第十話 忍石 後編

 日も落ちて、辺りはすでに夕闇の時刻。

 宿を抜け出してあの店の前まで行ったところ、ちょうど男の人が中へ入ろうとしているところに行き合った。しかし、その人はあのとき会った店の人とは別の人だ。それに気づいた途端、思わず歩みが止まる。

 迷ったのは、わずかばかり。ためらってもいられないと、思いきって声をかけた。

「あの、すみません。私、ここで石を借りて、それで――困ったことがあったら、ここへって……」

 焦ったせいで、要領を得ない発言になってしまった。しかし、男の人は足を止めると、いぶかしむこともなく、やさしげな笑みを浮かべる。

「お客様かな? どうぞ、お入りください」

 格子戸が開けられて、あっさりと中へ招かれた。そのまま薄暗い通路を抜けて、以前に訪れた部屋には向かわず、庭に面した和室へと通される。

 室内を見回すと、あのとき案内してくれた女の子の姿が目に入った。部屋の隅にある座椅子で本を読んでいたようだ。

 彼女はこちらのことに気づくと、たちまち顔をしかめた。

「あなた、もう戻ってきたの」

 女の子がそう言うと、後ろから入って来た男の人が、おや、と声を上げる。

「お友だちかい? 椿」

「そんな訳ないでしょ」

 椿と呼ばれた女の子は素っ気ない。しかし、読んでいた本を閉じると、深いため息をついて、こう言った。

「――何かあったのね」

 はっとして、思わず問いかけるような視線を送る。この子にはわかっていたのだろうか。あの石のお守りが、いずれ必要になることを――

 いろいろと確かめたいことがあるはずなのに、とっさに言葉が見つからない。答えを急くばかりで、ただうなずくことしかできなかった。

 事情を知らないだろう男の人は、そのやりとりに首をかしげている。

 ひとまず床の間の前に座り、座卓を挟んで男の人と向き合った。椿は定まった位置からは動かずに、その場でこちらを見ている。

 男の人はあらためて姿勢を正すと、こう切り出した。

「店主の音羽槐と申します。ようこそ――と言っても、来られるのは二度目のようですが」

 この人が店主なのか。見知らぬ顔に不安を感じていたが、それならきっと大丈夫だろう。そう安心する。

 とはいえ、いろいろなことがあり過ぎて、どこから説明していいものやら考えがまとまらない。仕方なく、思うままに口を開いた。

「その、何から話せばいいのか……」

 真っ先に思い浮かんだのは、あの黒く大きな鳥のことだ。

「店を出たあと、おかしなことがあって。黒い鳥が現れたんです。黒い、大きな鳥。何か、よくない感じのする……とにかく、普通じゃないものでした。たぶん、私のことを探していたんだと思います。でも――」

 そこで、思い出したようにあの石を――忍石を取り出した。植物のような模様のある変わった石。

「この石のおかげだと思います。私に何もなかったのは」

 店主はそれを見て、うなずいた。

「なるほど。あなたには、忍石をお渡ししたのですね」

 店主はちらりと椿の方へ目を向ける。手にした忍石をそっと座卓の上に置くと、店主は視線を戻して、こう問いかけた。

「こちらに来られたのは、忍石のことをおたずねになるためでしょうか。それとも、その鳥のことを?」

「それもあるんですが、その……私の同級生――あ。私は今、修学旅行で京都に来ているんですが……その同級生たちがみんな、体調を悪くしていて。確信はないんですが、その鳥のせいじゃないかと思うんです」

 店主は顔をしかめる。

「どういうことでしょう」

 黒い鳥に会ったあとのこと。連絡を受けたことで、単独行動を切り上げ、すぐに宿へと帰らなければならなくなってしまった。そこで待っていたのは、気分が悪くなったせいで早めに引き上げていた同じ班のクラスメイトたち。

「体調不良といっても、何だかだるい、という程度らしいんですが、半分くらいの生徒は、今日の班別行動から帰ってきたあと、そんな感じなんです。修学旅行だからって無理してる子もいて、そのせいか、大きなさわぎにはなってはいません。今のところは、まだ」

「……まだ、というのは?」

「これは、私が勝手に思ってることで、確かなことじゃないんですが……もしかしたらあの鳥、順番に私たちのところに回ってたんじゃないかと思うんです。班ごとに、調子が悪くなる人が次々出てきたという話なので……不調を訴えている子の中には、黒い鳥を見た、と言っている子もいます。元気な生徒は、まだあの鳥に会っていないだけかもしれません。ですから、これからまだ増えていくかもしれない、と……」

