ここが彼岸のあなたでも

かける

【1】しきたりの家


 幼い手に、シャツの裾を引かれた。


「お兄ちゃん、この家に入るの?」


 いつの間にそこに立っていたのか、五、六歳ほどの少女が誠通なりみちのことを見上げている。


 蝉時雨が鼓膜を震わし、真っ青な空から照りつける陽射しがじわじわと肌を焼く。風もないので、吹きだした汗がねっとりと服ごと張り付いてきて、心地悪かった。


 そんな夏の盛りの昼日中だからだろうか。舗装もされていない、地面がむき出しの田舎道には、誠通と少女の他に人影は見えなかった。


 隣の家すら車で行きたくなるほど離れている田舎の果てのような場所だ。目の前は立派な門かぶり松まである大きな邸の入り口だが、そこは固く閉ざされたままで、少女が抜け出てきたとも思えない。ずっと続く長い垣根には穴もなく、誠通は首をかしげた。


「入るが・・・・・・なんかあるのか?」


 見つめ上げる真っ黒な瞳から逃れがたく、誠通は低く返した。細いフレームの眼鏡越しの眼光は鋭く、彼の怜悧な顔立ちは冷たくも見える。それも相まって、返答はひどくぶっきらぼうに響いた。


 怖がらせたか、と、しくじった思いで誠通は少女をうかがう。だが、彼女は顔色ひとつ変えてはいなかった。それどころか、白い袖なしのワンピース姿の少女は、この暑さの中どこか不自然なほど涼しげだ。


「入っても、出されたものは食べない方がいいよ」


 瞬きもしない黒い視線は、愛想なく告げると背を向け、長い黒髪をなびかせて駆け去っていった。


 意図が掴めず引き止めようとした声を、ゆっくりと重たく開いた門の音が押し留める。


「遠いところよく来てくれました、誠通くん」


 三十に差しかかったほどの着流し姿の男性だった。人のいい笑顔を浮かべ、出迎えてくれる。それに一瞬、気を取られたその隙に――少女の姿は道のどこにも見えなくなっていた。


 垣根に沿って真っ直ぐ続く道と、その脇を流れる小川が、抜け渡る夏空のもと、ゆらゆらと空気を燃やす光を受けて伸びているばかりだ。誠通は思わず、見間違いを疑って眼鏡をずり上げた。だが、見える景色はなにも変わらない。


「どうしました?」

「いえ・・・・・・なんでもないです」


 小川の方へ向かえば、道は下り、土手になっている。その陰に隠れて見えなくなったか、もしくは飛び越えて、川の向こうへ駆けていったのかもしれない。誠通が訪れたこの邸は、このあたり一帯で一番大きな家で、まるで城の堀のように周りを川がぐるりと囲んでいるが、子どもでも飛び越えられる程度の幅しかない。そう理解した方が、現実的だった。


「これからお世話になります。岳弥たけやさん」

「こちらこそ、来てくれて嬉しいですよ」


 暑かったでしょう、と岳弥に促されて、誠通は門をくぐった。すぐに母屋が見えないほどの広い庭を、岳弥の話を聞きながら進む。大きいばかりの家で住むのに苦労しているので、住人が増えるのは嬉しいと彼は笑った。両親を早くに亡くし、ここに住むのは岳弥と彼のふたりの弟だけなのだ。昔は多くの使用人を住み込みで抱えていたが、いまは出入りの業者に庭の世話や簡単な家事の代行を頼むばかりで、広すぎる家になにかと不便しているらしい。


「とはいえ、このあたりにはちょっとしたしきたりがありまして。誠通くんは三日間はお客人です。なにもせず、ゆっくり過ごしてください」


 そう岳弥は誠通を客間に通した。ふたりは遠い縁戚で、これから誠通もこの邸で家族として暮らすことになるのだが、例えそうであっても、この地域の習わしで、訪れて三日の間は外から来た客人として扱わなければならないらしい。


「いまどき、しきたりもなにもないのですが、縁担ぎのようなもので。付き合ってやってください」


 別に送った荷物はまだ届いていないようで、客間は元からある調度品や家具しかない。もってきたわずかな私物しかないのが、ふいに誠通は心もとなくなった。もう十七にもなって、なにを不安がっているのだろうと己を訝しむ。


 そこへ、岳弥の弟のひとりが、お茶と菓子をもってやってきた。豊と名乗る彼は弟といっても誠通よりは年上で、二十は半ばの青年だった。兄に似て、穏やかな笑顔がよく似合う、温和の雰囲気の人物だった。


「暑い中お疲れ様。あまり洒落たお菓子はないのだけれど、水羊羹、好きかな?」

「あ・・・・・・和菓子は好きです。いただき、」


 にこにこと出された和菓子を前に手を合わせかけて、誠通は戸惑った。食べてはいけない――そう言った少女の言葉が、ふいに頭の片隅を過って消えていった。


「どうかしたかい?」


 心配げに豊が覗き込む。ふわふわと茶色がかったその髪が柔らかに揺れた。岳弥もそうだが、伝統的な日本家屋の趣に反して、彼ら兄弟の容姿は少々色素が薄い。真っ直ぐな黒髪、黒目の誠通とは対照的だ。


「いえ、いただきます」


 心遣いを拒むには、あまりに理由がくだらない。そう思って誠通は、水羊羹を口にした。ほどよく冷やしておいてくれたおかげが、つるりとした口触りと控えめな甘さが、暑さにうだっていた身体に心地いい。口に運ぶのが、止まらない。


「あ、そうでした」


 豊を伴い部屋を出る間際、岳弥が大切なことを忘れていたと足を止めた。


「この家のどこへでも好きに出入りして構いませんが、三日経つまでは、離れにだけは近づかないようにしてくださいね」



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