第五話 針鉄鉱 前編

 橋を渡っていた。

 何ということはない橋だ。石の欄干にアスファルトの道が敷かれていて、橋の下には申し訳程度の細い川が流れている。そんな、ごく普通の橋。

 何かいわれの書かれた立て札があり、たまに観光客らしき人たちを見かけるが――どう見ても新しい橋なので、見るべきところがあるとも思えない。歴史を知らない者からすると、特にありがたみも何もなかった。

 だから、この橋を渡ることに特別な意味などない。ただ単に目的地に行くまでの道の途中にある、というだけのこと。それだけのこと、のはずだったのだが。

 ――また、だ。

 橋の途中、半ばに足を踏み入れたとき、ふいに声が聞こえてきた。

 話し声。それとも歌声か。だらだらと一方的に続く語りに妙な節がつけられているせいで、そう感じるのかもしれない。聞き取りづらいが、とにかく何かを言っていることだけは、はっきりとわかった。

 別にそれだけなら、奇妙なことでもない。ただ近くにいた人の声が、たまたま聞こえたというだけのことだろう。問題は、その声を発している存在が、視界のどこにも見当たらないということだった。

 立ち止まり、辺りを見回してみる。しかし、声の主は見つからない。そのときは折しも周囲に全く人影がないときで、それでも聞こえる声が、よりいっそう不気味に感じられた。

 思いきって欄干から橋の下をのぞいてみるが、当然のように何の気配もない。こんなことが、もう何度も、それも決まってこの橋を渡るときだけに起こっていた。

 声は続いている。しかし、奇妙な点といえばそれだけで、特に害があるわけでもない。正体を暴くことは諦めて、仕方なく先に進むと、その声は徐々に遠ざかっていった。

 これが一度きりのことならば何も思わない。現に、最初に気がついたときは何か聞こえるな、くらいにしか思わなかった。周囲に人影がないのも、どこかの声が風に乗って運ばれてきたのだろう、と考えたのを覚えている。

 しかし、これが一度や二度ではないとなると、さすがに気になった。どこかで歌の練習でもしているのか、と思って、時間のあるときに周辺を散策したことさえある。しかし、当然のようにそんな場所も人も見つからなかった。

 何なのだろうか。疑問には思うが、危険があるわけではないし、これ以上このことを検証する気にもなれない。

 そうして橋のたもとに着く頃には、もう声はほとんど聞こえなくなった。何ごともなく渡りきってから、背後を振り返る。

 視線の先、欄干の端にはおそらく橋の名前だろう文字が刻まれていた――戻橋もどりばし、と。


      *   *   *


 店の通り庭を出る直前で、花梨は立ち止まった。

 座敷の方から、話し声が聞こえてくる。以前、槐たちの話を立ち聞きしてしまったことがあったが、そのときとは少し雰囲気が違っていた。聞こえてくるのは女性の声――それも、明るくて快活な。おそらく、椿の声ではないだろう。

 以前のこともあって、どうするべきかを少し迷ったが、かといって、ここで引き返すほどのことでもない。様子だけでも見てみよう。そう考えて、花梨は坪庭に入り縁側の方をのぞき込んだ。

 奥の座敷には、初めて見る女性が座っている。桜の姿も椿の姿もそこにはなかった。どうやら、槐がひとりで応対しているようだ。

 花梨が顔を出したことに、槐はすぐに気がついたらしい。女性と何やら言葉を交わして、相手がうなずくのを確認すると、立ち上がって縁側まで出て来る。そして、花梨に声をかけた。

「どうぞ、お上がりください」

 問題があれば出直すのだが、そう言われてしまっては上がらないわけにもいかない。花梨は二人に向かって軽く会釈してから、玄関へと向かった。座敷に入る頃には、槐の向かい――女性のとなりに座布団が置かれている。