 この考えが合っているとすれば、あの鳥はやはり、あのとき自分のことを探していたのだろうと思う。そうして順番に、この京都の街に散っていた生徒たちの元を回っていた。それをすり抜けることができたのはきっと、忍石があったおかげだ。

 店主は忍石をじっと見下ろしてから、ふいにこちらへ視線を戻した。何かを探るように。

 しばらくしてから、店主は再び忍石へと目を転じる。

「――忍石?」

 それは、呼びかけるような声音だった。しかし、その言葉が自分に向けられたものではないことは、どこからともなく聞こえてきた声で、すぐにわかる。

「彼女の考えるとおりだと思いますよ。槐。確かに、その鳥が禍をなしているようです。ただ、あれが何かについては、私ではわかりかねますが」

 聞き覚えのある声。よくわからないが、あのとき鳥から守ってくれたのは、やはりこの忍石だったらしい。

 店主はしばし考え込んだ。こちらは聞きたいことが山ほどあるが、自分ではうまく話せないだろう。そう思って、ひとまずは相手の出方を待つ。

 ちょうどそのとき、部屋にお盆を持った青年が入ってきた。この青年とは、先の来店のときにも会っている。その青年がお茶の入った湯のみを置き、そのまま近くに控えると、そこでようやく店主は口を開いた。

「その、黒い大きな鳥、ですが……他に何か、特徴はありましたか?」

 あのとき見た鳥の姿を思い出す。細かな特徴までは覚えていなかったが、あの不気味な姿のことは忘れられるはずもない。

「えっと……姿は鳥なんですけど、人の顔をしているようにも見えました。それから、何か言っていた気がするんです。その、人の言葉を話していたような……」

 それを聞いた店主は、はっとしたように、こう呟く。

「もしかして――?」

 ――いつまで……

 あのときの、低くうなるような鳥の声。よく聞き取れなかったが、そう言われると、そうだったような気もする。

「たぶん、そんな感じだったかと」

「何なの、その間抜けな鳴き声は」

 そう言ったのは椿だ。声には出さなかったが、その意見には内心で同意する。

 店主は苦笑いを浮かべた。

以津真天いつまでは――妖怪画で有名な江戸時代の浮世絵師、鳥山とりやま石燕せきえんがそう名づけた妖怪です。鎌倉時代の末期に現れた、いつまでいつまで、と鳴く怪鳥」

「江戸時代の絵師が、どうして鎌倉時代の鳥を名づけるの」

 店主の説明に、椿は不満げな声を上げる。身も蓋もないが、確かに気になるところではあった。

 店主は困ったような表情になりながらも、こう答える。

「『太平記たいへいき』に、元になる話があるんだよ。紫宸殿ししんでんの上に現れたその怪鳥を退治するために真弓まゆみ広有ひろありという武士が呼ばれる。そうして矢で討ち落とされたその怪鳥は、頭は人に似て体は蛇、くちばしには歯が生え、鋭い爪と大きな翼を持っていた――」

「だから何なの。というか、何? そのぬえ退治の二番煎じみたいな話」

 椿の反応はにべもない。給仕をしていた青年が、ぎょっとして呟いた。

「二番煎じ……」

「えっと……ところで、どうして――いつまで?」

 何となく気になっていたので、この間隙に問いかける。店主は、どこかほっとしたようにうなずいた。

「妖怪としての以津真天は、屍と共に現れる怪鳥として説明されます。疫病の流行により多くの死者が出る状況で、いつまでこの屍を放っておくのか、と――亡くなった者の怨霊が鳥として姿を現したものだ、と」

