陰陽寮と鬼門

 入った部屋は、予備室のようだったが。

 それにしてはいささかおかしいように十和子には思えた。

 机の上には墨で文字の書かれた紙、そして紙で折られた人形ひとがた。壁には狩衣がかけられているし、香炉も置かれている。

 そして十和子は、この狩衣にも香炉にも見覚えがあったのだが、どうにも思い出せずに「う、ううううん…………?」と声を上げた。

 それをしばらく眺めていた要は、溜息をついた。


「やはり、君は覚えているようだね。忘却術のかかりが悪い」

「ぼーきゃく? 忘却……昨日の夜!」


 ずっともやもやとしていた十和子の頭の霧が、急に晴れた。

 宿題を取りに夜の学校に侵入した際に、人魂に追いかけ回され。そのときに要に助けられたのだ。でも。要はそのとき。たしかに男の人だったように思う。

 思わず十和子は要を不躾にもじろじろと見てしまったが、要は大して気にもせず「まあ、忘却術が効いてないなら仕方がないか」とだけ言った。


「昨日見たもののこと、君は覚えているか?」

「えっと……人魂に追いかけ回されましたけど……あれってなんなんですか……?」


 お転婆ながらも怖がりな十和子は、少しだけ言葉尻が縮こまる。

 しかし要は特に彼女をからかうこともなく答えてくれる。


「この学校はね、鬼門に建っているのだよ。陰陽寮はそこは鬼門だ辞めておけと止めたのだけれど、聞かなくってね」

「おんみょーりょー?」

「あー、これも教えなくては駄目か。陰陽寮っていうのは、元々日ノ本の安寧を願って活動をしていた組織さ。天の暦を読み、鬼や霊を祓って生き道を整える。そういう生き方を日ノ本に教えていたのだけどねえ」

「今ありませんよね?」

「表立ってはね。明治維新の頃合いに、陰陽寮は国から廃止勧告を受けて表向きはなくなったのだけれど。世の中には触れてはいけない鬼門というものがたくさんあるからね。それらを見定める陰陽師の存在はまだまだ必要だということさ」

「きもんって……」


 十和子はそれに「むむむ」と鼻を動かす。あまりいい意味で使われていないみたいだが、具体的なことは彼女も知らない。それを相変わらず生真面目なまま、要は答える。


「鬼門。元々は北東を差す言葉で、ここは鬼や霊の通り道となっている。大きな街の北東を位置する場所には寺社を立てて守りを固めるのが通例なんだが……明治維新の頃の大量に寺社の取り壊しがあってね。その煽りを受けて、この街の北東に立てられていた神社も取り壊されてしまったのさ。そのあとを買い取ったのが、胡蝶女学館という訳さ」

「え……それって大変なことなんじゃないですか?」


 もし人魂に追いかけ回されなかったら、十和子は要の説明にもピンと来ていなかっただろうが。怖がりの十和子からしてみれば、そんな人魂がうようよ沸いている霊が立地だと言われたら抗議のひとつでもしたくなるだろう。

 彼女の言葉に、要は大きく頷いた。


「そうだ、大変なんだ。だから俺はわざわざ女装までして、陰陽寮から派遣されてきているんだから。この街を守るためにも、鬼門の管理をしなければならないのだから」

「それで……女装ですか……ですけど、お姉様? 女性の陰陽師はいらっしゃらなかったんでしょうか……?」


 そりゃたしかに要の女装は似合う。

 亜麻色の長い髪を束髪にまとめ、藤色のリボンを留めている。セーラー服のプリーツスカートからすらりと見え隠れする脚に、手を当てて笑う様も、胡蝶女学館にふさわしいような女性の鑑であろう。お転婆が過ぎて、家に帰ったらしょっちゅう木刀を振るっている十和子とは、できが違う。

 だが女性の陰陽師がいたら、わざわざ女装せずとも済んだのでは……? とは、普通に思う。それに対して、要は肩を竦めた。


「明治維新のせいで、必要な場所の寺社が取り壊され過ぎて、霊的な守りが各地で足りなくなっているんだよ。そのせいで女性陰陽師不足。必然的に俺が派遣されたという訳さ」

「それは、まあ……大変ですね?」


 十和子はそうとしか言えなかったが。そもそもどうしてここに呼び出され、わざわざ姉妹宣言をしてきたのか。


(別にお姉様がエスに興味がある訳でもなさそうだし……誠ちゃんはああいう本が好きだから興味津々みたいだけれど……あら、でも男女の場合はエスになるのかしら……)


 十和子の思考がとっちらかっている中、いきなり要がひょいと彼女の手首を掴んできた。そして、腕を触られる。助平心でも出されていたら、十和子は悲鳴を上げて跳び蹴りでもしていただろうが、どうにも触り方に下心がない。


(なんというか……お父様に道場での稽古のあとに鍛え具合を確認されているときのような……?)


