけではないんですけど……サークル内での空気がおかしくなって。といっても、すぐにどうこうなったわけじゃありません。だから、そのときはまだ、深泥池の件とは結びつきませんでした。祇園祭くらいの頃は、特に変なこともなく普通に楽しんでいたと思います。でも、それから」

 急に口をつぐんだかと思うと、その人はふいに、あ、と声を上げた。怖がらせようだとか、そういうことではない。どちらかというと、うっかり、といったときに発せられる、あ、だ。

 おそらくは話の不足に気づいたからだろう。何も知らないような相手にすべてを説明しようと思うと、これがけっこう難しかったりする。話すべき情報の取捨選択、それを開示する順序はもちろん、相手のことも考慮するならば、どれだけ気をつけていても過不足なく、とはいかないものだ。

 その人も、途中で伝え忘れていたことを思い出したらしい。だから、こう補足した。

「私が所属していたサークルは……何て言うのかな。京都の歴史や文化を研究する、という名目でしたけど――ようは、有名な寺社や史跡を見て回る、といったことが主な活動内容で。人数は多いんですけど、わりと自由でした。気楽なサークルだったので、他のサークルとかけ持ちしてる人もいて。深泥池に行ったのも、同じサークルの友人たちです」

 そうして所属のサークルについて話しているうちは、そうでもなかったのだが――続きを話す段になると、その人はやはり表情を曇らせた。

「いつ頃だったかな……何となく、部室にいると不安になる、という話を友人とした気がします。でも、具体的な何かがあるわけじゃなくて。本当に、ぼんやりとした不安。だけど、そんなことを言っているうちに、友人と話していても、何だか気まずくなることが多くなって……塞ぎ込む子もいて。それが少しずつ周囲にも広がっていった、というか……」

 その人は、そこで何かを思い出そうとするかのように目を閉じた。それから、深くため息をつく。

「誰かが、そう言った気がするんです。でも、思い出せない。誰かが、あのとき――これは深泥池の鬼の呪いだ、って……その言葉は、はっきりと思い出せるのに、誰の声だったのか――それが、どうしても思い出せない……」

 雰囲気が悪くなった原因として、深泥池でのことを指摘した誰かがいる、ということだろうか。深泥池に行った友人がそうなのか。それとも。

 そもそもなぜ、そんなことを言い出したりしたのだろう。何か確信があったのか。深泥池の噂は、呪いを引き受けてくれる、というもの。そのサークルが――あるいは、その中の誰かが――呪われていたとして、雰囲気が変わったというだけなら、その話と単純に結びつくとは思えない。

 事実、これまでの話の中ではまだ、呪いだ、などとさわぎ立てるほどの決定的なことは、何ひとつ起こっていなかった。ぼんやりとした不安。ただ、それだけ。それとも、それが呪いだ、とでも言うのだろうか。

 誰かが何かを意図して、という感じはしないが――どちらかというと、それこそ本当に、漠然とした何か――悪霊だの怨霊だの、とにかくそんな感じの何か――に祟られた、と考えた方がしっくりくる。そういうものは基本的に理不尽なものだ、と空木は勝手に思っていた。とはいえ。

 ――深泥池の鬼の呪い、か。

 鬼。鬼とは――何だろう。

 得体の知れないもの。恐ろしいもの。鬼という言葉自体はわりと耳にする方なのに、いざそれが何かと問われれば、はっきりとした答えを示すことができない。

 そんなものが、深泥池にいたとでも言うのだろうか。そして、その場所に行った者たちの中の誰かが、それと出会った――?

 しかし、その人は何かを否定するように、きっぱりと首を横に振った。

「何も……なかったはずなんです。友人が深泥池に行ったときには、何も。それでも、本当はそこで何かがあったか――そうでなくとも、深泥池に行ったことがよくなかったんじゃないか、という話が広がっていきました。だから、私は――」






「深泥池に行ったか、ですか?」

 相手の言葉をくり返す形で、空木はそっくりそのまま問い返した。無言でうなずき返されたので、空木はそれに対してこう答える。

「まあ、行きましたよ。噂を知ったときに一度だけ。一応ね。別に何がどうというわけでもありませんでしたけど。心霊スポットなんてそんなものでしょう。その手の場所には――あまりいい思い出がないんで、早々に立ち去りました」