 その話を聞いて、椿の表情が明らかに曇った。そして、呆れたようなため息をつきながら、店主の話を一蹴する。

「そんなこと、どうでもいいでしょ。創作に創作を重ねたような化け物が、どうしてこの時代に現れるの。馬鹿馬鹿しい」

「椿ちゃん……」

 青年が小声で制したが、椿は意に介した様子もない。椿の辛辣さに、店主も心なしか悄気しょげている。

「槐さん、しっかり。要点だけ話しましょう。要点だけ」

 青年の取り成しに、こほんとひとつ咳払いをして、店主は調子を取り戻した。

「そうですね。その怪鳥が何であるかはひとまず置いておきましょう。それでは、なぜあなた方が狙われているのか、ですが――思い当たることはありますか?」

 それについても考えてはいたが、正直なところ、これが原因だろうという確かな自信はなかった。だから、こう前置きする。

「ひとつだけ。ただ、こちらはただの気のせいだったかもしれないですけど……」

 どうぞ、と促されたので、続きを話す。

「昨日は団体での移動だったんですが、そこでのことです。そのときに、あの鳥を見た気がしていて。木の上にいたから遠くてよくわからなかったし、ただのカラスか何かだと思っていたんですけど。でも、よくよく思い出してみると、妙に大きかったような……」

 あの鳥を目の当たりにするまですっかり忘れていたのだが、確かに昨日、そんなことがあった。そのときのことを思い出しつつ、こう話す。

「その――クラスメイトの男子たちが取り囲んで、石まで投げたりして、さわいでたから……もしかしたら、それが、その怪鳥だったのかも、と」

 注意をするほど親しい相手でもなかったから、そのさわぎにはただ眉をひそめていただけだ。

 ふいに――旅人は禍をもたらす、という言葉が思い出された。今はまだ、あの鳥が狙っているのは自分たちだけだが、もしも、あのときのことで関係のない人まで害を及ぼすことになったとしたら――と、嫌な考えが浮かんでくる。

 しかし、店主はそんな不安には気づかずに、淡々とこう続けた。

「なるほど。それで怨みをかったかもしれない、と思われるのですね。それは、どこでのことでしょう」

 とっさに名称が思い出せず、こう答えた。

「えっと、十円玉のとこです」

「宇治の平等院びょうどういんかな?」

 店主は苦笑しながら、そう問いかけた。そうです、とうなずくと、椿にうろんげな視線を向けられる。

「勝手にひとりで行動している上に、行った先すら覚えてないのね。あなた。それで――」

 反論できずにいると、椿はさらにこう問いかけた。

「あなたはなぜここに来たの」

「なぜ、って――」

 なぜ。それは、もちろん――

「あなたは禍を避けられた。それ以上、何を望むの。まさか、それを私たちに退治しろとでも言うの?」

「それは――」

 思わず、言葉を失った。なぜ、と問われれば――自分はおそらく、この店に助けを求めにきたのだろう。でも、あらためて考えると、それは都合のいい話かもしれない。

 椿はなおも問いかける。

「なぜ私たちがそうしなければならないの? だってそうでしょう? 仮にあなたの同級生がその鳥に悪さをしたせいなのだとしたら、自業自得じゃない」

「椿」

 店主は少しだけ咎めるように、椿に呼びかけた。しかし、椿も引くつもりはないらしい。

「おとなしくしてなさい。忍石を持って。それ以外に、何かある?」

 何も答えられなかった。思わずうつむいて、黙り込む。

 ひとりで行動し、うまくいって、それで少し得意になっていたかもしれない。そうして、ここに来れば何とかしてもらえると――この状況を自分の行動で打破できるのだと、勝手に思ってしまっていた。

 そんな思い上がりを見透かされた気がして、思わず椿の視線から顔を背ける。

 こちらが何も言えないことを見てとったからか、椿はふいに立ち上がった。そうして、本を片手に和室を出ていってしまう。その場にいた誰もが呆気にとられたが、真っ先に立ち直った店主が、深々と頭を下げた。

「すみません。お気を悪くなさらず。どうも、虫の居どころが悪いようでして――とにかく、いつまでもここにいては、あなたも不都合でしょう。こちらでも、何かできることがないか考えてみます。連絡先もお教えしますので」

 その申し出に、ただうなずいた。いまだに椿の言ったことが気になって、うまく言葉を返すことができない。

 店主は気づかうように笑う。

「まだすべての生徒に害が及んでいないなら、あなたのおっしゃるとおり、その怪鳥はまた姿を現すかもしれません。お気をつけて。それまでは、忍石をお守りとしてお持ちください」

