第十一話 黄玉 後編
「――お兄ちゃん?」
聞き覚えのある声を耳にして、思わず飛び起きた。慌てて見回すと、廊下から顔をのぞかせている妹の姿が目に入る。
なんだ、そんなところにいたのか。いったい、どこに隠れていたのだろう。
「ただいま」
ほっとして、そう声をかけた。しかし、妹は不満げに、口を尖らせている。
「いつの間にいたの? 帰ってくるなら、連絡してくれればいいのに」
そう言われて、いぶかしく思う。連絡――していなかっただろうか。突然の思いつきで帰ってきたものだから、忘れていたような気もする。
「……してなかったっけ?」
「してない」
とぼけた兄の言葉に冷たくそう言い返すと、妹はとなりの部屋へと消えていった。
何気ないやりとりに安堵して、あらためて周囲に視線を巡らせる。久しぶりの実家だった。薄汚れた壁。傷だらけの柱。そんなものでさえ、今は妙に懐かしい。
色あせた畳の上に体を横たえて、染みの広がった天井を見上げる。そういえば、どうして自分はこんなところで寝ていたのだろう。
しばらくすると妹が戻ってきた。通り過ぎるのかと思えば、洗濯物を抱えたまま、けげんな顔で問いかけてくる。
「どうかしたの?」
「変な夢を見てたみたいだ」
「どんな夢?」
「帰って来たらさ。家におまえの姿がないんだ。何もなくなってて、がらんとしてて。それで呆然としてたら、知らない人たちが入って来て――」
「何それ。変なの」
そう言うと、妹は笑いながら去って行く。
すり切れたカーテンが揺れていた。窓の外から入り込んできた風が、強い香りを運んでくる。甘くやさしい金木犀の――
この時期は、ふいに咲き始めるその花のかすかな香りで秋の訪れを知ることになる。枝葉のそこかしこに咲く、砂糖菓子のような橙色の小さな花。
思い返してみると、秋以外の季節に金木犀の木を意識した記憶がない。花が咲いてようやく、その木がそうなのだと気づかされる。それは単に、普段から樹木に注意を払っていないだけかもしれないが――
「ああ。そうだ。お兄ちゃん。せっかく帰って来たんだから、ちょっと見て欲しいんだけど――覚えてる? あのぼろぼろの壁板。ついに剥がれちゃったの。どうにかならない?」
どこからか妹の声がした。
ぼろぼろの壁板――二階の角部屋のことだろうか。雨もりのせいで、朽ちてもろくなったところがあったはず。しかし、この家も古いのだから、そういう不具合は仕方がないとも思う。
「この家が古過ぎるんだよ。引っ越した方がいいんじゃないか?」
「――もう!」
適当な軽口であしらうと、妹の声は怒って遠ざかってしまった。
静かになった部屋の中心で、ぼんやりと考える。さっきまで見ていた夢のことを。
がらんとした何もない部屋。そこに自分は立ち尽くしていた。
それから、見知らぬ人たちが入ってきて、女の人に詰め寄って――どうしてそんなことを……それで青年が割って入って。
何か、恐ろしいものを見た気がする。受け入れがたいもの。信じたくないもの。心乱されるほどの悲しい記憶。
「お兄ちゃんったら、いつまでそうしているつもり?」
いつの間にか、傍らに立った妹が自分を見下ろしていた。何だか急に申し訳なく思って、身を起こすと、そのまま彼女の前でうなだれる。そして、悄然としながら口を開いた。
「……悪かったな。なかなか帰って来られなくて」
そう言うと、妹は目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。そうして、首を横に振りながら、そっと手に手を重ねる。
「お兄ちゃんには、ずっと苦労させてたから。だから、少しずつでも返して――いきたかった」
その言い方に引っかかりを覚えて、思わず顔を上げた。妹は悲しげな表情を浮かべている。
「――どうしたんだ?」
添えられた手に力がこもる。
「だからね。私、用意したんだよ。感謝の気持ち。お兄ちゃんに渡そうと思って――せめて、それだけでもって。ねえ。お兄ちゃん。ちゃんと受け取ってくれた?」
何の話だろう。
ここに来る以前、妹に会ったのは――確か、彼女の就職が決まって、そのお祝いをした、そのとき。あれはいつのことだっただろう。
そのあとは――初めての給料がもらえるからと報告してきて、久しぶりに帰るという話になって、それから。
それから?