 その返答に相手が何を思ったのかはわからない。彼女は――国栖の葉は無表情のまま、空木に向かってさらにこうたずねた。

「その場所へ行く方法は、試されましたか?」

 空木は苦笑する。

「隠された祠を見つけるってやつですか? いやあ。いい大人が大真面目にそんなことをしちゃうのは、ちょっと。まあ、おもしろ半分で行ったわけでもないですけど。そこまではね……」

 国栖の葉はやはり表情を変えない。そうですか、とだけ呟いてからは、考え込むように口を閉じてしまう。

 しかし、それからしばらくして、彼女はふいに空木から視線を逸らしたかと思うと――ぽつりとこう呟いた。

「ここは、いいところですね」

 その感想に、空木は、おや、と思いながら、彼女の横顔に目を向けた。そういった話の脱線は嫌うものだと思っていたのだが。どういう心境の変化だろう。

 今いる場所は、街はずれの小さな喫茶店で――いや、茶房だったか。どちらでもいいが、ようは和風な趣にこだわった静かで落ち着いた店だった。

 知る人ぞ知るといった感じで、それほど混んではいないし、居心地を重視したのか、客同士を隔てるような店の作りをしている。その分、少し割高だが。

 前回の面会を踏まえて彼女が好きそうな店を探したのだが――どうやら、その点に関しては功を奏したらしい。

「お気に召したなら、よかったです。俺も初めて来ましたが。こういう場所は貴重ですよね。時期にもよりますけど、この街はやっぱり観光客が多いですから」

 国栖の葉は空木の方をちらりとも見ようとせずに、こう言った。

「人の多いところは、苦手で」

 彼女のそんな言葉を聞きながら、空木はぼんやりと考える。

 本当のところ、空木は早々に例の店の話を切り出そうかと思っていたのだが――相手の様子を見て、自分からその話を振ることはやめにした。せっかくだし。

 だから空木は、彼女にこう問いかけた。

「それなら、国栖の葉さんは、どういったところにお住まいで? お仕事とかは――」

 少し調子に乗ってしまっただろうか。空木はそう思ったが、口にした言葉は取り消せない。

 しかし、彼女は特に嫌悪の表情を浮かべることもなく、素直にこう答えた。

「住まいは――ここからは南の、山深いところです。仕事、は――特別なことは、何も。起きてから、洗濯をして炊事をして掃除をして、あとは眠るだけ。本来であれば」

 彼女はそう言って、深いため息をつく。

 本来であれば――妙な言い方だ。よくわからないが、今の状況は彼女にとって意に沿わない境遇なのかもしれない。それにしても――

「何と言いますか、退屈じゃないですかね。そういった毎日は」

 空木は思わず、そう口にしてしまった。

 どう考えても余計なお世話だ。空木は彼女にきつくにらまれるか、そうでなくとも顔をしかめられるのではないかと思った。

 しかし、国栖の葉は何の屈託もなく、軽く首をかしげてみせる。

「退屈? なぜ? 家の中にあって、日々の生活のためだけに働くことができるなら、心穏やかでいられますから。それが、本来の自分だと思っています。むしろ、こうして外に出ていると、それ以外のことでわずらわされることが多すぎる……」

 彼女の視線は、店の一角にある日本風の中庭へと向けられた。どこか遠くの方――ここではないどこかへと、思いをはせているかのように。それにしても――

 本当の居場所でなら、自分は特別な何かになれる――なんてことを思っていた空木には、少し耳の痛い話だ。ともあれ、彼女は空木とは違って、すでにここと定めた場所があるらしい。

 空木は思わずこう呟いた。

「本来の自分、ですか。そういったものに、なれたらいいんですけどね……」

 その言葉に、彼女はちらりと空木の方を見やる。

「何も、特別なことではないと思いますが。すべてのつながりを絶てば、そこに残るものが自分です。逆に、それ以外に自分というものがありますか?」

 それは――そうだろう。どこにいたって、空木は空木だ。そして、本当にそれ以外のものをなくしてしまうことができたなら、そこに残るのは自分というもの以外にはあり得ない。

 結局のところ、空木はやはり、今の自分を本来の自分だとは認めたくないのだろう。

 そんなことを考えているうちに、空木はふと――自分が神妙な顔で黙り込んでいることに気づいて、苦笑した。こんな、かしこまったような空気は、自分には似合わない。何かに言い訳をするように、空木は慌てて口を開く。