 そう言われたので、座卓の上に置いた忍石をもう一度手に取る。

 これを借りられるだけでも、十分に心強いことだ。そう自分に言い聞かせて、そのまま宿へと戻って行った。



 宿に戻り、何食わぬ顔でクラスメイトたちの中に混じった。抜け出したことについては、どうやらまだ知られずに済んでいるようだ。

 しかし、生徒たちの様子がおかしいのはすでに先生もわかっているらしく、今は何やら協議が行われているとの噂があった。明日はどうなるかわからない。せっかくの修学旅行だが、この状況では仕方がないとも思う。

 あの店で話したとおり、他にも体調を崩す者が出て、ひどくなる可能性もあった。今このときに不調を訴えている者たちも、まさか、さらに悪くなることはないだろう――とは思っているが、実際にはそれもわからない。

 不安に思っているのは自分だけではないらしく、クラスメイトたちも皆、何となく気分が沈んでいるようだった。そのせいか、ほとんどの子が早めに就寝してしまう。本当なら話したり、じゃれ合ったりと、そういう楽しみがあったのかもしれないが、今はとてもそんな気になれなかった。

 いつの間にか、雨が降り始めていたようだ。激しい雨音とともに、甲高い風の音が聞こえてくる。

 布団に入って、まんじりともしない夜を過ごした。そうしていると、ふいに鳥の鳴き声のような音が聞こえてくる。

 それは本当に鳥の鳴き声だろうか。あの怪鳥の不気味な呟きかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなくなって、忍石を持って宿を抜け出した。

 外は嵐だ。空を覆う暗雲からは轟きが止まず、激しい風とともに大粒の雨が打ちつけてくる。傘ひとつでは何の意味もないほどの雨風。しかし、ここまで来て引き返せはしないと思い、意を決してその嵐の中に飛び込んだ。

 ふいに声が聞こえてくる。

「君はどうにかしたいのかい? あの鳥を」

 忍石の声、だろうか。

「わからない。でも、私にも何かできることがあるかもしれない。それを確かめたくて」

「君の力であれをどうにかするのは難しい」

 忍石はそう言った。きっと、それは正しいのだろう。そう考えると、途端に先行きが不安になる。

「これから、どうなるのかな。みんな、ちゃんとよくなる? このままってことはないよね? 私だけ無事で、私は何もしないままで、それでいいの? 私だけ、助かって……」

「この禍は君のせいではない。誰も君を責めたりしない」

 それは確かに、そうかもしれない。

 しかし、それなら他の生徒の大半だってそうだ。あの怪鳥に怨みをかったにせよ、みんなに責任がある訳ではないはず。ただあの鳥がひとくくりにしているだけ。理不尽だと思うが――あんな化け物に、そもそも理屈が通じるかもわからない。

 そして、自分が助かったのは、たまたまこの石を――忍石を持っていたから。それだけだ。

「ときに人は、耐えねばならないときがある。逃げ隠れることも、恥ではない」

 忍石はそう言った。それでも、引き返すことはできない。そう思って、無言のまま雨の中を歩き始める。

「行くのかい? 私にできることは、君をあれから隠すことだけ――気をつけて」

 その声を聞きながら、あの鳥の姿を探した。怪鳥の声。どこから聞こえてくるのだろう。その気配を追って歩き出す。

 真夜中だからか悪天のためか、大通りは車一台通っていない。通りの向かいが黒々として見えるのはなぜだろう――と少し考えて、そこがどこだかを思い出した。

 ――こっちは御所だっけ。

 京都御苑。広い敷地には御殿があり、一部は公園として解放されている。しかし、周囲を築地塀で囲まれているせいか、夜に見るとその場所は妙にのっぺりとして暗かった。

 声はこちらから聞こえてくる気がする。

 街灯の光を頼りに、築地塀にある門までたどり着く。御所の門はさすがに閉じているが、周辺の公園にはいつでも入れるようになっていた。とはいえ、この時間では人の気配もまったくなく、少々不気味だ。

 しばらく道を進んでから、あの黒い鳥の姿を探して周囲を見渡した。そのとき、見知った姿を見つけて、思わず歩みを止める。

 そこにいたのは、あの店で出会った少女――椿だ。

「どうして――?」

 そう呟くと、忍石が安心したような声でこう言った。

「彼女のことなら、心配することはない。私よりも力あるものが側にいる」

 ――力あるもの。

 もしかして、あの鳥をどうにかするつもりなのだろうか。この時間、この場所に彼女がいる理由は、それくらいしか思い浮かばない。

 助けを求めてあの店を訪れたあのとき、彼女には伸ばしたその手を振り払われたのだと思っていた。それ自体は、仕方がないことだ。あの店の人たちは、この禍とは本当に何の関係もないのだから。

