大和石綺譚
速水涙子
第一話 黒曜石
誰かにつけられている。
そのことを自覚するより先に、嫌な気配のようなものは感じていた。確信したのは人通りの少ない道を歩き始めてから。しかし、それが一体誰なのか、何の目的があるのか――考えてみても、とっさに思い当たる節はなかった。
昔から何かにつけてさとい方だ。人の気配。視線。悪意。そういったものには、よく気づく。だから、これは勘違いや気のせいではないだろう。
だとすれば――
時は夕刻。場所は大通りから少し外れた細い小路。古めかしい家屋が両端に並んでいるが、表札も看板もないせいで、一目見た限りでは民家と商店の区別もつかない。
それは自分がこの街になじんでいないせいなのか、それともそういう情緒なのか。住み始めて二か月程度の身では、いまいちわからなかった。ただ、静かな通りは、どこかただならぬ空気に満ちている。
辺りに人影はない。とはいえ、ここは街中だ。まだ明るいし、周辺や家の中にも人はいるだろう。この状況で危険があるとも思えない。
それでも用心するに越したことはないか。そう思い直して、近くに助けを求められるような場所がないかを探した。何かお店か、そうでなくとも人がいる場所。大通りの方へ向かって、人波にまぎれるでもいい。とにかくそういった場所で、この嫌な気配を断ち切りたかった。
そのときふと、とある場所が目に入る。
なぜその戸をくぐろうと思ったのか。その理由は自分でもよくわからない。少なくとも外観はおよそ店らしくない。それでも、そのときはなぜか、ここなら安心だと直感したのだった。
以前、姉につれて行ってもらったことのある、町屋を改装したという隠れ家のようなカフェに少しだけ似ていたからかもしれない。その店を正確に覚えていたわけではなかったが、それを思い出したことが、戸をくぐる抵抗を軽くさせたことは確かだった。そうでなくとも、普段から何かを決断するとき、自分の直感には重きを置いている。
手をかけると、格子戸は音を立ててすんなりと開いた。
その先にあったのは奥まで続く土間の通路。天井は吹き抜けのようになっていて、右手は木と漆喰の壁。左手は――閉め切った板戸だろうか。
夕暮れだが、それでもこの通路のほうが薄暗く感じた。ただ、奥の方は外につながっているのか、ほのかに明るくなっている。
物音はしなかった。お店という感じもしない。それ以上進むことはためらわれ、さりとて退くこともできずに佇んでいると、ふいに通路の向こうからひとりの青年が顔を出した。
年の頃は自分と同じか、下くらい。つまりは十八か、その辺り。きょとんとした表情で、無言のままこちらを見つめている。様子をうかがっているのか、こちらの出方を待っているのか。少し奇妙だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
何かひとことでも発してくれればよかったのだが、青年はしばらくすると、何も言わずに立ち去ろうとしてしまう。追いすがるように思わず声をかけた。
「あの」
青年は驚いたような顔で振り向いた。その反応に、こちらの方が憮然としてしまったくらいだ。
挫けそうになりつつも、どうにか問いかける。
「あの。ここはお店ですか?」
相手は目をしばたたかせた。そして、ちらりと奥の方を振り返る。
見当違いなことを言っただろうか。そう思っていると、彼はおずおずとこう言った。
「ええ。まあ、一応……」
曖昧な答えだ。それでも、答えがあったこと自体に内心でほっとする。
青年は少し迷う素振りを見せていたが、すぐに思い直したようにこちらへ向くと、軽く笑みを浮かべた。こうして見ると、人好きのする顔立ちというか、妙に人懐こい印象を受ける青年だ。
「すみません。少し待っていてもらえますか?」
青年はそう言うと、奥へと消えていった。歓迎されてはいないかもしれないが、邪険にされているわけでもないらしい。少なくとも表向きは。
何にせよ訪問を許可されたのだと受け取って、通路へと一歩踏み出す。開けたままだった戸を後ろ手で閉めると、遠くから声が聞こえてきた。
「
先ほどの青年だろう。呼ばれた名は、この家の――あるいはこの店の――主だろうか。
青年はしばらくすると、通路の奥から再び顔を出した。軽く手招きをするので、おそるおそる進んで行く。
暗い通路を抜けた先、その出口に続いていたのは明るく小さな庭だった。
足を踏み入れてまず目を引いたのは、あざやかな新緑の紅葉。残照の木もれ日が苔むした地面に落ちている。そこにはいくつか飛び石が並べられていて、奥に置かれた石造りの水鉢には静かに水がたたえられていた。茂みの向こうには小さな石灯篭もある。
家屋に囲まれた空間にもかかわらず、ここはとても明るかった。こぢんまりとしているが、見ていてほっとするような庭だ。
「お気に召されましたか?」
思わず見とれていたところに、声をかけられてはっとする。声の主は――庭に面した縁側に立っていた着流しの男性だ。
この街では着物姿も他よりまだ目にする方だが、それでもこの人はずいぶんとこなれている感じがした。年は三十代くらいだろう。落ち着いた、いかにも穏やかそうな人だ。
「どうぞ、お上がりください」