「確かに、そのとおりですね。俺はどうにも、難しく考えるところがあって――」

 そう言って、あらためて向けた視線の先では、国栖の葉が冷ややかな目で空木のことを見返していた。さっきまでの穏やかな表情はどこへやら。そして、何の感慨もなさそうに、こう話し始める。

「ですから、私は――できることなら、すぐにでも面倒ごとを片づけて、家に帰りたいと思っているのです」

 彼女は空木を目の前にして、はっきりとそう言った。空木が目の前にいるというのに――わかっていたことではあるが、明らかに眼中にない。あるいは、彼女にとって、空木の存在はわずらわしいことのひとつにすぎないのかもしれないが。

 とはいえ、わかっていたことなのだから、空木は別に嘆きはしなかった。そうですか、とだけ返してから、肩をすくめるだけで、さっさと気持ちを切り替える。

 そんな空木に向かって、国栖の葉はさっそくこうたずねた。

「あれ以来、あの家には?」

 そのひとことで、空木は一気に現実へと引き戻される。

 国栖の葉の言う、あの家、は例の店のことだろう。彼女の主張は、あの店には呪いの石があり、深泥池の件に関わっているかもしれない、というものだ。もしも、それが事実であるならば、空木はあの店を頼るわけにはいかない。とはいえ――

「ひとまず一週間ほど、周辺で様子を探りました。店主には会っていません。まあ、あちらも何だか忙しそうでしたし。年末ですからね。ただ――」

 空木は国栖の葉の表情をうかがいつつも、こう続けた。

「近所で話を聞いても、あの店におかしな噂はありませんでした。客の入りもほとんどないですし。ただでさえ、あそこには店主と、それから、中学生くらいの――娘さん、かな。住んでいるのは、このふたりくらいで……いや、初めて行ったときには、もうひとりいたか」

 お茶汲みをしていた青年が。そういえば、彼のことは店の外では見かけていない。

 店に出入りしているのを見かけたのは、住んでいるだろう二人のほかには、大学生くらいの女性を何度か目にしたくらいだ。おそらくは客だろう。

 とはいえ、あそこは一応店なのだから、客が来ること自体はおかしなことではない。むしろ、それだけの客でやっていけるのか、という点で心配になる。ともあれ。

 青年のことは気になるが、あえて取り上げるようなことでもなかった。ひとまずは棚上げにして、空木は続きを話すことにする。

「あの店に何やら秘密があること自体は、こちらも否定しませんが。それにしたって、呪いを引き受けるようなところには思えないんですよね。まあ、そういったことは悪事でしょうし、隠されてしまえば見えないんでしょうけれども」

 しかも、あの店に行ったという知り合いは、問題なく目的を達成できている。くわしい話は聞けなかったが。もしもおかしなことがあったなら、あの店のことを話した空木に対して、もっと何かしらの苦情があってもいいだろう。しかし、そんな様子は一切なかった。

 そうでなくとも、あの店主と中学生の女の子と、せいぜい大学生くらいの青年では、悪事を企んでいたとしても、たかが知れている――と思うのは甘いだろうか。事実は小説より奇なりとは言うし、近頃の世の中、何が起こるかわかったものではない――とはいえ。

 とにかく、空木が自力で調べた限りではそんなところだった。呪いだの何だのにくわしければ、また違った見方ができるのかもしれないが――

 だからこそ、空木はこう問いかけた。

「ですので、国栖の葉さんがあの店を疑われている理由を、もう少しくわしくお聞かせ願えれば、と」

「知りません」

 と、国栖の葉は即座にそう答えた。その返答に、空木が呆気にとられた顔を向けても、彼女は涼しい表情でこう続ける。

「私も、とある方にそう聞いているだけです」

「さようで……」

 初めて会ったとき、店に向かってあれほど敵意のこもった眼差しを向けていたというのに。そこに明確な理由があったわけではないというのか。それとも、単に隠されているだけか――

 空木がそんなことを考えているうちにも、国栖の葉はひとりごとのように、こう呟いた。

「あの家は、かつて私たちに害を為した、憎むべき相手なのだ、と――」

 心穏やかでいられる、と口にしていたときの彼女はそこにはない。少なくとも、空木はそう思った。むしろ、今の彼女は何かのしがらみに囚われて、自分を見失っているような――

 ちぐはぐな彼女の印象。そのことが、空木にはなぜかひどく引っかかった。日々の生活について話していたとき――あのときは、彼女にとって心からの言葉だろうと思えたのだが。