約束したはずだ。帰る日を。しかし、妹はその前に――
その前、に?
知らずのどから嗚咽がもれた。それと同時に目からは止めどなく涙があふれてくる。認めたくない現実をかき消すように。夢から覚めてしまったことを憤るように。
しかし、目覚めが否応なく訪れるように、そのとき自分はようやく思い出した――かけがえのない妹の、死を。
ぼやけた視界で、夢の中の彼女は言う。
「たとえ悲しいできごとがあったって、つらい現実があったって、楽しかった思い出まで、なかったことにしてしまわないで――そう願うのは、残酷なこと?」
その問いかけに答える前に、握られていた手がゆっくりと放れていった。彼女は背を向け、静かにこの場を去って行く。
行かないでくれ、と心の中で叫ぶが、それはどうしても声にならなった。夢を自覚してしまった自分には、もはやどうすることもできない。
そうして、彼女は姿を消した。金木犀の香りと、耐えがたい喪失感だけを残して。
* * *
なずなには、昔から奇妙なものが見えていた。見えていたのは、物の記憶、だと思う。それを教えてくれたのは、音羽家の人たちと、その家にあった奇妙な石たち――
幼い頃のなずなは、そのせいで外もまともに歩けなかった。余りにも、何もかもが見え過ぎたせいだ。ただ、知るはずのないことを知っていたりしたので、そのうち一部で千里眼だと評判になった。それがなずなの不幸だ。
なずなはその力を持て余していたし、周囲もそれは同じだっただろう。だから、産みの親や故郷から離れたこと、なずなに一切の後悔はない。
紆余曲折があり、なずなは音羽家の子となった。新しい父と母と、そして兄となった槐。彼らは皆、なずなの不思議な力のことについて、いろいろと相談にのってくれた。奇異の目を向けることもなく。
初めてなずなの持つ力の話をしたとき、槐がこう言っていたことを思い出す。
「なずなの力は石英に似ているかもしれないね。彼もいろいろと、見えて欲しくないものまで見えてしまうらしい。彼自身も困っているようだから、良い助言はもらえないかもしれないけれど、一度話を聞いてみるといいかもしれないよ。あとは記憶――あるいは夢、なら煙水晶か――ただ、彼は少し気難しいから……」
そのほかにも、槐はいろいろな力を持った石たちの話をした。その石たちのことはもちろん、なずなの変わった力のことでさえ、音羽の家では自然と受け入れられていて、むしろそのことに驚かされたことを、なずなはよく覚えている。
心に余裕ができたからか、なずなはいつしか、自分の力をある程度は制御できるようになっていた。その感覚を説明するのは難しいが、両の目とは別に目があって、それを自由に閉じることができる、といったところだろうか。
そして今、なずなは古ぼけた空き家の中で、その特別な目を開いていた。この家の記憶を、過去を見るために――
何もない室内。しかし、ここは真新しい部屋とは違う。畳の一部にはかつて重いものが乗っていたのだろうへこみがあるし、壁には存在した家具の名残がまるで影絵のように黒ずみとしてあった。それらの痕跡は過去を偲ばれるだけに、ただ何もない部屋よりもいっそう、その場を空虚にしている。
特別な目は、やがてその場所にいくつものできごとを重ねて見せた。目の前にある光景は絶えず変わり、溶けて混ざり、そして消え去っていく。目にした情報を処理しきれずに、なずなは思わず顔をしかめた。
見なくすることはできるようになったが、いくつもの過去が渦巻く、この光景の中から見たいものだけを見ることは難しい。ましてや、何を見るべきなのかもわからない、この状況では――
目まぐるしく変わる視界にふらつくと、誰かが背中を支えてくれた。そう言えば、今は桜ともうひとり、ついて来てもらっていたことを思い出す。
しかし、振り返った視線の先にいたのは――
「ひとりで無理をすることはない。なずな。私の力が、君の探し求めるものを示そう」