男性はそう言うと、縁側からさらに奥の方を指し示した。それに従い進んで行くと、開けっ放しの戸の向こうに上がり框が見えてくる。ここから中に入れ、ということだろうか。こういう家屋にくわしいわけではないが、ずいぶんと変わった構造をしている。それにしても。
――入っても、いいものだろうか。
ここが普通の店ではないことは、とうにわかっていた。ここから先に足を踏み入れるか否か。もし引き返すつもりなら、今しかない。
そんな考えが頭をかすめはしたが、心の内では端から引き返すつもりなどなかった。自分の直感には信を置いている。あくまでも、今回はそれに従うことを決めていた。
脱いだ靴をそろえてから家屋に入る。廊下の先では、庭に面した座敷から出てきたばかりらしい先ほどの男性が、ひとり佇み待ち構えていた。
男性は多くを語らず、そのまま別の部屋へと先導する。おとなしくそれにつき従い、後ろ姿を追って行った。
どうぞ、と通された場所は薄暗い部屋。窓がないのか、それとも閉めきっているのか。すぐにわかったのは、ここが畳ではなく板間の部屋であるということだった。
顔を上げて、暗がりに慣れた目であらためて室内を見回す。そこにあるものの正体に気づいた瞬間、はっとした。
三方の壁にいくつもの棚か据えつけてある。そして、その棚の上にあったのは、あらゆる姿、形の――
石だ。
棚の上にきちんと並べられていたのは無数の石。そのひとつひとつが、おそらくは違う種類の石だった。
その辺りの道ばたや河原で拾ってもおかしくないようなものもあれば、明らかにそうではない、変わったものも並んでいる。しかし、そのいずれもが、石、ということに違いはなかった。
「いかがでしょうか。噂を聞きつけて、これを目当てに訪れる方もいらっしゃいます」
男性はそれらをながめながら、感慨深そうにそう言った。
ここは石を売っているお店なのだろうか。それとも、個人の博物館のようなものか。何にせよ、突然の訪問は慣れたものらしい。それなら、自分の来訪もそれほど奇異には見られていないだろう。
そうして余裕が生まれれば、好奇心も湧いてくる。こういった珍しい石――あるいは鉱物と呼んだ方がいいのか――に造詣があるわけではなかったが、それでもさまざまな石が並んでいるのを見るのは目にも楽しかった。
とはいえ、いつまでもこうしてはいられない。
実際のところ、ここを訪れたのは、全くの偶然だ。何かにつけられている気がしたから。ここなら安全だと思ったから。他人からすれば、実に不確かな話でしかない。
たとえ自分の直感に信を置いていたとしても、他人にまでそれを求めるつもりはなかった。当然、信じてもらおうなどとは思っていない。しかし、そうなると、この来訪をどう言い訳したものか、という現実的な問題に引き戻されずにはいられなかった。
だから、たわいもない嘘をつく。
「実はここを訪れたのは、たまたまなんです。変わった建物に見えましたから。私はこちらの大学に通うため、この春からこの街に住み始めたのですが、勉学のためにいろいろと拝見させていただいていて……」
大学に入ってから――いや、入る前からでも、この手の会話は幾度となく交わした。ありきたりな理由だが、相手を納得させるにはちょうどいい。
この街で行動するときも、表向きはそれを理由にしていた。そもそもが古い街なので、その歴史に、文化に興味があると言えば、それで説明にはこと足りる。
しかし、このときは少し様子が違っていた。その言い分を聞いた男性は明らかに表情を曇らせたからだ。何か気を悪くさせるようなことを言っただろうか。いぶかしんでいると、男性は確かめるようにこう返す。
「なるほど。偶然、ですか」
その呟きに含まれた、ただならぬ空気に少し警戒心がもたげた。
自分の直感には信を置いている――とはいっても、何もかも信じるわけではないし、疑いがないわけではない。そして、それに頼ることの危うさも理解しているつもりだった。
しかし、次の言葉を聞いた瞬間、その自信がほんの少し揺らぐ。
「あなたは何か、よくないものをつれていらっしゃる。ここに来たのは何か、お困りだからではないですか?」
「――なぜ……」
それを――と、続きそうになった言葉を飲み込んだ。指摘されたことには覚えがあったが、それに言及したことも、悟られるような行動をした覚えもない。そう思って、必死に考えを巡らせる。
そうして不安にさせることで、何かを買わせようという算段だろうか。困っている者ほど、それを指摘されれば虚をつかれるもの。よくある手だ。
ただ彼は、はっきりとこう言った。よくないものをつれている、と――
男性は、じっとこちらの反応をうかがっていたようだが、しばらくすると、ふいに苦笑した。
「いえ、私も決して、くわしいわけではありませんので、確かなことは言えませんが。それに、一時的なものかもしれませんし、怖がらせてはいけませんね。もし見当違いのことを言ったのでしたら申し訳ございません。ただ、ここは――そういう方が迷い込んでくることがよくあるのです」
その言葉をいぶかしんでいると、男性はこう続けた。
「どうにも、ここにあるものが、そういった方を呼び寄せてしまうようで」
