02:新しい生活の始まりの始まり
そしてきっちり一週間経ったその翌日、フェリックスは再びオレーシャの訪問を受けた。すっかり治ったのか今日は腕を吊っていない。
さて今回は彼女一人ではなく、その隣には仏頂面の兵舎の管理局の事務員が一緒だった。
「アヴデエフ団長、よろしいですか?」
「ほお珍しい二人組だな。血相を変えてどうした」
「ボロディン元隊長に与えた、兵舎の退去猶予の件について、アヴデエフ団長に直接お伺いしたい」
「確か一週間と言う約束であったが、もしや問題があったか」
フェリックスは何かと忙しく、この時はそろそろ一週間と言う感覚でしかなかった。
「ええ間違いなく一週間と言う約束でございましたよ」
「ならばそろそろだな。ボロディン元隊長、どうだ新居は決まったか?
期日も迫っておろう、行き先が決まっているならば暇な兵士に荷を運ばせるぞ」
「何を言ってますか、期日は昨日でとっくに終わってます!
それなのにボロディン元隊長は行き先をまだ決めておらず、なんといまも不法滞在しているのですよ!」
それまですっかり置物の様だったオレーシャがぺこりと頭を下げて「済みません」と謝罪を漏らす。
「そ、そうであったか」
たった一日くらいとフェリックスはため息を吐く、ただし内心でだ。彼は憤慨している管理局の事務員の前でそれを漏らすほど愚かではない。
「ボロディン元隊長、事情を聞いても良いか?」
「はっ! 先日家を探そうと不動産を扱う商人を訪ねました。
しかし……」
「なんだ?
「恥ずかしながらお金が足りませんでした」
「うん、どういうことだ?
ボロディン元隊長はそれほど派手な生活はしていなかったと思ったが」
「はい。ですが家の値段は想像よりも高くて」
「ちなみにいくらだったのだ」
「金貨五十枚でした」
「貴女はどういう家を望んだのだろうか?」
王都や大都市なら兎も角、ここは辺境の町だ。普通は金貨五枚ほどもあれば同居人が二人になっても悪くないほどの広さの家が買える。
ここらで五十枚となるとそれこそ大屋敷と呼べるような物になるだろう。
「私は馬が好きなので牧場の付いた物を所望しました」
「つまり今後は牧場主になろうと思っているのかね?」
「いいえ好きな馬をずっと見ていられたらいいなと思いまして……」
商売をするでもなくただただ数頭の馬を草原に侍らせるだけと、まるで夢物語の様な事を語り始めた。
この娘大丈夫かとフェリックスは少々頭を抱えた。
「あーうん。ところでボロディン元隊長はいつから兵士になったのかな?」
「母が亡くなった時、私は十二歳でした。その時に衣食住が保証されていると聞いた兵士見習いになりました」
十二歳から兵舎で暮らし始め、十五歳で正式に兵士になった。そして二年後の十七歳の時には東方の戦へ参加。そこで運よく功績を上げて騎士爵を賜った。
騎士になってからは東方で三年務めて、ここ南方に移動。そして二年か。
ずっと兵舎で暮らしてきたとすれば、ふむ。なるほどな。
精神的には十二歳の子供と変わらぬと思えば、このような幼稚な発言も理解できる。
「事務員殿、足労を掛けたな。後はこちらでやっておく」
「畏まりました。
次とか今日中と強く言われてオレーシャはビクッと怯えを見せた。
フェリックスは仕方がないなとため息を吐く。
「ボロディン元隊長、完全に無償と言う訳には行かんが、しばらく俺の家に住んではどうか?」
「団長のお屋敷にですか?」
「ははは、残念だがうちは屋敷なんて大層な物ではないな」
「でもよろしいのですか?」
「むしろ俺が良いかと問いたいところだが……
いったいどういう意味だろうか」
「私はこの様な風体ですが女には変わりありません。私の様な者でも連れて行けば奥方様に勘違いされるのではないでしょうか?」
「それなら心配ない。俺は未婚で妻はおらんよ」
「それでしたらお願いします」
すっかり癖なのだろう、退役騎士は騎士の礼を取ってそう言った。
※
退去期日を過ぎたのは悪かったと思っている。
わたくし事でもあるし、お忙しいアヴデエフ団長にお伝えするには申し訳ないと思って、直接管理局の事務所に直接謝罪に行ったのだが、まさかあれほど叱責されるとは思わなかった。おまけに、最後にはアヴデエフ団長にまで報告が行き、大変なご迷惑をお掛けしてしまった。
本当に申し訳ないと思う。
さらに申し訳ないのはこれからの事だ。
アヴデエフ団長の執務室に行く前に散々叱責されていたから、思わず団長の提案に乗ってしまった。
迂闊だったとは思う。
いや迂闊と言うのはアヴデエフ団長の善意に安易に甘えてしまった自分の事だ。
私には女としての魅力は欠片もないのだから、アヴデエフ団長がその様な意図で誘われたなどと疑う必要はない。
すぐに案内しようと仰るアヴデエフ団長の申し出は断った。
そんな事をすれば仕事の手が止まる。お忙しいアヴデエフ団長にこれ以上お手を煩わせるわけにはいかない。
「もし問題が無いようでしたら、家の場所を教えて頂ければ一人で行きます」
「いや一人で行ってもな」
やんわりと言うお断りの言葉を聞き、私はハッと気付いた。
アヴデエフ団長は未婚とお聞きした。つまり独身兵と同じように……
寝坊した部下を叱責する為に男性兵舎へ行った事は何度もある。それを思い出しアレは確かに人にお見せする様なものではないなと気づいた。
「ご安心ください団長!