「黄玉……?」
隻腕の青年。透きとおるように淡い黄色の目は、彼自身である黄玉の結晶そのものだ。今となっては、その姿はなずなにつらい記憶を呼び起こす、が――それでも、なずなにとって彼の存在は、心から信頼できるものでもあった。
黄玉の力が、なずなの記憶を見る目に指向性を与えることができる――そのことを知ったときの、槐の言葉が思い出される。
「なずなの力を導くのに、黄玉の力が役に立つとはね。彼が持っているのは求める物を示す力。英語名のトパーズは、探し求める、という意味を持っている。でも、その名づけの元となった島で採れる宝石は
槐は楽しそうに話を続ける。石とか、昔話とか――そういうことを話すときは、いつもこうだった。
「例えば、トパーズは黄玉と名づけられてはいるけれど、日本で採れるものは淡い色か透明なものが多い。だから、水晶と間違われていた。だけど、水晶と違って割れやすいから、加工していた人たちからは嫌われていたこともある」
嫌われていた――幼かったなずなはそのとき、その言葉を聞いて何だか悲しくなった。そのときは、そのことを自分の境遇と重ね合わせていたように思う。
確かに、なずなは変わった力を持っていた。しかし、なずな自身は特別でも何でもない。どこも、おかしくなどない――
昔のことを思い出して落ち込むなずなに、槐は言った――黄玉を手にして。
「それでも、今トパーズの名を持つのは、間違いなくこの石だ。なずなにとっては、彼こそが守り石なのかもしれない。――黄玉。どうか、なずなの助けになってくれないだろうか。なずなが困っているときには、その力を導いてあげて欲しい」
それ以来、黄玉は常に傍にいてくれた。音羽家の特別な守り石たちとは違うけれども、なずなにとっての守り石として。
「黄玉。私は――」
時を経て、なずなは再びその名を呼びかけた。しかし、その先が続かない。
黄玉がここにいるのは、おそらく桜が黙って持ち出したからだろう。なずなとて、何のわだかまりもなければ、きっと彼の助力を求めたに違いない。しかし――
久しぶりに向き合ったことで、つらい記憶と同じくらい懐かしい記憶が呼び覚まされる。自分は、こんなに暖かな思い出からも遠ざかっていたのか。そのことが、急に心苦しく思われた。
目の前に、ふいに何かが差し出される。気づけば目の前に誰かが立っていた。
手を差し伸べたのは、黒曜石を守り石にしている店の客人――鷹山花梨。彼女が手にしているのは、まさしく黄玉の結晶。
なずなは、おそるおそるそれを手にした。そして、あらためて黄玉に向き合うと、意を決してこう告げる。
「力を貸してちょうだい。黄玉。ここに、私が見つけ出せる、何かがあるはず」
黄玉がうなずくと、周囲に小さな火が灯った。その火に照らされると、混ざり合った光景がはっきりと浮かび上がる。
なずなは目をこらし、見るべき記憶を探し始めた。
かつてこの家に住んでいたのは、夫婦と二人の兄妹のようだ。見るからに、幸せそうな家族。
しかし、転機が訪れる。両親を亡くし、途方に暮れる兄妹の姿は、なずな自身と兄である槐の姿が重なった。
働き始める兄と、まだ学生の妹。二人での生活は、困難なこともあっただろう。それでもこの兄妹はお互い支え合って生きていた。
やがて兄は家を離れ、妹はひとりで暮らすようになる。就職が決まり、働き始めてから、しばらくして――
「そう。ここで彼女は亡くなったのね」
なずなは無意識に呟いた。
亡くなった――いや、殺された、のか。
今までのおぼろげな記憶から一転して、そのときの光景が生々しく目の前に広がった。おそらくは、このできごとにこそ求めるものがあるのだろう。なずなはよりいっそう、その場面に見入っていく。
ひとりで暮らしていた彼女の元へ、突然怪しげな男が押し入ってきた。男の手にあるのは鋭利な刃物。
彼女は必死に抵抗した。切りつけられながらも、二階へ逃げ出す。しかし、その先に逃げ場はない――