それを聞いて、思わず周囲を見回した。たくさんの石。そのたわいもない収集品が、何か得体の知れないものであるかのように思えてくる。
すべてを鵜呑みにするわけではない。しかし、すべてを否定してしまえるほど、これらの石のことを知っているわけでもなかった。
返す言葉も失って、呆然と目をしばたたかせるしかない。自分の意志で道を選んできたつもりが、知らず影響を受けていたとでも言うのだろうか。ここにある、ありふれた――ではないが、それでも、ただの石ころに。
しかし、ここを安全な場所だと思った、ということは、そういうことなのかもしれない。とはいえ、その言葉を素直に受け入れるほど、自分は単純でも、追い詰められてもいない――つもりだった。
面倒なことになる前に立ち去ろうか。そう思った、そのとき。
「大丈夫ですか。槐さん。また難しい話でお客さんを困らせたりしてませんか?」
その声に、はっとして視線を向ける。最初に見かけた青年が、ちょうど部屋に入ってくるところだった。
青年は、どうぞ、と声をかけながら、手にした盆にのった湯のみを二つ、部屋の中央にある丸いサイドテーブルへと置いていく。いつのまにか姿が見えなくなったと思っていたが、どうやら来客のためのお茶を淹れていたらしい。
「こんにちは。僕は桜って言います。よろしくお願いしますね」
目が合うと、そう声をかけられた。ずいぶんとかわいらしい名前だ。そう思いつつも、彼の場違いな明るさにとっさの反応が遅れてしまう。
桜と名乗った青年はなごやかとはいいがたい空気に気づくと、きょとんとした表情で男性の方へ視線を向けた。
「あれ? もしかして、まだ名乗ってないんですか?」
確かにそうだが、この妙な間はそれが原因ではない。思わず苦笑すると、張りつめていた空気が少しやわらいだ。
そう思ったのは、男性の方も同じだったらしい。
「少し急ぎ過ぎたようですね」
彼は謝罪するように頭を下げると、あらためて背筋をすっと伸ばした。そうして、真っ直ぐなまなざしをこちらに向ける。
「
男性はそう名乗った。
「……
思わず、そう名乗り返してしまう。
槐はうなずくと、笑みを浮かべながらこう言った。
「私はここで鉱物などを売り買いしております。しがない店の主です」
「では、やはりこれらは売りものなのですか?」
花梨は確認のつもりで問い返したのだが、なぜか槐は言い淀んだ。
「そうですね……私自身は、よい持ち主に出会えたのなら、お譲りすることもやぶさかではないと思っているのですが」
その言葉に、槐の傍らに立っていた桜は、え、と驚いた顔をする。けげんに思って花梨が視線を向けると、そのことに気づいて彼はすぐに取り成した。
「その……ここに並んでいる石が売れることはあまり――というかほとんど、ないんです。いろいろあって」
桜はそう言うと、棚に並んだ石たちとは別の方向を指し示した。
「石は他にもたくさんあるんですよ。収集品の噂を聞きつけて、買い取りを希望される方もいるので。もちろん売って欲しいという方も来られます」
では、この棚に並んでいるものは、店主にとって特別な石、ということだろうか。単純に、売りものを並べているというわけではないらしい。それにしても――
「これらが人を呼び寄せる、のですか?」
花梨はそうたずねる。
しかし、槐はそれをはっきりとは肯定しなかった。代わりに室内をぐるりと見渡していく。ひとつひとつを確かめるように。
それは決して、何か厄介ごとを呼び込んでくるような、疎ましいものへ向けるまなざしではないように思えた。
花梨の方へ視線を戻すと、槐は少しだけ困ったような笑みを浮かべる。
「これらが結んだ縁のおかげで、ほんの少しだけですが、そういうものを知るようになったことは確かです」
「そういうもの?」
「怪異、と呼べばいいのでしょうか」
――怪異。
花梨はふいに、ここに来るまでに感じていた嫌な気配を思い出した。
自分はさとい方だ、という自覚はある。しかし、それはあくまでも、ほんのささいなことに対してだ。
例えば、何か嫌な予感がしていつも通っている道を遠回りすると、そこでちょっとした事故があったことをあとで知る、とか。誰かに見られているな、と思ったら、次の日に、たまたまその場所で見かけたことを友人から言われる、とか。
しかし、あとをつけられている、と感じたことは初めてだ。それも、おそらく普通でないようなものに。ただ、その感覚も自分の直感による判断でしかなく、それは、怪異だ、と確信できるようなものではなかった。
そんな曖昧なものを、見ず知らずの人に話したところで仕方がない。普通であればこんな話、笑い飛ばされて終わりだろう――そう思っていたが、この店に限ってはどうにも事情が違うようだ。花梨はそう考え直す。
「そういったものに、つかれていますか。私は」
花梨はそう問いかけた。自分の直感は当たっているのか、それとも。
答えを待っている間、槐は少し考えるような素振りを見せたが、花梨の視線を受け止めると、申し訳なさそうにこう話し始めた。
「確かに、私は普通の人より、そういうものにふれる機会は多いのですが、専門の知識があるというわけではありません。私にはそれらをどうにかするような力はない。特別な力があるのは、ここにある石たちなのです。私はその声を聞くことができるだけ」