 紫宸殿の方へ、大きな鳥が下りていくのが見えた。椿は向かっていく。あの、黒い鳥の元へと――

「――強いんだね。あの子は」

「そう見えるかな?」

 思わず口をついて出た言葉に、忍石はそうたずねた。不思議に思って、問い返す。

「違うの?」

「人はときに強くもあるが、弱くもあるものだ。大事なのは、今の自分を見定めることだよ」

 ひとりでこの街を歩いていたときは、思いどおりに事が進んだことで、少し得意になってもいた。しかし、それも本当は危ういことだったのだろう。今はそれが身に染みている。

 今の自分にできること。そんなことは、いくらもない。だからこそ、彼女の――椿の無事を祈り、ただその場で見守っていた。


     *   *   *


「あなたはつくづく鳥と縁があるみたいね。翡翠」

 椿がそう呼ぶと、翡翠がその姿を現した。淡い緑色の翡翠の勾玉――それが今は青年の姿をとっている。

 冷たい雨粒は彼の力によってさえぎられ、椿の元へは届かない。しかし、嵐の音だけは、防ぎようもなく周囲に渦巻いていた。

 黒い鳥が上空からゆっくりと目の前に下りてくる。紫宸殿へと続く閉ざされた門の上。檜皮葺ひわだぶきの屋根に乗って、その鳥は静かにこちらを見下ろした。

 ――いつまで、この屍を放っておくのか。

 ふいに不気味な鳴き声が、そう訴え始める。椿はその言葉に顔をしかめた。

 わかっている。いつまでも、放っておいていいわけはない。そんなことは、わかっている――

「椿?」

 翡翠の呼ぶ声に、はっとして我に返る。椿は目の前の鳥を指差した。

「やって。翡翠」

 椿の言葉に応えて、翡翠が片手をかざす。と同時に、吹き荒れる風が黒い鳥へと向かっていった。

 強い力に驚いて、鳥は慌てふためいたように翼を広げている。しかし、空気のかたまりは容赦なく怪鳥を追い詰め、その翼をねじ曲げた。飛び立とうとするその鳥を地面へ叩き落とそうと、よりいっそう激しい風の流れが集まっていく、が――

 よろめきながらも、黒い鳥はその流れから脱したようだ。黒い鳥はこの場から逃れようと、決死に折れた翼をばたつかせている。

「翡翠!」

 振り返り叫ぶ椿に、翡翠はうなずいた。その視線は怪鳥に向けたまま、彼は少しだけ半身を引き、両腕を高く上げている。

 何をするつもりだろう。そう思っていると、翡翠はからの手の片方を前に、もう片方の手を後方に動かした。これはまるで――弓を引くときの構えのようだ。しかし、その手に弓矢はない。

 狙いを定めるような一瞬のあと、翡翠は弓弦を弾くような動作をした。途端に、鋭い音が走る。それは一直線に、遠ざかっていく黒い鳥を貫いた。

 あたかも矢に射抜かれたかのように、鳥は真っ逆さまに落ちていく。

 それを確認してから、翡翠はこう言った。

「これは鳴弦めいげんという。黒曜石のまねごとをしてみた。しかし、やはり彼のようにはうまくいかない」

「器用なんだか何なんだか。まあ、何でもいいけど」

 椿はそう言って、落ちた鳥の元へと向かう。

 しかし、どうやら完全には仕とめられなかったようだ。近づいて行くと、地面でもがいていたその鳥は、人に似た顔とその冷たい視線を椿へと向けてくる。待ち構えていたかのように。そのとき――

 突如、閃光が走った。同時に耳をつんざくほどの音が響き渡る――雷鳴だ。光は目の前の闇を引き裂き、今度こそ本当に黒い鳥へとどめを刺した。化け物は力尽きたように、静かに霧散していく。