 花梨がその場所に座るなり、その人は目を輝かせて、こう言った。

「こんにちは。あなたも、ここのお客様なんでしょう?」

 勢いに気圧されて、花梨は軽く目を見開く。

「はい、そうです。その、こんにちは……」

 あなたも、ということは、この人は店の客なのだろう。年は花梨より少し上くらいの若い女性だ。ここへは石を買いに来たのか、それとも――

 よくよく考えると、この店でどのような商売がされているのか、花梨はよく知らない。一応自分も客ということにはなっているが、おそらく通常の商売には当てはまらないだろう。初めて見る店の客に、花梨は少しだけ好奇心を抱く。

 花梨が見守る前で、彼女は唐突に自分の鞄の中を探り始めた。そのうち目当てのものを見つけ出したのか、花梨の方へそれを差し出す。そして、自らこう名乗った。

「私は猪倉いのくら柚子ゆず。主に半貴石でアクセサリーなんかを作ってるの。ハンドメイド作家ってやつ。よろしくね」

 差し出されたのは、パステルカラーでデザインされた名刺だった。屋号のようなロゴと一緒に、ローマ字でユズとだけ記されている。突然のことに、花梨は呆気にとられてそれを見つめ返した。

 ――どうしてこれを、私に?

 戸惑う花梨に、彼女はこう続ける。

「作家名としてはユズで通ってるから、そう呼んでね。ところで、アクセサリーには興味ない? 今度、京都で期間限定のショップを開くの」

 どうやら、宣伝がしたかったらしい。花梨は納得して、その名刺を受け取った。とはいえ――

「えっと……半貴石、というのは?」

 花梨がそうたずねると、柚子は少しだけ、けげんな表情をする。助け船を出したのは槐だ。

「貴石は狭義ではダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、エメラルドの四つを指します。広義では、まあ、高価な宝石、といったところでしょうか。半貴石は、それ以外の宝石のことです」

「そう。お手頃なアクセサリーもあるから、気軽に来てね」

 柚子はそう言うと、槐に向き直る。

「失礼。他所のお店で宣伝させてもらって。でも、ちょうどよかったです。何ぶん初めてのことでして、できるだけたくさんの人に知ってもらいたかったので」

「いろいろと、ご準備も大変でしょう」

 槐の言葉に柚子は苦笑する。

「ショップっていっても、そうたいそうなものではないんですよ。オーナーさんが、若い作家を応援するって形で、短い期間だけ格安で場所を貸してくれるんです」

 柚子はそう言うと、また花梨の方を振り向いた。

「そんなわけで。よかったら、お友だちも誘ってね」

 そんな風にだめ押しされる。

 友だち――その言葉に、花梨は思わず口ごもってしまった。地元ならともかく、京都に来てからの花梨には交友関係というものがほとんどない。それこそ、この店か、バイト先くらいか。

 声をかけてもらって申し訳ないが、あまり彼女の力にはなれなさそうだ。そう思って黙り込んでしまった花梨に、柚子は慌てたようにこう続ける。

「ごめんごめん。突然のことで困るよね。あやしい者じゃないんだけど。常連さんだって聞いたから、石好きなのかな、って。気軽に考えてくれればいいよ。私の方はここでの用も済んだし、そう長居はしないから」

 どうやら気を使わせてしまったようだ。花梨は首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。私も急ぎの用があるわけではないですから。その、そういうアクセサリーとかは私、あまり持っていないんですけど……必ずうかがいます」

 花梨がそう言うと、柚子は満足そうな笑みを浮かべる。やりとりを見守っていた槐は、会話が一段落したと見てとると、ふいにこう切り出した。

「さて、曾祖父の収集品の方は、いかがでしたでしょうか」

 花梨はその言葉に、はっとした。それでは、彼女もあの部屋へ行ったのだ。たくさんの特別な石が棚に並んだ、あの部屋へ。

 かつてこの店に迷い込み、黒曜石と出会ったときのことを思い出す。しかし、柚子はあのときの花梨ほど深刻そうな雰囲気はない。案の定、あっけらかんとした表情で、こう答えた。