 憎むべき相手。そんな言葉が出てくる辺り、あの店に対する憎しみは、彼女の中から生まれたわけではないように思える。彼女の今の言葉は――少なくとも空木の心には、どこか虚しく響いていた。




 という感じで空木が国栖の葉と話をしたのは、大晦日も差し迫った時期のこと。

 あの場ではまた会うことを約束して別れたはずだが、あれ以来、年が明けても彼女から連絡が来ることはなかった。そうして、年末に会ったあの日からも一か月以上の時が経つ。

 空木はぼんやりとあのときの会話を思い返していた。正直言って、彼女の主張は素直に受け入れられないことばかりだ。それでも空木には、彼女のことを有耶無耶にして終わらせたくはないという思いがあった。だからこそ、空木の方からも何度か働きかけてはいるのだが――こちらも当然、梨の礫だ。

 そんなわけで、空木は正月の間をほとんど上の空で過ごしていた。とてもではないが、浮かれた気持ちになどなれない。そうでなくとも、空木には他にも気がかりなことがあって――こちらもまた宙に浮いたまま、逆に空木の心を沈ませる要因となっていた。

 とある人の呪いを、どうにかしなければならない。それが、空木の抱えているもうひとつの問題だ。これもまた、空木がよくわからないことに首を突っ込んだ結果なのだが――

 そもそも空木には、本当にそれが呪いなのかどうかさえ確信がない。ただ、呪いだとしか思えない事象だったので、とりあえずはそう呼んでいるだけだ。

 そんな現状で、この問題については取っ掛かりすら見つけられずに一年以上が経ってしまっている。こうなると、何をどうすればいいかもわからない、というのが本音だ。

 ただでさえそういうものを嫌っている身内がいるせいで、空木は思うように動けない。とはいえ、そうした判断の結果が今の状況なわけで――もしかしたら、この決断力のなさこそが、空木がいまだに何も成し遂げていない、その原因なのかもしれなかった。

 ただ、例の店に関しては、もう少し踏み込んでもいいのではないか、と空木は思っている。しかし、そうしたことで、あの石の店に頼ることになったとしたら――空木はおそらく、国栖の葉とのつながりを失ってしまうだろう。

 彼女にとって、あの店は敵だ。理由はわからないにしても。実状を探るという名目がある間はまだいいが、いつまでもそんなことをしているわけにはいかない。かといって、空木が国栖の葉のことを信じると決めたところで、彼女が自分を信頼することなどないだろう――と、空木は予感している。

 結局のところ、空木は板挟みになりながら、どちらの道も諦めきれなくなっているのだった。未練がましいことだ――

 そんなことを考えつつも、空木が足を向けたのは、昨年末に一度だけ国栖の葉と会ったあの茶房。

 あれ以来、空木は暇があればその場所に寄っていた。もう何度目かわからない。特に何かを期待していたわけではないが――いや、期待がないわけではないのだが、それは、もしかしたら彼女を見かけることがあるかもしれない、くらいの儚い幻想でしかなかった。

 当然、今日も国栖の葉の姿はそこにはない。ないはず――だった。

 そのとき茶房の前に立っていたのは、見覚えのある姿。店に入る素振りもせず、かといって迷っている風もなく、その場所をただじっと見つめている。いつかのときと同じように。