 ――今の雷、まさか……

 視線を周囲に巡らせると、案の定、槐が近くにいた。いつもの着物姿で、傘を差して佇んでいる。

「椿。あまり、無理をしてはいけないよ」

 家を抜け出したことが、ばれていたか。しかし、あの家では仕方がないとも思う。どうせ、そのことに気づいた何かの石が、槐に伝えたのだろう。

 槐は怪鳥の倒れていた場所まで歩いて行くと、そこで屈み込み、何かを拾い上げた。それを確かめて、こう呟く。

「天狗の爪石つめいし、か」

 椿は槐の元に歩み寄って、その手元をのぞき込んだ。そこにあったのは、黒い牙のような――石。

「……また、化石?」

「そうだね。大型のサメの歯の化石だ」

 槐がそう答えると、どこからか声が聞こえてくる。

「あの怪鳥、呪術によるものか……しかし、使役できていたとは思えない。誰かを狙ったわけでもなく、ただ己に害を為した者へ報復しただけだ」

 それは碧玉の声だった。

「あるいは、使役しようとして、しくじったか……」

 そのときふと、人の気配を感じて振り返った。そこにいたのは、雨の中ジャージ姿でずぶ濡れになった少女。忍石を選んだ、あの少女だ。

「何してるの。早く宿に帰りなさい」

「……どうして助けてくれたの?」

 少女は呆然とした様子で、そう問いかけた。椿は、その言葉にただ肩をすくめる。

「別に。あんなのが飛んでいたら、私が、ゆっくり散歩もできないでしょ。……それだけ」

 それを聞いた少女は、虚をつかれたように目を見開いた。


     *   *   *


 次の日、天気はすっきりとした晴れになった。嵐のあとだからか空気も涼やかで心地よく、澄み渡る空には雲ひとつ見えない。

 体調不良だった生徒たちは朝になると嘘みたいに元気になり、先生たちは狐につままれたような顔で出発を見送った。

 今日もまた、班別での自由行動の予定だ。協議の結果がどうだったのかは知らないが、結局のところ、みんな疲れていたのだろうということで、うやむやになったらしい。

 そうして、宿には自分ひとりが残った。なぜなら――嵐の夜に外に出たせいで、本当に風邪を引いてしまったからだ。

 とはいえ、少し寒気がするくらいで大したことはない。それでも外は出歩けないので、宿の部屋でおとなしくしているように言い渡された。

 午前中は素直に従っていたが、午後になるとさすがに暇になる。先生の目を盗んで、少しだけ宿の中を探索していた。そのとき――

「だから言ったのに。おとなしくしてろって」

 緑の美しい庭園に面したその場所で、待ち構えていたように佇んでいたのは椿だった。

 彼女は紙袋を持っていて、会うなりそれを差し出してくる。受け取ってのぞいてみると、中にはお菓子が入っていた。お見舞いだろうか。

「まあ、これも自業自得ね。好き勝手してたんだから」

 そう言われると、苦笑を浮かべるしかない。それでも、ほんの少し悔いはあった。そのことを思い出して、無意識のうちに呟く。

「どうしても行きたい場所があったんだけどな……」

 そのためにいろいろと計画していたのだが、すべてが水の泡になってしまった。そのことを残念に思う。

 しかし、椿はやはり呆れ顔だ。

「どこに行く気だったかは知らないけど、また来ればいいでしょ」

 それもそうだ、とは思う。計画したときは、なぜかこのときしかないと思い込んでしまっていた。だからこそ、無茶を通した。

 しかし、恐れていた禍は去り、平穏な時は戻ってきている。今を耐え忍べば、きっとまたいずれ次が巡ってくるだろう。

 だから、悔いを飲み込んで、うなずいた。

「そう、だね。そのときは案内してくれる?」

「嫌よ。ひとりで行って」

 素っ気ない返事に、また苦笑する。そのとき、あることを思い出して、ポケットを探った。

 取り出したのは、忍石。

「守ってくれて、ありがとう。もう大丈夫だろうし、返せなくなっても困るから――次にまた、必要になる人のためにも」

 そう言って、椿に託す。彼女は黙ってそれを受け取った。

「帰るのは、明日?」

 忍石を見ながら、椿は何気なくそう問いかける。

「うん? まあ、そうだね」

 そう答えると、椿は真っ直ぐにこちらを見据えて、こう言った。

「そう。それまでは、まあ――よい旅を」

 彼女なりの気づかいの言葉だろうか。不器用なその言葉をありがたく思いながら、素直にうなずいた。


     *   *   *


 槐はひとり、川辺の道を歩いていた。

 九月の終わりとはいえ近頃は残暑も厳しく、まとわりつく空気にはまだ夏のなごりが感じられる。それでも川面から渡る風は涼やかで、その感覚はこれから訪れる秋を予感させた。