「おもしろかったですよ。見たことない石もあったし。でも、ちょっと地味かな」

「地味……」

 そう呟いたのは、座敷に姿を現した桜だった。来客用のお茶を手にして、ちょうど居合わせた会話に顔をしかめている。そのうち花梨のことに気づくと、おや、と驚いたような表情を浮かべたが、花梨は気にしないようにと手振りで伝えた。

 地味、と断じた柚子の評価に、槐は苦笑している。

「確かに日本の鉱物は、色彩に乏しいとも言われますね」

「あそこにある鉱物は全部国内で採れたもの、でしたっけ」

 柚子の言葉に、槐はうなずいた。

「あの棚に並べているものに関しては、そうです」

「日本産で、キラキラしたような宝石は少ないんですよね。残念なことに。この前ミネラルショーに行ったんですが、海外のだと原色の派手な石とかも多いんですけど」

「ミネラルショー……?」

 聞き慣れない単語に、花梨は思わず呟いた。

「鉱物を扱っているお店なんかが集まる、即売会のことですよ」

 給仕をしつつ、桜が、こそっと教えてくれる。花梨は、へえ、と感心した。

「この店、ちゃんとしたお客様も来るんだね」

「ちょっと待ってください。花梨さん。それはどういう意味ですか」

 その言葉に、桜は不服そうな表情を浮かべている。花梨は慌てて言い訳した。

「ごめん。変な意味じゃなくて。ここが石のお店だって、あらためて思い出しただけ」

 怪異や呪いの話ばかりしていたので、純粋に石を求める客がいたことに驚いたのだが、少し言葉が足りなかったようだ。

 柚子は桜から受け取ったお茶でひと息つくと、あらためて槐へと向き直った。

「突然来たのに対応してもらって、ありがとうございました。ダメもとだったんですけど。急に近くまで来る用ができたので……」

「かまいませんよ。ここのことは、どなたから? 差し支えなければ、ですか」

 槐の問いかけに、柚子は花梨の知らない店の名を出した。そこの店主から、店に来ることをすすめられたらしい。

 槐はその名を聞いて、納得したようにうなずいた。

「神戸にある骨董屋さんですね。存じています」

「骨董屋じゃないですアンティークショップです」

「これは失礼しました」

 柚子は特に気にする風もなく、こう続けた。

「そこの店主に、見識を広げるといい、とか何とか言われたから来たんです。でも、珍しい鉱物なら、それこそ博物館やミネラルショーとかでも見られるし……どうしてわざわざここだったのか、そこは不思議で」

 花梨は槐の反応をうかがい見る。もしかして、その人はこの店の秘密を知っているのではないだろうか。そう思ったのだが、槐はいつもの穏やかな表情を浮かべるだけ。当然、目の前で首をかしげる彼女に、秘密を打ち明けたりもしない。

 ひとしきり首をひねってから、柚子は花梨の方を振り返る。

「あ。もしかして、あなたもそう? ここには勉強に来ているとか。あんまりくわしくはなさそうだもんね。そういうこともしてるんですか? このお店」

 花梨はその言葉に曖昧な反応をした。さて、どのように説明したものか。本当のことは話せないが、嘘をつくこともはばかられる。結局、花梨は素直に答えた。

「私は、ここの石をお借りしていて」

 その答えに、柚子は、ぽかんと口を開けている。

「え? レンタル? 石を?」

 なぜ、という疑問と困惑が、その表情からはありありと読み取れた。しかし、彼女がそれを追究する様子はない。そういうものだと受け入れたようだ。

「借りる、ね。個人でそんな貸し借りしてるお店なんて、初めて聞いた。あ、でも」

 彼女はふと何かを思い出したように、とある方向に視線を向ける。

「あの部屋にあったトパーズなら、借りてみてもいいかな。大きな結晶だったし」

「……まさか、アクセサリーにしたりはしないですよね?」

 慌てて口を挟んだのは桜だ。石である彼からしてみれば、それを加工する者は忌避すべき存在なのかもしれない。彼らにとって、それがどういうことに値するかは、わからないが。