「声、ですか」
その答えに、花梨は少し拍子抜けする。この人にも確かなことは言えないらしい。
それにしても――
石の声。槐が言うそれは具体的な声なのか。それとも何かのたとえなのか。とっさに判断できずに、花梨は思わず顔をしかめた。苦笑する槐に、呆れたようにため息をついたのは桜だ。
「いきなり過ぎですよ。槐さん。そんな突拍子もないこと言われても信じられませんよ。ねえ?」
桜は同意を求めるように、花梨に向かって軽く肩をすくめた。それを見て、槐は頼りなげな表情でため息をつく。
「……どうにも説明が下手だな。私は」
どうやら本気で落ち込んでいるらしい。その様子が妙にしおらしく、思わずおかしく感じてしまう。
珍しく本音を口にする気になって、花梨はこう言った。
「私も、そもそも幽霊とか怪異とか信じていない方で……だから、正直言うと今まで話していただいたことも話半分です。ごめんなさい」
実際に、そういうものを見たり、体感したりといった経験はない。それは自分の直感によって回避できているからなのか、それとも、そもそもそんなものは始めからないのか。それは自分でもよくわかっていなかった。
槐は気を悪くした様子もなく、ただ笑う。
「それでよろしいかと思います。初めて相対するものならなおさら、疑ってかかるのが正しい場合もあるでしょう。信じられないことを無理に信じる必要はありません。特に、こういったことは常識で図れるものではありませんから」
槐はそう言って、花梨の言葉を受け入れた。しかし、桜の方は少し不満げな表情を浮かべている。
「でも、ですよ。そのせいでここが怪しいお店だと思われるのはいただけません。僕は、槐さんが馬鹿正直に何でも話してしまうのがダメだと思ってます」
桜がそう言うと、槐は困った表情で笑っている。
――悪い人たちではないのだろう。
花梨はふと、そう思った。それは直感ではない。ほんのひとときでも彼らと話をして、実感を伴って得た答えだ。
花梨はあらためて周囲を見回した。
古めかしい町屋の一室。窓が閉じられた部屋の壁にはいくつもの棚が据えつけてある。木製の棚の上に置かれているのは、珍しい形、色の石たち。五十個くらいはあるだろうか。ひとつとして同じものはない。
非日常な光景だ。しかし、だからこそ、どこかわくわくするような、ほっとするような――奇妙な感情を抱く。
「呼ばれてよかったかもしれません。でないと、この店にはきっと出会えなかったでしょうから……」
そう言ったところで、花梨は、はたと気づいた。
ここはお店だ。特に買う気もない自分が長居してもいいものだろうか。そんな常識的なことが急に気になり出す。
「あ。でも……その、私の手持ちでは、こういったものを買うことは、できないかもしれませんが」
焦って口にした言葉に、槐と桜は顔を見合わせた。そして、軽く笑い合う。
「見に来てくださるだけでも、いつでも歓迎していますよ。もしも興味を持たれたのなら、他にもいろいろお見せしましょう。安価な鉱物でも、おもしろいものはあります」
槐がそう言うと、桜もうなずく。
「お客さんなんてほとんど来ませんし。大抵は暇してますからね」
花梨は苦笑する。何とも商売気のない人たちだ。呆れると同時に、自分がこのやりとりを心から楽しんでいることに気づいた。
「ここに来てよかったです。こんな風に誰かとたわいない話をするのは、すごくひさしぶりで」
花梨がそう言うと、桜はいぶかしげに首をかしげた。
「たわいない、ですかね……」
確かに、話している内容自体は――怪異だの、つかれているだの――とてもではないが、なごやかなものとは言いがたい。それでも、この土地でまだ友人のひとりもできていない花梨にとって、それはとても貴重な時間だった。
花梨がこの街に住み始めてからどんな日々を過ごしていたのか、彼らは知らない。それは、常に細い糸にすがって見えない出口をさ迷うような、そんな頼りない毎日だった。
新しい生活に慣れなければならないという苦労も、もちろんある。しかし、それ以上に、花梨にはどうしてもやらなければならないことがあったからだ。
そのことを思い出したそのとき、花梨の視界で何かが光った。
それがあったのは、部屋の中央にあるサイドテーブルの上。どうやら、わずかに差し込んだ西日を受けたせいで、輝いて見えたようだ。
卓上には桜が置いた湯のみの他に、もともと二つの木箱が置かれていた。ひとつは桐の箱、だろうか。両の手のひらにおさまる程度の大きさの、立方体の箱だ。少し古びているようだが、あざやかな紐が結ばれ封がされている。
もうひとつは平たい寄せ木細工の箱。宝石箱、という言葉が真っ先に思い浮かんだ。ここが鉱物のお店だからそう感じただけかもしれないが、年季の入ったそれはいかにも何かの秘密を抱えているように見えた。
二つの箱は風景の一部としてそこになじんでいる。そして、輝いていて見えたものは、その箱にさえぎられ、わずかに隠れたところにあった。二つの箱の隙間から見えるもの、それは――
「そちらが気になりますか?」
花梨の視線に気づくと、槐は何気なくそれを手に取った。照り返る光で見えなかったその姿が、はっきりとあらわになる。
それは黒い石だった。
