第56話:聖女アリシア 9

 ――聖教書。

 これは神聖な魔力を用いて作られた書類のことであり、お互いに絶対に守らなければならないことを記し、契約するためのものだ。

 もしも記されたことが守られなければ聖なる力により、記されている罰が契約を違えた者に与えられる。


 ただし、聖教書という物自体が存在していることを普通の平民は知る由がない。

 何故ならこれは司祭や貴族の間だけで使用されてきたものであり、そもそも平民が契約を持ち出すことすらないのだから。


「貴様! どこでそのことを知った!」


 故に、ここでも再びベントナーが怒り狂った。

 先ほどの震えていた姿はどこへやら、すでに彼の右手は腰の剣を握りしめている。

 アーノルドも構うものかと剣に手を伸ばしており、一触即発の状況になってしまった。


「……ふむ、聖教書ですか」

「大司祭様!」

「よい、ベントナー」


 ホールトンは今回もベントナーを諫めたものの、先ほどのように威圧を掛けることはしなかった。


(ということは、ホールトンもお父さんが聖教書の存在を知っていることに疑問を抱いているのね)


 聖教書についてアーノルドに知恵を授けたのは、当然ながらアリシアだ。

 ただし、名前を出すだけでも疑われる、彼自身が危険な目に遭うかもしれないと事前に伝えていたものの、アーノルドはそれを快諾した。

 アリシアの前世について知っているアーノルドからすれば、娘に会えないという事実は自分の未来にとっても大問題になるからだ。


「もしも聖教書によって取り決めをしていただけないのであれば、アリシアをお預けすることはできません」

「……団長殿、そのことをどこで知り得たのですかな?」

「大司祭様。今この場で重要なのはどこで知ったのかではありません。聖教書によって取り決めをしていただけるか否かではありませんか?」


 探りを入れようとしたホールトンに対して、真っ向からぶつかっていくアーノルド。

 すでに剣から手を引いているものの、二人の間では激しい火花が散っているような錯覚をアリシアは感じていた。


「……わかりました、いいでしょう」

「ありがとうございます。アリシアも構わないね?」

「はい」

「それでは、内容はいかがいたしましょうか?」


 ホールトンからの問いに、アリシアとアーノルドは顔を見合わせたあと、一つ頷く。

 この内容についてもすでに二人の間では話し合われている。

 聖教会を疑うような取り決めは避けるべきであり、その中でアリシアが不利にならない内容を選ばなければならない。

 故に、二人が決めた取り決めはというと――


『アリシアとアーノルドの面会はどのような状況であれ、実施しなければならない。その際、ドア越しなどではなく、直に顔を合わせての面会とする』

『もしも契約を違えた場合、違えた側の相手には即座に眠りの罰が与えられるだろう』


 本当であれば聖教会での待遇面についても注文を付けたいアーノルドだったが、そこまでいくと疑っているとみなされて受けてもらえない可能性が高かった。

 なので今回は面会の時に必ず顔を合わせられるようにと、それだけのために聖教書を使うことになった。


「……たかが面会くらいで聖教書だと? ふざけるな、平民が!」


 小声のつもりなのだろうか、ベントナーはずっとこのような文句を口にしている。

 しかし、アーノルドも引くつもりなど一切なく、しっかりと記された内容にも目を通し、不備がないことを確認した。


「こちらの内容でよろしいかな?」

「……えぇ、大丈夫です。ありがとうございます」

「では、聖教書にて契約を執り行いましょう」


 ホールトンが聖教書に魔力を注ぐと、紙は金色の炎に包まれていき、輝く粒子となって消えてしまった。


「……では、契約完了となります。出発は明日でよろしいですかな?」

「アリシア、大丈夫かい?」

「はい、お父さん」

「大司祭様方は私の屋敷にお泊りください」

「あぁ、いえいえ。皆様方にご迷惑はお掛けできません。村の外にテントを張らせておりますので、そちらで休みたいと思っております」


 ただ単に田舎の家で寝泊まりをしたくないということだとアリシアは理解していたが、あえて口を挟むことはしなかった。

 ホールトンが村長の屋敷をあとにしたところで、アーノルドはボソリとアリシアに問い掛けた。


「……なあ、アリシア。眠りの罰とはいったい何なんだ?」


 それは聖教書に記された罰の内容だった。

 アーノルドはアリシアと面会できるという部分にだけ注目しており、罰の内容については気にしていなかった。


「……あれは、どこで何をしていようとも、取り決めを違えるとその場で丸一日眠り続ける、という罰だよ」

「……それが罰になるのか?」

「……まあ、聖教書の中では軽い方の罰だけど、妥当じゃないかな」

「……アリシアがそう言うなら、いいのだろうな」


 説明を受けて納得したアーノルドだったが、一方でアリシアはこれをどこかで利用できないかと考えていた。


(……まあ、王都での悲劇はまだまだ先の話だし、ゆっくり考えようかな)


 そう思い直してアリシアは、アーノルドと過ごせる最後の一日を無駄にしないよう、彼の手をギュッと握ったのだった。

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