 しかし、柚子は桜の言葉に苦笑して首を横に振る。

「いや、さすがに研磨は……挑戦してみたいとは、思ってるんですけど。あの原石なら見映えがするし、ディスプレイとかにいいかなって。でもまあ、あまり高価なものを借りてもね……取り扱いに気を使うし。現に、あの石――」

 柚子はそこまで言うと、槐をうかがうようにして、こう続けた。

「修繕した跡がありますよね?」

 花梨はその言葉に驚く。

 ――直した跡?

 そんな石があっただろうか。花梨もあの部屋に招かれ、石を見せてもらってはいたが、そういう石を見た覚えは全くなかった。とはいえ、そもそも鉱物など見慣れていなかったのだから、単に気づかなかっただけかもしれない。

 柚子の問いかけに、槐はただうなずいた。

「何にせよ、稀少なものですよね。日本でも、もっと宝石が採れればいいのに」

 柚子は残念そうにそう言った。

 話の間隙に、花梨は思いきってたずねてみる。

「その、基本的なことかもしれませんが、鉱物と宝石って、どう違うんでしょうか」

 答えたのは槐だ。

「鉱物とは、天然に産する結晶構造を持った無機物の個体を言います。そのうちの、装飾品などに使われるような美しい見た目の石を、宝石と呼んでいるのです。宝石にはっきりとした定義はありません。鉱物でなくても、宝石として扱われているものもあります」

 その話を受けて、柚子は身を乗り出してまで、こう主張した。

「私は、宝石って輝いてこそ、だと思うんですよね。煌めく華やかさこそ、宝石の良さですよ。貴重だとか相性だとか、そんなことは抜きにして、見てキレイって思えるのが一番重要かと」

 槐は苦笑しつつも、うなずいた。

「なるほど。きれいな石――というと、あなたが身に着けていらっしゃるそれも、古くから宝石として扱われている石ですね」

 槐の指摘に柚子はああと呟くと、胸元にあったペンダントを手に取った。

 彼女が身につけていたのは、不透明な空色の石だ。あざやかな色の中に、少しだけ茶色の線が混じっている。

 取り巻く金属には簡単な彫刻が施されているが、少しくすんでもいた。ただ、簡素な革ひもで提げられているのも相まって、素朴な印象を与えている。

 槐はこう続けた。

「トルコ石。数千年の昔から、宝石として装飾品などな用いられた石です。トルコを経由してヨーロッパに広まったために、その名がついたとか」

 柚子はそれを手にしながら、少し肩をすくめる。

「さっきお話したアンティークショップの店主からもらったんです。トルコ石は繊細な石。そういうものの扱い方を学んだ方がいい、とか何とか。ちゃんと本物だって言ってました」

「トルコ石は模造石が多いですからね。もともと脆い石ですので、全く加工のされていない天然のものは珍しいようですが……」

 槐のその言葉に、柚子は気のない返事で応じている。どうにも、彼女の言うキラキラする宝石に比べると、熱の入り方が違うようだ。

「私の誕生石だからってのもあったんでしょうけど……でも、私はやっぱり、透明感のある石の方が好きなんですけどね。まあ、今となっては、愛着はありますが」

 ふと疑問に思って、花梨はこうたずねた。

「そういえば、誕生石っていうのは何かいわれがあるんですか?」

「生まれた月の誕生石を持つと加護がある、とか。そんなことをよく言うかな。でも、まあ……比較的流通している宝石が選ばれてるし、ジュエリー業界の陰謀?」

 柚子はそう答えたが、いまいち自信はなさそうだ。槐は苦笑している。

「由来としては、『旧約聖書』や『新約聖書』に記載されている十二の宝石からだという説がありますね。今の誕生石は一九一二年にアメリカの宝石組合が広めたことが始まりですから、商業的な意図がないとは言い切れませんが」