つややかな黒。波打つような表面は、なめらかなようで輪郭は鋭い。形は三角形――のような、少し変わった形をしている。
「黒曜石。マグマが急速に冷え固まってできる火山岩の一種です。天然のガラスとも言われますね。英語名はオブシディアン。模様や特殊な輝きを持つものもありますが、基本的にはこのように黒い石です」
槐はそう言うと、花梨の目の前へ、それを差し出した。近くで見ると、それはよりいっそう黒く見える。それでいて、光を受けて輝く姿は夜空に星がまたたいているようにも思えた。
「これ、自然のものではないですよね」
特徴的な形をあらためて目にして、花梨はそう言った。槐はうなずく。
「黒曜石はガラス質のため、割ることで鋭利な刃のように加工できます。そのため、遠い昔から人々に日常の道具として利用されてきました。これは、そう、
「鏃……武器、ですか」
「あるいは狩猟の道具でもあったでしょう」
槐はそう答えると、しばし思案するように沈黙した。黒曜石の鏃をじっと見つめ、黙ったまま動かない。
不思議に思っていると、槐はふいに、手にしていた鏃を花梨へと差し出した。
「どうぞ、お持ちください。もしかしたら、これがあなたのお力になれるかもしれません」
驚きつつも、花梨は思わずそれに手を伸ばす。素直に受け取るべきか、それとも――まごついている花梨を見て、槐は安心させるようにほほ笑んだ。
「言ったでしょう? 声を聞くのだと。その石には特別な力がある。それは守る力です。お守り代わりに持っていただければ、少なくとも、あなたの身を守ることはできるでしょう」
確かに、よくないものをつれている、と槐は言った。そのこと自体は花梨も自覚し、不安に思ってはいたことだ。
ここにある石には特別な力があるらしい。少なくとも、槐はそう言っている。そして、声が聞こえるのだ、と。ならば、彼がこれを差し出すからには何かしらの意味があるのだろう。
戸惑いつつも、花梨はたずねる。
「でも、その――お代金は……?」
「いりませんよ」
槐は何でもないことのように、そう答えた。しかし、そういうわけにもいかない――とは思うのだが、花梨には黒曜石の鏃がどれほどの価値を持つものなのか見当もつかない。
どうするべきか花梨が悩んでいるうちに、槐は念押しするように口を開く。
「あなたの力になるのなら、黒曜石も本望だと思います。ただし、ひとつだけお約束を」
「何でしょう」
「もし、あなたがそれを手放そうとお考えになられるようなら、捨てたりはせず、ここに返していただけませんか。それだけです」
そんなことか。花梨は拍子抜けする。
しかし、そうして条件を出すからには、この鏃はよほど大切なものなのだろう。やはり、ここにある石たちは売りものではなく、彼にとって特別なものなのかもしれない。
考えた末に、花梨はそれを受け取ることにした。あくまでも、不安をやわらげるためのお守りとして。
花梨は彼らが悪い人だとは思えなかったが、それでも何もかもを信じているわけではない。特別な力を持った石、と言われても、それを言葉どおりに受け取ったわけではなかった。
ただ、もしかしたら槐も、あくまでも気休めとしてこれを渡すのかもしれない。お守りと信じさせて、花梨を安心させるために。こういうことは結局、気の持ちようだろうから。
そうして何も起こらなければ、落ち着いてから、またここにこれを返しに来ればいい。もう一度訪れてもいいと思えるほどには、花梨は彼らに好感を抱いていた。
「わかりました。お約束します。不安を感じていたのは確かですし、お守りとしてお借りできるのなら心強い気がします」
花梨がそう言うと、槐はうれしそうにうなずいた。成り行きを見守っていた桜も、心なしかほっとしているようだ。
気づけばだいぶ日も落ちている。思いがけず、ずいぶんと長居をしてしまった。そろそろ帰らなくてはならない。
花梨はあらためてお礼を言い、いとまを告げた。槐の見送りを背に、桜とともに土間まで戻ってくる。
表の戸から外の通りに出るとき、桜がふいに、あの、と声を上げた。それに応じて向き合うと、桜は意を決したようにその先を続ける。
「よかったら、また来てくださいね。用がなくても。うちはあんまりおしゃべりな人はいなくて。話し相手になってもらえるとうれしいです」
初めて会ったときにも、人好きのする青年だ、と思ったものだが、彼の印象は今もそれほど変わっていない。外見の見た目は花梨とそれほど年が離れているようにも思えないが、それでも、弟がいたらこんな感じだろうか、と思った。
花梨は桜の言葉に快くうなずく。別れを告げ、戸が閉められてしまうと、その建物は周囲に溶け込んでしまった。とてもお店を営んでいるようには見えないが、店主があの様子では、それでも問題はないのだろう。
そういえば、店の名前も聞いていない。
花梨はこの場所を忘れないようにと、周りの様子を確認してから歩き始めた。ここに来たときは辺りに人の気配もないと思っていたが、今になって人影がちらほら見える。大通りからも、ほど近い場所だ。人通りのない方が異常だったのだろう。
追い立てられるような感覚は、もうなくなっていた。
次の日のこと。
夕刻の日も沈む時間、花梨は大学での講義を終えてアルバイト先にいた。