なずなにできることは、過去の光景を見ることだけ。それだけでは詳細を知ることはできない。男が何者なのか、あるいは目の前にいる彼女の心情も、なずなにはわかるはずもなかった。
逃げ込んだ先で、彼女は何かを手にする。そのまま部屋の隅に追い詰められて、そして――
悲しい光景だった。しかし、なずなは目を逸らすことなくそれを見届ける。こんな風に過去をのぞき見るからには、目を背けるべきではない。なずなはそう考えていたからだ。
そこにあったのは、ひとりの人間の残酷な死――
これが黄玉の力が示すもの。彼の力は、そのときの自分が求める物を探す力。ならば、この光景には必ず意味がある。
なずなに犯人を捕まえて欲しいということだろうか。しかし、なずなの目ではその男の容貌をはっきりと捉えることはできない。
記憶の中にある人の存在は、いつも曖昧だった。物と違って人は時間による変化の度合いが激しい。だからかもしれない、となずなは思っている。
それに、あの鬼はこれを、失せ物探し、と言っていた。なずな自身も、どちらかというと物を探す方が得意だ。そうでなくとも、記憶の中に見えた彼女の行動には少し引っかかるものがあった。
彼女は何をしようとしたのだろう。自身の死の間際に――
なずなは記憶を見る目を閉じた。そして、落ち着くために大きく息をはく。
過去の光景はもう見えない。しかし、なずなは見たものを思い出しながら、彼女の最期の場所へと目を向けた。
歩み寄って、よく見てみる。壁の小さな染みは、血――か、それともただの汚れか。なずなにはそれを判別することはできなかった。しかし、天井から流れ出ているような黒い筋は、おそらく雨もりの跡だろう。
壁板がわずかに剥がれている。なずなはその場所をこんこん、と手の甲で叩いた。裏はちょうど空洞になっているようだ。
剥がれた板と壁の隙間は、黒々とした空間につながっている。
ふいに気配を感じて、なずなは振り返った。視線の先にいたのは、桜の力によって気絶していたはずの青年。桜につき添われ、夢から覚めたばかりのように呆然とした表情でそこに立っている。彼はおそらく――
なずなは壁板をえいと剥がして、その先の空間に光を当てた。中にあったのは、今は古びてしまっている小さな箱。包装紙に包まれ、丁寧にリボンが結ばれている。
なずなはそれを手に取ると、添えられたメッセージカードを確認してから、青年の方に差し出した。
「これが、あなたの探していたものね」
カードには簡単にこう記されていた。
――親愛なる兄へ
今まで支えてくれて、ありがとう
青年はその箱を受け取り、メッセージを目にすると、崩れるようにして畳に突っ伏した。
* * *
花梨たちは青年を残して空き家をあとにした。
誰も何も言わない。なずなも桜も無言のまま歩き続けている。
あの家で起こった悲しい事件と、それを関わっていたらしいひとりの青年。くわしいことは何もわからなかったが、それでも青年の悲痛な慟哭がすべてを物語っていた。
とはいえ、その嘆きに対して何か言葉をかけられるほど、花梨たちは彼の事情を理解しているわけではない。そっとしておく他にないだろう、というのが結論だった。
来た道を戻り、花梨たちはやがて五条大橋に着く。そこには訪れたときと同じように――鬼が待っていた。
「これでよかったのかしら」
なずなは佇む時雨につかつかと近づいて行くと、挑むようにそう問いかけた。
「ええ。十分です。幽霊は成仏しました」
彼はまるで何とも思っていないかのように、そう答えた。なずなは軽く顔をしかめる。
「あなたにとって、これにいったい、どんな意味があったというの?」
なずなの問いかけに、時雨はしばし考えるような仕草で、なずなを――そして桜を見返した。口にすることを迷っている、というより単に焦らしているだけかもしれないが、結局はあっさりとこう話す。
「実は、
「どういうことです」