 この話には柚子も、へえと感心している。

「ところで、あなたの誕生月は? 聞いてもいい?」

 柚子が問いかけるので、花梨は素直にこう答えた。

「十一月です」

「じゃ、誕生石はトパーズとシトリンか。黄色の石。ビタミンカラーって、元気が出る感じで、いいよね。まあ、トパーズはピンクやブルーもあるけれど――と」

 柚子はそこで、何かに驚いたように話を止めた。視線は部屋の壁掛け時計に向いている。思いがけず時を過ごしてしまったことに、ふと気づいたものらしい。

 あらためて自分の腕時計を確認し、彼女はこう切り出した。

「思ったより長居してしまいました。申し訳ない」

「こちらこそ、お引き止めしてしまいました。お時間、大丈夫でしたでしょうか」

 槐の言葉に、柚子は表情を曇らせる。

「時間は別に、問題ないんですけどね。暗くなってから、あの橋を渡るのがちょっと嫌で……」

「橋を?」

 渡る、という言葉に、花梨は引っかかった。少し前、道を渡れずにいた人がいたことを思い出したからだ。

 思いがけず花梨が深刻そうな顔をしたからか、柚子は慌てて言い訳する。

「大したことじゃないの。笑わないでくださいね。最近、その橋を渡るとき、決まって何か聞こえるんです。声のようなものが。別に何ということはないんですけど」

「もしかして、それは一条の戻橋、ですか?」

 そうたずねたのは槐だ。柚子は虚をつかれたような顔で、槐を見返す。

「そう。そこです。よくわかりましたね」

 驚く柚子を正面に見据えると、槐は少し考えてから、こう話し始めた。

「あの橋には逸話が多いんです。そもそも戻橋の名は、天台宗の僧である浄蔵じょうぞうが、死に目に会えなかった父の葬列にその場所で祈ったところ、一時的に死者がよみがえった――戻った、という伝承が由来です。仏教説話集の『撰集抄せんじゅうしょう』にあります。また、『平家物語』の剣の巻にある、渡辺綱が鬼を切った話も有名ですね」

「それでたまに観光客がいたんですね」

 柚子は納得したようにうなずく。槐はさらに、こう続けた。

「それから、橋占はしうらの逸話が――」

「橋占?」

 花梨は聞き慣れない言葉に首をかしげた。

「橋占は辻占の一種。橋で往来の人の言葉を聞き、それによって吉凶を占うものです。特別に戻橋で行わなければならないということはありませんが、『源平盛衰記げんぺいせいすいき』にこんな話があるのです」

 槐はそこで居ずまいを正した。

「中宮建礼門院けんれいもんいんの出産の際、一条戻橋で橋占が行われたのですが、そのときに安徳天皇あんとくてんのうの即位と――最期を予言する童子の歌が聞こえてきたそうです。その童子は安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた式神、十二神将の化身である、と」

 以前であれば、花梨はそれをただの物語として受け取っただろう。しかし、石たちの存在を知ってからは、そうやって切り捨てることもできない。少なくとも、花梨はそう思った。