場所は大通りに面した雑貨屋。旅行客や若者が訪れるお店で、今風にアレンジされたかんざしや扇子などを取り扱っている。大学に入ってすぐ、花梨はその店で販売員として働いていた。
新緑の季節。今の時期は気候もよいので、客足もそれなりだ。
仕事を終えて帰る間際、花梨は店先にあった天然石の根付けを目にして、ふと昨日のことを思い出した。
あのお店を出てからこちら、今のところ、おかしなことは何も起こっていない。嫌な気配を感じることもなく、あとをつけられるということもなかった。周辺で不穏なことがあったとも聞かない。
危険なことがないなら、それに越したことはないだろう。しかし、嵐の前の静けさのような、そんな予感だけが漠然とあって、花梨は張りつめた緊張感を半ば持て余してもいた。
受け取った黒曜石の鏃は常に持ち歩くようにしている。矢先の反対側、突起のある部分に革紐をくくりつけてあった。万が一にも、落として失くしたりしないように。
割れ口はナイフほど鋭いということだったので、取り扱いには気をつけていたが、さすがに刃の部分が磨耗しているのか、少しさわっただけで傷がつくようなことはなかった。そもそも、これは遺跡などから出土したものなのか、それとも、それっぽく加工されただけのものなのか。下宿先に帰ってからもいろいろと調べてはみたが、よくわからないままだった。
そうして、無意識のうちに黒曜石の鏃に手を伸ばした、そのとき――ふいに背後から、花梨ちゃん、となれなれしく声がかかった。
「……何ですか、センパイ」
思わず不機嫌が声に出てしまう。取り繕いながらも、花梨は慌てて後ろを振り返った。
視線の先にいたのは同じ大学に通っているらしい青年だ。バイト仲間でもあるが、相手の方が花梨より少しあとに採用されている。用もないのに何かとからんでくるので、花梨はひそかに閉口していた。
「もう帰るの? 今日は上がり早いんだね。あと、前々から言ってるけどさ。花梨ちゃん。俺のことは下の名前で呼んでよ」
そもそも、この人は何て名前だっただろうか。花梨は思い出そうと試みたが、すぐには出てこなかったので早々に諦めた。代わりに大きくため息をつく。
「いいじゃないですか。センパイで。実際、同じ大学の先輩なんですよね?」
同じ大学といっても学部が違うからか、構内で会ったことすらない。すげない返事に、相手は苦笑する。
「ここでは花梨ちゃんの方がバイトの先輩だし。あ。でも名字はなしね。名字って、家、って感じで嫌なんだよね。だから、できれば下の名前の方で呼んで欲しいんだけど」
どうして、そうなるのだろう。いまいち理屈がわからない。花梨はあからさまに顔をしかめた。
「嫌ですよ。私の方が先だって言っても、数日のことじゃないですか」
名前にこだわる事情もよくわからない。しかも、話を聞く限り、特に合理的な理由があるわけではないようだ。今後も取り合わないことにする。
正直言って、花梨はこの人のことがあまり好きではなかった。というより、おそらくかなり苦手な部類だ。
しかし、そんなことはおかまいなしに、彼はなおも話しかけてくる。
「つれないなあ。そういえば昨日、裏の小路の方にいたよね? 何してたの? 声をかけようと思ったんだけど、見失っちゃって」
――まさか、あのときつけていたのはこの人だったのか。
だとしたら、無意味に怯えていた自分が馬鹿みたいだ。花梨はひそかに肩を落とした。
そんな落胆などつゆ知らず、彼はお気楽に問いかけてくる。
「このあとさ、どこか遊びに行かない?」
「行きません。というか、これから人と会う約束をしていますので」
そう答えると、彼は大げさに、え、と目を見開いた。
「まさか、相手は男だったり?」
「だとしたら、何だっていうんです」
花梨はそう言うと、強引に話を切り上げようと、そのまま踵を返した。
しかし、よくよく考えれば、この人とは明日もこの場所で顔を合わせることになる。ならば、あまり無下にしても気まずいかもしれない。そう考え直し、花梨は振り返った。そして、肩越しに言い訳する。
「会うのは、あなたと同じ――大学の先輩ですよ。ちょっと、聞きたいことがあるだけです」
それだけ言って、花梨はその場をあとにした。
花梨は待ち合わせの場所へと急いでいた。
この日の空は厚い雲におおわれているせいか、どんよりと黒い。時折吹く風にも妙に湿り気があって、初夏のさわやかさとはほど遠かった。これから雨が降るのだろうか。ゆううつな気持ちで花梨は空を仰ぐ。
日も落ちて、辺りはもう薄暗くなり始めていた。とはいえ、周辺にはいくつも店が並んでいるので、屋内からもれた光が煌々と輝く街灯とともに、にじむように街を照らしている。
黄昏どき。一日の終わりに向けて静かに幕を下ろす時間。
しかし、花梨の行く小路は街の中心地に近いだけあって、家路を急ぐ者、夜の街にくり出す者と周囲には人通りが絶えなかった。ただ、約束の時間が迫っていることもあって、花梨は足早に道行く人たちを追い越して行く。
どれくらいそうして歩いていただろうか。ふとした瞬間、気づいたときには周辺から人影が消えていた。いや、実際に消えたわけではない。たまたま行き合わなくなっただけだろう。とはいえ。
――誰の姿も、ない?