独り暮らしの男性の事は兵を見て存じております!」
「ハァ……(要らぬお世話だ)」
「はい?」
「いやなんでもない。とにかく一人で行かせるわけにはいかないから、荷物を纏めて業務が終わるまで待っていて欲しい」
深いため息と共に何か呟かれた様な気がしたが、どうやら気のせいだったらしい。
「はい解りました。いつでも出ていける様に荷物はとうに纏めておりますのでご安心ください」
騎士爵を賜った時に貰った鎧に盾。そして剣が数本と少々の衣服など。纏めてみれば圧倒的に装備の方が多かった。
「そ、そうか。ならばどこかで時間を潰していてくれるか」
「畏まりました」
ここで待つのはお邪魔だろうと、私は騎士の礼を取り執務室を後にした。
夕刻。業務の終わる鐘が鳴る頃に私は再びアヴデエフ団長の執務室を訪れた。
「失礼します! ボロディン入ります!」
部屋に入ると団長が丁度立ち上がった所だった。
「待たせて悪かったな。さあ行こうか」
「はっ!」
「ところでボロディン元……、いやオレーシャ……?」
なぜ言い淀むのだろう?
「はい?」
「えーと今後は貴女の事をなんと呼べばいいかな」
「ああなるほど、団長のお好きにお呼び下さい」
「では悪いが名前で、オレーシャと呼ばせて貰おう」
「はい! ありがとうございます。名前を呼ばれるのは亡くなった母以来です」
「ええっ!? そ、それはいいのか?」
どうやら団長は驚いているようだがその意味が解らず私は首を傾げた。
「はあ?」
「いや。だって母上しか名前で呼んでいなかったのだろう、なのに俺なんかが名前で呼んでも良いのかと言う意味だが?」
やっぱり意味が解らない。
最近まで呼ばれていた〝隊長〟と言う呼び名を失った今は、オレーシャ=ボロディンと言うのが自分を呼称する呼び名である。
私にはそのような経験は無かったが、少なからずの男性兵は女性兵を名前で呼んでいたはずだ。だから団長がそう呼んでもなんの不思議もない。
「別に構いませんが、なにか不味かったでしょうか?」
「いや君が良いのならそう呼ばせて貰おう」
「はっ!」
「ところでその敬礼は止めて貰ってもいいか?」
「しかし上官に対して失礼です」
「確かにオレーシャは先日までは俺の部下であった。だが今は退役した身であろう?
ならばもう俺の部下ではないよ」
「あっそうでした。あの団長、私はなんと呼べばよろしいでしょうか?」
「ならばお互い名前で呼ぶのはどうか?」
「はっ! ……ではなくて、畏まりました。
あっ重ね重ね済みません、そう言えば私は団長のお名前を存じておりませんでした」
「フェリックスだ」
私は口の中で何度か「フェリックス、フェリックス」と呟いた。
「覚えました」
「そうか。では行こうかオレーシャ」
「はっ! ……では無くて、はい」
「くっく無理しなくていいぞ」
「済みません団……、じゃなくてフェリックス。慣れるまで猶予をください」
「じゃあ一週間でいいか?」
「フェリックスはとても意地悪ですね」
退去期間と同じ一週間。
その時のフェリックスは団長時代には見たことが無い、とっても意地悪な顔を見せて笑っていた。
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