真っ先に反応したのは桜だ。しかも、いつもの様子とは明らかに違う。今の彼は、花梨が見たこともないような表情で目の前の鬼をにらみつけていた。
なずなは言葉の意味がわからなかったのか、きょとんとしている。花梨には当然、事情がわからない。
時雨は軽く肩をすくめた。
「そんな怖い顔で私のことを見られても困る。桜石。君からすると、いろいろと言いたいこともあるだろうが」
「……申し訳ないけど、その雨のことを私は知らないわ」
なずなは桜に視線を向けつつも、戸惑ったようにそう言った。時雨は苦笑を浮かべながらも、そうでしょうね、とだけ応じる。
「まあ、とにかく。それでこちらも、いろいろと影響を調べていたわけだが――これについては、はずれかな。彼は単に、場に囚われていただけだろう」
場に囚われていた――その言葉で思い出す。時雨がなずなに託した頼みごとは、河原院の幽霊退治。
贅の限りを尽くし造られた庭園があった河原院。しかし、その広大な邸宅も主人を失ってからは徐々に荒廃していったと言う。華やかな過去は『源氏物語』で語られる六条院の元になると同時に、寂れてからの姿は光源氏とともにいた夕顔が、物の怪に取り殺されてしまう舞台の廃院だとも言われている。それも今ではその石碑と一部の庭園と、そして町の名前に面影を残すだけになっていた。
美しい思い出と悲しい記憶。その二つがあるこの場所で、いつかの人と同じように、あの青年は囚われていた、ということだろうか。
ただ、時雨の言う、はずれ、についてはよくわからない。同じように首をかしげているなずなに代わって、時雨に詰め寄ったのは桜だった。
「それじゃあ、今回のことはそのことを伝えに来たってわけじゃないんですね。まあ、そうすべきなのは、そもそもあなたじゃないかもしれませんけど」
時雨は冷ややかに桜を見返す。
「
飄々としている時雨に、桜は鋭い視線を向けたまま押し黙った。相手の真意を探ろうとでもするかのように。
しかし、時雨は桜の思惑など意に介すこともなく、軽く苦笑いを浮かべている。
「何にせよ、君たちが来てくれてよかったよ。どうも、香り強い木は苦手でね」
そう言って、彼は目の前の橋を渡り始めた。
「……そんな理由なの?」
呆れたような、なずなの呟き。
時雨はもう用は済んだと言わんばかりに、さっさと歩いて遠ざかって行く。なずなも桜も苦い顔だが、それを引き止めようとはしない。
そのうち、時雨は唐突に五条大橋の欄干に飛び乗った。それだけでも花梨はぎょっとしたが、彼は、それではまた、とだけ言い残して――
落ちた。
たった今見たものへの理解が追いつかずに、花梨は目をしばたたかせる。時雨は確かに、欄干の向こうへ――川の方へ飛び下りた。いや、何気なく歩くような形でそのまま落ちていった――という方が正しいか。
欄干に近づいて、花梨は慌てて橋の下をのぞき込む。
川には舟が浮かんでいた。舟の上には先ほど落ちていった時雨が立っていて、ゆっくりと鴨川を下っていく。何ごともなかったかのように――
何だろう。この光景は。
「言ったでしょう。でたらめだって」
そう言ったのは桜だ。どうやら、驚いているのは花梨だけらしい。振り返ると、呆れた表情を浮かべているなずなと桜――二人の顔が並んでいた。
「こんなことで驚いたりさわいだりしたら、相手の思うつぼです。無視ですよ。無視」
その言葉に、花梨は舟の行く末を見届けることなく川の方から背を向けた。
あらためて見ると、桜の様子も平常に戻っている。時雨に見せていた険しい顔は何だったのか、いつもの人好きのしそうな青年がそこにいた。
花梨はそこでふと、あることを思い出す。
「でたらめ、と言えば、だけど……」
言い淀んだ花梨に、桜は首をかしげた。花梨はこう続ける。
「あのとき、桜くんは何をしたの? その……気絶させてたでしょう。空き家で。あんなことができるとは思ってなかったから……驚いた」
「あまり驚いているようには見えませんでしたけど……」