この時間、大通りからもほど近いこの辺りに、誰の姿もないなんてことがあるだろうか。日が落ちたとはいえ、そう遅い時間でもない。まだ営業しているお店もあるはず。
嫌な予感がした。あの石の店に迷い込んだときと同じだ。しかし、今いる場所はあのとき歩いていた道とは違い、いくつか通りを隔てたところだった。
とにかく待ち合わせの場所まで行こう。花梨は不安な気持ちを抑えつつ、その歩調を速めた。
目的地は小さなお店だ。喫茶店、あるいは食堂といった方がいいのか。遅くまで営業している軽食屋で、一部では有名な店らしい。その店で、花梨は同じ大学の先輩と会う約束をしていた。あることについて、たずねるために。
角をひとつ曲がり、ようやく目的の店に到着する。花梨は、ほっとしながら扉に手をかけた。この異様な雰囲気から逃れたい、その一心で。しかし。
――閉まってる。
どれだけ力を込めても、その扉が開くことはなかった。そのことを確かめて、花梨は思わず顔をしかめる。
ガラス越しにうかがい見た店内は、ぼんやりと暗い。とはいえ、完全な闇というわけでもなかった。まるで、ついさっきまで営業していたのに慌てて照明だけ落としたような、そんな妙な空気だ。当然、中には誰の姿もなく、閉店がわかる札も貼り紙も見当たらない。
何かがおかしい。花梨はすばやく踵を返した。とにかくこの場から逃れよう。そう思って、行く先も定まらないまま歩き出す。
大通りの方へ――とにかく人がいるだろうところへと向かった。しかし、そうして開けた場所へ出たとしても、人の姿を見ることはおろか、車一台すれ違うこともない。その異様な状況に、花梨は呆然と立ち尽くした。
――あの店に助けを求められないだろうか。
藁にもすがる思いで、花梨はそれを思いつく。
昨日、花梨が迷い込んだあの店。迷惑かもしれない。しかし、槐は怪異について理解があるようだった。そして何より、花梨には他に頼るべき相手もいない。
決心し、店がある方へと足を踏み出した、そのとき――ふと、行く手にある一本の柳の木が目にとまった。
風を受けて、かすかに揺れる柳の葉の下。その影に何かがいる。人影か、とも思ったが、どうも違うようだ。その横を通ることをためらって、花梨は思わず立ち止まる。
それを見計らったように、背後から花梨の肩を叩くものがあった。
「どうしたの、こんなところで」
驚きのあまり、花梨は飛び上がるようにして後ろを振り向いた。そこにいたのは――何てことはない。花梨が待ち合わせていた相手だ。
しかし、花梨は戸惑いを隠せない。今の今まで、誰の姿もなかったのに。そうでなくとも、目の前の彼は異変にはまるで気づいていないかのように、平然とその場に立っていた。
唖然とする花梨に、相手はけげんな顔で首をかしげている。
「いや、申し訳ない。ちょっと遅れて……」
そんな場違いな言い訳にも、花梨は軽く混乱する。
――私の、勘違いだった?
すべては、単なる偶然。花梨はそう思いかけたが、相対している彼の視線が、いつの間にか花梨の背後――柳の木の方へと向けられていることに気づいた。そうしているうちにも、彼の顔色はたちまち青くなっていく。
花梨がその変化の意味を理解するよりも前に、彼はふいに走り出した。花梨に背を向けて。何か言葉にならない叫びを上げながら、一目散に。一度も振り返ることなく。
花梨はただ呆然と、それを見送った。
場違いな来訪者が退場したことで、辺りはよりいっそう、しんと静まり返ったようだ。それにしても――
彼は何を見たというのだろうか。あの柳の木の下に。
振り返って、次に柳の木の下に目を向ければ、きっとそれを目の当たりにしてしまうだろう。しかし、花梨はそれを確かめるのが怖かった。ただ、その何かが今はどうしているのか――もしや、こちらに近づいているのではないか――それを確認しないこともまた、同じくらい恐ろしい。
花梨は挫けそうになる気持ちを奮い立たせながら、意を決して振り向いた。
風にうごめく、しなだれた柳の枝のあいだ。そこに見えたのは、黒く巨大なもやのようなものだった。人に似た形ではあるが、明らかに人ではない。それが柳の元を離れ、こちらへ――花梨の方へとゆっくり迫ってくる。
走って逃げてしまえばよかったのかもしれない。しかし、逃れられるとも思えなかった。あれはどうやら、自分のことを狙っているようだ。花梨はそう確信する。
花梨はじりじりと後退しながら、無意識にすがれるものへと手を伸ばした。そして、心の中で祈る。何に対してかはわからない。人がどうしようもなく絶望したときに、助けを求めるもの。神か、それとも――
そのとき、花梨の指先が何かにふれた。驚いて視線を向けると――そこにあったのは黒曜石の鏃。
花梨がそれを確かめた瞬間、鏃は静かに淡い輝きを放ち始めた。それはやがて収束し、人の形――青年の姿へと変わる。
黒い髪に、黒く鋭い瞳。身にまとった衣装もまた、烏を思わせるような漆黒。