「……昨日竹刀袋を持って走っていたからどんなものかと思っていたが。うん、君やっぱり立派に鍛えているようだね。すごいすごい」

「えっと……どうも」


 そう言われると、十和子は思わず「えへ」と笑ってしまう。

 女が剣術に明け暮れていると、周りからなにかと言われるのだ。「これ以上強くなると、嫁のもらい手がなくなるぞ」と。実際問題、彼女が木刀を振るえば、父くらいしか彼女より強い人がおらず、もし夫婦喧嘩になったら彼女が殴り殺しかねないから、普通に見合いの釣書すら出すのを躊躇うことだろう。

 だから彼女の鍛錬を褒められることは、父以外にはほぼないのだ。


「姉妹のよしみで頼みたいのだけれど。君に俺の助手になって欲しい」

「助手?」


 嫌な予感がした。


「鬼門の管理の手伝いだ。幽霊や鬼を祓うのに協力して欲しい」


 十和子はダラダラと汗を掻いた。


「む」

「む?」

「無理、です……暗いのも、幽霊も、怖いですからぁ……」


 どれだけ腕っ節が強くても、宿題を忘れてさえいなければ夜の学校になんか入りたくないし、なにもしてなかった人魂に追いかけられただけで怖かったのだ。それを夜な夜な鬼退治しろと無理矢理怖い物と対峙させられるのは困る。

 十和子はエグッエグッと泣き出したのに、さすがに要もうろたえた。


「な、泣くのはやめたまえよ、俺が泣かしたみたいじゃないか……」

「だってぇ……怖いんですもの、わたしだと無理ですぅ、よそ当たってくださいぃ……」

「しかし、君くらいじゃないか、薄緑うすみどりを扱えそうなのは。今時はどこもかしこも竹刀での道場剣術だから、重くて扱えないんだから……」

「え、薄緑……薄緑って、あの薄緑ですかっ!?」


 泣いていた十和子の涙がピタリと止まり、思わず食いつくと、それに要はヒクリと口元を引きつらせた。

 薄緑。元々は源氏の重宝とされていた刀であり、霊験あらたかな霊刀だと知られている。時の陰陽師により、神社に寄贈されたり、あらたにその刀を元に打ち直されたりと、同じ名前の刀が複数存在しているこの刀。

 刀と同じ重さの木刀で稽古を詰んでいる人間であったら、ひと目くらいは拝んでみたいし、できれば振ってみたいと考えるような、ありがたい代物である。

 十和子の食いつきに若干要は引き気味になるものの、「ゴ、ゴホン」と咳払いしてから、話を続ける。


「ああ、源氏の重宝として名高い薄緑だ。陰陽寮がたびたび寄贈先の寺社より賜って、鬼を祓うのに利用させてもらっているが……俺は陰陽師ゆえに、刀は不得手だ。だから助手を探していたんだ」

「それで……わたしだったんですか?」

「たまたま君を見かけたのがひとつ。君はなぜか人魂を引き寄せてしまったのがひとつ。そして竹刀袋を携えて学校にやってきたという……その肝の据わり方に免じて……引き受けてもらえないだろうか?」

「あ、うー……」


 夜は怖い。人魂は怖いし、そもそも幽霊も怖い。鬼は御伽草子を読み聞かせてもらった記憶はあるが、あれみたいなのが襲ってきても、対処できるんだろうか。

 でも。薄緑を触ってみたいし、使ってみたい。そもそも結婚したら最後、夫を殴り殺さないよう二度と剣術はできないだろう。誰よりも強い自信はあるのに、二度と使えないのだ。


「……わたし、本当に剣振るうことしかできませんよ。それでもいいですか?」

「ああ、かまわないよ。君を頼りたい……名前を聞いてもいいかな?」

「あっ、名乗ってませんでしたね。十和子……佐木町さきまち十和子です」

「そうか、十和子くん、どうぞよろしく」


 そうふっと笑われた。その笑みは深窓の令嬢のようで神々しいが。


(すごいな、お姉様は……)


 十和子の中には、男は父のような背丈の高い筋肉隆々な人しか知らないため、これだけなよやかな人を知らない。ただその笑みを、十和子はぼんやりと眺めていたのだった。

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