老練の一完歩
レース結果は一着オウカサード、二着がメグロロナウド。ハナ差二センチの激戦だった。ちゃっかり三着にワガハイネコデアルが来ているのも凄いが。
「うむ、負けましたの」
「いただきました。といっても本当の勝者は吉騎手ですが」
「いやまったくです。沼付騎手が天才といえども化け物相手はちときつかったですかな」
メグロロナウドの上で泣いている沼付騎手を二人で眺めながら感想戦に移る。
口取り式には桜花クラブの事務員さんと抽選に当たった一口馬主の親子が写真撮影に向かうので任せていい。それよりも目黒のお爺さんとこの名勝負について語りたい気分なのだ。
「勝負所はやはり坂でしたな」
「ええ、吉騎手の本領発揮といったところでしょうかね。坂の登りでスピードが緩んだ時に脚を替えました。五十を過ぎてなお、一線級の腕を保持し続けるのはあの細かな技術なんでしょうね。スタミナを持たせるために内埒の内の荒場を攻めたのも含めて完璧な騎乗だったと言えるでしょう」
「言葉通り場数が違うってやつですな。京都の3000メートルは菊花賞と万葉ステークスの二レースのみ、ただでさえ少ない経験だけでゴールへとたどり着く一完歩を感覚で計算して首の上げ下げを替えさせた……」
「キャスターニュイドが逃げのペースを握ろうとしなければメグロロナウドは余力が残っていたでしょうし、サードの鞍上が吉騎手でなければこちらが負けていた。
いやぁ、これが競馬の怖いところですね」
「ハナ差二センチはもう諦めるしかありますまい。吉騎手は老いてなお益々盛んですな。う……」
目黒さんが興奮しすぎたのかフラりとよろける。慌てて俺は身体を支えた。
「申し訳ない。ちと興奮しすぎたようです」
「いえいえ、ご家族はいらっしゃっているので?」
「はい、近くにいるはずです……。すみませんがベンチまでよろしいですかな」
「勿論です。さ、肩をお貸しください」
★★★
「流石だな」
「館岡さん。いえいえ、偶然ですよ」
「よく言うぜ、途中で脚替えたろ? 行けるって思った証拠だよ」
「音だけでわかるアナタも大概ですよ」
検量も終わり、水を二人で飲みながら吉が笑う。全てを計算してオウカサードを勝利に導いた余韻は、普段が冷静な男である吉の気分を高揚させる理由には十分だった。
「正直、館岡さんがペース握ろうと前に出した時はラッキーと思いましたけどね」
「だろうな。沼付も腕がいいせいで俺の挑発に乗っちまった。ロナウドのペースをキープし続けるのが正解だったってのにな」
「アナタレベルの体内時計をもってる人なんていないですよ……」
3000メートルを超スローペースに持ち込んで時計を誤魔化したことのある館岡と比べるのは沼付に酷だと吉は呆れたように言う。
「しっかし、沼付は立ち直れるのかね」
「大丈夫でしょう。我々は絶対勝てるといわれた馬を落とすことなんてザラですし」
「つっても馬の力じゃなくて騎手の腕で負けてるからよぉ……。ま、飲みにでも誘ってやるか」
「そうしてあげてください。私が誘うとただの煽りになるので」
「はっはっはっ。タダ飯ならアイツは喜んで来そうだけどな!」
★★★
全力で走り終えて身体から蒸気を発しているオウカサードの下に音花とほむら、そして保護者として妻橋が赴く。迎えたのは満面の笑みの海老原だ。
「お疲れ様です海老原先生。お見事でした」
「いやいや、ショートは俺の作戦敗けで今回は武の神技で勝っただけです。俺としては二連敗の気分ですよ」
自虐を交えて笑いながら海老原はサードの下顎を撫でる。目薬を差している獣医から邪魔しないで下さいと怒られたのはご愛敬。クラシック最終戦を見事接戦を制し、お手馬が錦を飾れたことに百戦錬磨の調教師も気分が高揚しているのだ。
「吉騎手凄かったですね」
「私たちにもできるかな?」
「まぁな! だけどよ、音花ちゃんとほむらちゃんは真似すんなよ? アイツの技量と経験、シミュレーターでの練習を重ねた結果の技巧だ。二人じゃ絶対に落馬するぞ。
理解して綺麗にステップ切り替えたサードも大概なんだけどよ」
海老原は懐から馬用のクッキーを取り出してサードに与える。よほどお腹が空いていたのか、袋に三つ入っていたそれをサードはすぐに食べきった。
「あらあら、お腹空いていたんだねサード。私もだけど」
「もうちょっとで祝勝会だから我慢しなさいよ。鍋よ、しかもお高いカニ鍋!」
「がっはっは! 二人とも色気より食い気か! 予約してるところはべらぼうに美味いから安心しな!」
(二人は明日も学校なのにそのことを考えていないんですよね……。いやはや、若いって羨ましいです)
妻橋は若い二人の元気を羨みながら、財布に忍ばせている胃薬のことを考えた。
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