現れた青年は、正体の知れないそれを真っ直ぐに見据えると、流れるような動作で軽く両手を差し出した。彼の手元に、どこからともなく弓と矢が現れる。ゆるやかな曲線を描く漆塗りの和弓に、黒い矢羽のついた一本の矢。その鏃は、鋭く輝きを放つ黒曜石。
青年の眼光に怯んだのか、にらみつけられた黒いもやは一切の動きを止めていた。相対する彼はその視線を維持しつつ矢をつがえ構えると、そこからゆっくりと弓を引き絞っていく。
ほんの一瞬、流れていた時間が止まる。いや、そんな風に花梨には感じられた。しかし、それもわずかな間だっただろう。
狙いを定めた次の瞬間、青年はその矢を解き放った。放たれた矢は、狙い違わずそれを射抜く。そうして討たれたものは、苦しげにもがいたかと思うと、まるで強い風にでも吹かれたように跡形もなく消えていった。
途端に、周囲の空気も変化する。遠のいていた日常の音や気配が、どっと押し寄せてきたことで、やはり今までが異常だったのだと、花梨はあらためて思い知った。
柳の木の下には、もう何もいない。ただ、風に吹かれた葉が涼やかに揺れている。まるで、何ごともなかったかのように。
花梨は呆然と立ち尽くしていた。いろいろなことが一度に起こりすぎて、どうにも現実感がない。
ぼんやりとしながらも、槐の言葉を思い出す。彼は確かに、石には特別な力がある、と言っていた。そして、声を聞く、とも。あの言葉は嘘やごまかしなどではなかったのだろう。今さら、そんなことを納得する。
異変が消えてからも、黒い青年は変わらずそこにいた。花梨が心落ちつけるときを待っているかのように。
もしかして、このまま消えてしまうのではないか、と案じたのだが、その心配をよそに、青年は花梨が立ち直ってきたらしいことを見てとると、ふいにその口を開いた。
「あれに、心当たりは?」
あれ、とは当然、あの黒いもやのことだろう。青年の問いに、花梨は首を横に振る。心当たりなど、ない。しかし――
答えに迷っているうちに、青年はこう続けた。
「しかし、あれの出所は、あなたの近くにあるように思える」
思いがけない言葉だったが、花梨は何かを直感して、自分の鞄の中を探り出した。何かがあると期待したわけではない。何もないことを確かめたかっただけ、のはずだったのだが。
――いつのまに、こんなものが。
鞄の底から探り当てたものを見て、花梨は目を見開いた。思わず、青年に向けて困惑の視線を送る。しかし、相手はどうやら、そのことを察していたらしい。
険しい表情で、彼は花梨にうなずき返した。
鞄の中にあったもの。それは、花梨自身は入れた覚えのないもの――見たこともない記号が書き連ねられた、一枚の紙片だった。
それが何なのか、花梨には本当のところはわからない。しかし、呪い、という言葉がふと頭に浮かぶ。
青年はこう言った。
「もしも、心当たりがあるというのなら、そのものからは距離を置いた方がいい。これは人の在るべき領域のものではない。すべて夢だったとでも思い、忘れるべきものだ。それが、あなたのためなのだから」
青年はそう言った。厳しい口調だったが、それでも、どこか気づかいが感じられる。きっと、本心からそう思っているのだろう。
しかし、花梨は本当に、自分に向けられた悪意の正体がわからなかった。そして、わからないからこそ知りたいと強く思う。
「ありがとう。でもきっと、そういうわけにはいかない」
青年のまなざしを受け止めながら、花梨はそう言い返す。
「これが夢なのだというのなら、私はその夢の続きが見たい。たとえそれが悪夢であったとしても」
花梨のその言葉に、青年は無言で顔をしかめた。それが表しているのは困惑か、苛立ちか。彼の正体を知らない花梨には、まだ判断がつかない。それでも。
――きっとこれは、天上から垂らされた蜘蛛の糸なのだろう。
花梨はそう思った。だとずれば、自分はどうしても、それをつかみとらなければならない――
「私がこの街に来た理由は、ただひとつ」
大学へ通うため故郷を離れ、この街へやって来た。それは表向きの理由だ。しかし、花梨には全く別の、切実な、とある決意を隠していた。それは――
「いなくなった姉を、探すためなのだから」
花梨は自分を呪うのかもしれない紙片を軽く握りしめた。
あの恐ろしい黒いもやを思い出す。これはきっと悪意だ。しかし、そんなものを向けられるほどの人間関係を、花梨はまだこの街で築けていない。家族もいない。友人もいない。知り合いすらも数えるほど。
ならばこの悪意を向けるものは何なのか。姉の行方に関係するものではないのか。
違うかもしれない。しかし、花梨には、ほんの少しの希望であっても、喉から手が出るほど欲しかった。
そのために、花梨はこの街に――古き都、京都へとやって来たのだから。
ここで姉は誰と出会い、どのように過ごし、そして消えたのか。ただ、その真実を知るために。
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