「読み解いてみますか? その声の意味を」

 槐の問いかけに、柚子は呆気にとられたような表情で、こう返した。

「このお店、実はスピリチュアル系?」

「スピリチュアル……?」

 首をかしげる花梨をちらりと見て、柚子は肩をすくめた。

「パワーストーンとか、ヒーリングとか、そういうの」

 それだけ言うと、柚子は考え込むようにうつむいてしまった。しかし、考えていても仕方がないと思ったのか、ひとつうなずくと、決心したようにこう答える。

「まあ、いいや。ちょっと気味悪く思ってたところですし、わかれば安心ですよね。でも、どうやって読み解くんですか? 声の内容なんて、覚えてないんですけど」

「わかりました。少々、お待ちください」

 そう言って、槐は席を立つ。しばらくして戻って来た彼は、石を手にしていた。

「こちらは、針鉄鉱しんてっこうという鉱物です」

 槐はそう言って、その石を柚子へと差し出した。

 白い部分に囲まれた中心に、黒い針のようなものが密集しているような石だ。当然、あの部屋にある鉱物のひとつだろう。

「地味、ですね」

 柚子のひとことに、槐は苦笑する。

「針鉄鉱は、鉄の酸化鉱物。いわゆる自然の鉄サビです。褐色の塊状のものが多いのですが、こちらはその名のとおりの針状の結晶を有した個体です」

 柚子はその針鉄鉱を槐から受け取った。それを確認して、槐はさらにこう告げる。

「こちらをお貸しいたします。橋で声をお聞きになったら、もう一度、これを持っていらっしゃってください。その声を読み解いてみましょう」

 柚子は、はあ、と気のない返事をした。しかし、それも仕方がないだろう。鉱物と橋占。普通であれば、それを結びつけて考えたりはしない。

 しかし、彼女が渡されたのは、特別な鉱物。きっと、柚子の言う不思議な現象が何かを知るために、力になってくれるに違いない。

「あ。これ、取り扱いに注意することとか、あります?」

 柚子の問いかけに、槐は首を横に振った。

「うちの石は少し特殊でして、そう簡単に損なわれたりしませんよ。ご安心ください」

 槐の言葉に、柚子はうなずいた。とはいえ、石を借りることについては、いまいち納得できていない様子だ。

 それでも、彼女はこう言った。

「わかりました。まあ、ショップの準備とかで近くに来ることもあるでしょうし。橋で声を聞いたら、また寄ります」

「ええ。いつでもどうぞ」

 柚子は借り受けた針鉄鉱をていねいに鞄にしまうと、今度こそいとまを告げて、店を去っていった。近いうちに、また来店することを約束して。


      *   *   *


 すぐそこに橋がある。

 戻橋――死者がよみがえった橋。鬼が切られた橋。そして、予言の橋。いつも通っている橋なのに、そんな話を聞いた後だと、どこか不気味なものに思えてくる。今までは何てことはない橋だと思っていたのに。

 また、あの声は聞こえるだろうか。いつもなら聞こえませんように、と祈るところだが、こんなことになってしまったあとでは、むしろ聞こえない方が都合が悪い。

 何とも複雑な思いで、柚子は戻橋を渡り始めた。そうして、橋の半ばまでたどり着いた、そのとき。


 えじきをもとめさまよふキツネ……ししむらくはへてカラスは木の上……


 聞こえた。確かに、いつもよりはっきりと。

 柚子は思わず立ち止まる。そして、景色でもながめるふりをして、その声に耳を澄ませた。どうにか、その意味を聞き取れないものだろうか。そうやって必死になって耳を傾けると、曖昧だった声が少しだけ聞き取りやすくなった気がする。


 すぐれて美しきその御身……御こえ一節聞かまほしうこそ侍れ……


 柚子は思わず顔をしかめた。

 全然わからない。声は聞き取れても、それが意味するところは全く読み取れなかった。

 そもそも、この声の言っていることに、本当に意味などあるだろうか。キツネだのカラスだのでは、たとえそれが予言なのだとしても、たいした内容があるようには思われない。少なくとも、あの店の店主が話したような、深刻なできごとを示しているということはないだろう。

 やはりこれは、子どもの歌声か何かが風に乗って聞こえているだけに違いない。一度は否定したそんな疑いが、ふつふつと沸き上がってくる。

 柚子はその場を離れた。これ以上、ここにいても仕方がない。声は聞こえたのだから、近くに行く用があるときにでも、あの店に寄ってみよう。それで何がわかるとも思えないが。

 柚子はそう考えると、声のことは忘れて戻橋を渡りきった。ショップのオープンまでもう日がない。やることはたくさんある。意味のわからない声になど、構ってはいられなかった。

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