 当てもなく散策しているわけではないが、急ぐ用でもない。そうしてのんびりと進んでいると、川とは反対の方――木立の向こうに、池のほとりに建つ御堂の姿が垣間見えてくる。その一端を捉えた瞬間、視線は思わずそちらに引き寄せられた。

「宇治の宝蔵、か。そんなものが、本当にここにあるのか?」

 どこからともなく、声が聞こえた。近くに人影はない――が、当然だろう。この声は、槐が伴っている石、碧玉のものだからだ。

「いや。どうも、こことは別の場所にあるらしい。あるいは、移されたのかもしれないけれどね。だから、蔵といっても境内にはないよ」

 槐がそう答えると、呆れたようなため息が聞こえてくる。そのため息の主は、こう続けた。

「そもそも、だ。おまえの言う宇治の宝蔵なんてものは空想の産物だ、という話をしたつもりなのだが。酒呑童子の首だの玉藻前の屍だのを収めた蔵だぞ。そんなものが、本当に存在するとでも?」

「架空の物語が事実の一端を担うこともある、ということかもしれないよ」

 槐の答えに、碧玉は押し黙る。しかし、納得したわけではないだろう。その沈黙からは、彼の不満がにじみ出ていた。

 宇治の宝蔵は、藤原頼通ふじわらのよりみちによって開かれた寺院――平等院にあったとされる架空の蔵のことだ。碧玉の言うとおり、退治された怪異の亡骸をこの蔵に収めたという話がいくつかあるが、それはあくまでも物語であり、実際にあったという経蔵にも、それらが収蔵されたという記録はない。

「教えてもらった場所に、それらの屍があるかどうかはわからない。もちろん、例の怪鳥も。しかし、どうにも、そういう怪異を封じる場所がこの地には確かにあったようなんだ。だからこそ、宇治の宝蔵というものが生まれたんだろう」

「どこで情報を得たかは知らんが、本当に信じられるのか? その話は」

 碧玉の言葉に、槐は苦笑する。

「まあ、とにかく行ってみようじゃないか。それで何もないなら、また調べ直せばいい」

 そんな風に槐が答えると、碧玉はまた押し黙った。無言の底にあるものは、おそらく諦めだろう。

 平等院の鳳凰堂ほうおうどうを横目に通り過ぎて、しばらく道なりに歩いて行った。そうして、人通りの少ないところまでたどり着くと、槐はそこに目当ての場所を見つける。

 それは祠のような、とにかく蔵としては小さな建物だった。普通の人が迷い込まないようにか、ここに来るまでの道は巧妙に隠されている。おそらく、一見しただけではそれとわからないだろう。

 それでも誰かが管理しているようだが、常に見張っているというわけでもないらしい。初めて訪れた槐でも、すんなりと来ることができた。

 祠の中はうかがい知れない。ここを訪れるに当たっては、教えてもらった相手からいくつか注意を受けている。それに従って槐が慎重に周辺を調べていると、ふいに碧玉が反応を示した。

「何かわかったかい? 碧玉」

「……荒らされているな」

 槐は辺りを見回してみた――が、何もわからない。特別な力を持つものでなければ、わからないようなことなのだろう。

 碧玉はこう続ける。

「誰の仕業か知らんが、ここに封じられていた何かが解き放たれていることは、確からしい」

 碧玉の言葉に、槐はただうなずく。

 あらためて祠に目を向けてから、槐はそれに背を向けた。これ以上、ここで確かめられることは何もないだろう。槐の目では気になるところもないし、碧玉にわかる以上のことが槐にわかるはずもなかった。

 槐は淡々と、もと来た道を戻って行く。碧玉は何も言わなかった。考え込んでいるのか。それとも――

「……何が起こっているのだろうね」

 思わず、そう呟いた。答えを期待してのことではない。案の定、碧玉は何も答えなかった。

 槐は軽くため息をつく。

「すべて、終わったものだと思っていたのだけど……」

 川辺まで戻って来ると、槐は立ち止まって目の前の景色を見渡した。川面に浮かぶ島とそれに架けられた橋。その穏やかな風景に目を向けたとき、ふいに強く風が吹く。しかし、槐は怯むことなく、そのまなざしをさらに遠くへ投げかけた。

 宇治川の、今はゆるやかなその流れの先へと。

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