 しかし、その目に敵意は感じられない。そこにあったのは、寄る辺をなくしたかのように寂しげな眼差し。

 その人は、どう見ても空木が会いたいと思っていた人物――国栖の葉だった。

 彼女のことを気にするあまり、幻でも見ているのだろうか。空木はとっさにそう考えた――が、もちろんそんなことはない。空木は思わず、彼女の元へとかけ寄る。

 国栖の葉は空木のことに気づくと、待ち人を見つけたかのようにほっとした――なんてことはなく、逃げるようにさっさと踵を返した。空木は慌てて追いすがる。

 引き止めようと焦る空木は、無意識に彼女の腕をつかんでいた。その途端、手のひらに感じたのは燃えるような熱さ。驚いた空木は、思わず彼女のことを引き寄せる。

 よろめく国栖の葉に向かって、空木はこう声をかけた。

「ちょっと待ってください。何で逃げるんです――じゃなくて。大丈夫ですか。熱があるみたいですけど」

 これをただの熱と言っていいのかどうか。少しふれただけでわかるくらいの高熱だ。尋常じゃない。

 この場から立ち去ることを諦めたらしい国栖の葉は、複雑な表情で振り返ると、それでも空木の手を振りほどこうともがいた。

「問題ありません。私にかまわないで」

 その答えに、はいそうですか、と納得する空木ではない。つかんだ手は放さずに、空木は言い聞かせるように問いかける。

「本当に大丈夫ですか。遠慮とかなら、今はそんな場合じゃないですよ。病院に行くか、そうでなくとも安静にしていた方がいい。何なら、家まで送ります」

 抵抗をやめた国栖の葉は、空木から顔を背けながら、こう答える。

「私は……今はあの場所には帰れません」

 空木は思わず顔をしかめた。

 本来の自分になれる場所――ではないのか。彼女には、そうして安らげるところがあるのでは――

 戸惑いつつも、空木はさらにこう提案する。

「だったら、どこか他に休めるようなところは――何なら、うちでもいいですよ。うちは寺なんで。ここからじゃ、ちょっと遠いですけど」

「なぜ、そこまで?」

 国栖の葉はあらためて空木に向き直ると、そう問いかけた。

「なぜ――って……」

 確かに、なぜだろう。どうしてこんなにも、彼女のことを気にしてしまうのだろうか。

 国栖の葉は探るような目で、空木のことをじっと見つめている。空木は自分でもはっきりしない心の内を探りながら、それをどうにか言葉にしていった。

「なんて言うか……俺はそういう性分でして。困っている人を放ってはおけない、と言うか。まあ、誰彼かまわず助けて回るわけじゃないですけど――」

「そんなことが理由ですか?」

 あからさまな疑いの目に、空木は思わず苦笑した。

 そもそもの話。空木はどちらかというと、自ら人を助けるというより人から頼られる方だ。頼られるというか、使われるというか。

 それ自体は別に何とも思っていない。できる限りのことは協力するし、できないことはできないとはっきり断る。そうでなくとも、空木はそういった相手に必要以上の世話を焼くつもりはなかった。

 空木が放っておけないと思うのは――むしろ、そんな空木にすら頼らずに、ひとりで抱え込んでしまうような人の方だ。

 気になるのは、気軽に頼まれる立場だからこそだろう。正直言って、空木相手に気をつかうようなことなど何もない。そう思うからこそ、明らかに困っているのに、何も明かしてくれないような人が近くにいると、空木はどうにも気になって仕方がないのだった。相談してくれたなら、自分が力になれるのか、なれないのか、それを判断することもできるのに――

 何とも、自分勝手な考えだ。その人には、本当に空木の力は必要ないだけなのかもしれない。あるいは、空木では何の力にもなれないことなのかもしれない。

 結局のところは、その人自身がどうこうよりも、これは空木自身の気持ちの問題なのだろう。そんなわけで、国栖の葉の問いかけに対する空木の答えはこうだった。

「そんなこと――そうですね。他人にとっては、そんなこと、なのかもしれない。俺もあなたに言ってしまいましたよね。そんな毎日は退屈じゃないのかって。あの言葉は俺が浅はかでしたけど。案外、そんなものなのかもしれません。自分にとっては大切でも、他人にとってはそうではない。それが、俺にとってはこれなんですよ。それだけです」

 その言葉に、彼女が何を思ったのかはわからない。国栖の葉は相変わらず冷めた表情で、空木のことを見返している。しかし――

 彼女はしばらくすると、ためらいながらもこう口にした。

「では……ひとつだけ――」

 何ですか、と促しながら、空木は国栖の葉からようやく手を放した。さすがにもう、彼女もこの場から逃げ去るようなことはしない。

 待ちかまえている空木の目の前で、国栖の葉は外套の内側から何かを取り出した。何か――片手でも持てるような小さな箱。

 それを空木に差し出しながら、彼女はこう言う。

「これを……指定の日時に、これから言う場所に行って、そこにいる人に渡していただけますか」

 受け取りながら、空木はこう問い返す。

「渡すだけで?」

「ええ。ただし、この箱は、決して開けないように……」

 そんなことでいいのだろうか。彼女自身の体調のことを、もっと気づかった方がいいのでは――

 そうも思ったが、それでもこれは、頑なだった彼女が空木に初めて託したものだ。受け渡しの日時と場所を確認して、空木は、任せてください、と力強くうなずいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る