桜は複雑そうな表情だ。花梨がじっと見つめると、居たたまれなくなったように、ため息をつく。
「気絶させた、というか、何と言うか……できれば、やりたくないんですけどね……」
あまりふれたくはない話題らしい。言葉を濁す桜を見るに見かねて、なずなは助け舟を出すように話を変えた。
「ともかく、これで終わったわね。でも、あの雨に、これで貸し借りなし、って言うのを忘れちゃったわ。まあ、どうせ向こうは気にもしてないでしょうけど」
なずなは五条大橋のたもとから、空き家のあった方を振り返った。その表情は、ここに来たばかりの頃より晴れやかだ。
「私も、あの幽霊と同じように、悲しいできごとから逃げていたわね。そうして、忘れようとしていた。つらくないなんて言ったら嘘になるけど、もう目を背けることは、やめにするわ」
花梨と桜は思わず顔を見合わせた。今は姿を現してはいないが、なずなのことを心配していた黄玉のことを思って、お互いほっとしたように笑い合う。
「これからは、もっと店にも遊びに来てくださいよね。なずなさん。沙羅さんがいなくても、ですよ」
桜がそう言うと、なずなは、そうねえ、と考え込む。
「でも、黄玉って、あまり自分の話をしてはくれないでしょう。相槌ばかりで。いつも私ばかりがおしゃべりしてしまうのよ。いいのかしら」
「まあ、昔からそんな感じでしたし。でも今なら積もる話もありますよ――ねえ、黄玉さん。それに、槐さんだって、椿ちゃんだっているんですから」
桜がそう言うと、なずなは、椿ちゃんね――と、呟いてから、少し表情を曇らせた。そこでふと花梨に目をとめると、なずなはあらたまったようにこう話し出す。
「鷹山さん。もしよければ、どうか――椿ちゃんとお友だちになってあげてね。少し年は離れているかもしれないけれど……。あの子も私と同じ、どうしようもない運命から、あの家に救われた子。だから、仲良くしてあげて欲しいの」
――どうしようもない運命。
花梨には、なずなの事情も知らないし、椿の事情もまだ知らされてはいない。それでも、あの店に関わるようになってから、石たちに救われた人たちを見てきた。きっと、あの店はそういう場所なのだろう。
花梨自身が助けを求めたように――
なずなはこう続ける。
「私も、音羽の家に――石たちに救われた。だから、その分を返したいとは、思っているのだけれど……」
なずなはそこまで口にすると、ふいに、はたと目を見開いた。そして、花梨を前にして急にあたふたし始める。どうやらなずなは、考えていることが表情に出る人のようだ。
「その……もちろん、あなたの――鷹山さんの事情も少しは教えてもらっているわ。槐さんからお手紙をもらったから。もしも、私の力が役に立つようなときには、その力を貸して欲しいって。でも――」
なずなはどうやら、花梨の事情を思い出して気になったものらしい。花梨が口を挟む隙もなく、言い訳めいた言葉を重ねていく。
「私、人探しは苦手で……黄玉もあれ以来、探す力は弱まってしまったし――ああ、やっぱり私のせいね。どうしましょう。こんな厄介ごとにまで、ついて来てくれたのに、申し訳ないわ。だから――」
なずなはそこで、大きく息をはいた。落ち着くためだろうか。そうして、花梨に向き合うと、正面を真っ直ぐに見据えて、こう言った。
「私に何かできることがあれば、協力するわ。約束する。必ずよ」
その表情に、憂いは見えない。彼女は、もう大丈夫だろう。
ふいに、どこからか甘い花の香りがただよってきた。それに気づいて、なずなは振り返る。
「私、金木犀の香りって好きなのよね。この花が咲くたびに、少しずつ、昔の秋を思い出すの」
思い出す過去に、たとえ悲しい記憶があったとしても。彼女はもう、逃げたりはしない。
その姿が、花梨の目にはまぶしく映った。
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