第65話 絶望
【妖怪ぬばたま】
人の影に住みつき、宿主の精神を破壊して肉体に乗り移る妖怪。
肉体が朽ちれば新たな人間の影に
「影踏み」は、ぬばたまが
春斗の言葉に、奈津子は膝から崩れた。
「嘘……嘘だよ、そんな……」
「……こんな形でなっちゃんのこと、騙したくなかった……でも僕は……僕はなっちゃんのこと、本当に大切に思ってた」
「嫌ああああああああっ!」
奈津子が叫んだ。
最後の希望。
大切な想い。
その全てが今、音を立てて崩れていく。
それは彼女の心を大きく揺さぶった。
喪失感。
裏切り。
絶望。
負の感情が胸の内から湧き上がり、彼女を飲み込んでいく。
奈津子はその場に嘔吐した。
身を震わせ、何度も何度も吐く。
全てを吐きつくし、胃液だけになってもなお吐き続けた。
涙も止まらない。
声にならない声を上げ、全身を震わせた。
「これが彼の切り札。いくら奈津子が強くても、こんなの、ハンデ以外の何物でもないでしょ。だから私は、公平性を保つ為にあなたに力を貸した」
朦朧とした意識の中、奈津子が壁にもたれかかり二人を見つめる。
目は虚ろだった。
涙で歪む世界の中、玲子と春斗、二人のぬばたまが映る。
「春斗くんはね、奈津子。あなたと一緒に
薄れゆく意識の中で、玲子の声が響く。
「ご両親が事故にあったあの旅行先で、あなたたちは出会った。死を迎えようとしていた二人に」
「テントの中で老夫婦が亡くなったって言ったろ? その二人はね、ぬばたまだったんだ」
「死を迎えようとしていた彼らは、次の宿主としてあなたたちを選んだ。若いあなたたちの肉体は、彼らにとって最高の器だった。
そして彼らはすぐに動いた。帰り道で事故を起こし、両親を残虐な方法で殺害した。思春期の子供にとって、親の死ほどインパクトのある悲劇はないから」
「そして僕は……彼らの思惑通りに壊れた」
「でもあなたは違ったわ、奈津子」
そう言って奈津子の前に
「あなたは壊れなかった。それどころか、事故の前より強くなった。私たちはね、奈津子。言語を解さずに互いの思考を読み合うことが出来るの。だから彼とも、随分と情報を共有しあった。
彼は驚いていた。寄生した宿主が既に壊れているなんて、経験したことがなかったから。まずあなたの中には、もう一人の人格が存在していた。負の感情を背負った闇の人格。こんな経験、私も初めてだった。
そして奈津子、あなた自身も壊れていた。あなたは両親の死に対して、何の感情も抱かなかった。あの時あなたの中にあったのは、父親から解放されたという安堵感、それだけだった。
丸岡の時なんて、本当に何も感じてなかった。あなたにとって、丸岡の存在はその程度でしかなかった。彼に対して、一切の哀れみも同情も持たなかった。本当、そのことを知った時、私は戦慄したわ。
だから彼は、あなたが信頼する人間を標的にした。小太郎くんの時、あなたの心が揺れたのを感じたから。
……本当はね、亜希を手にかけること、彼は望んでなかったの。だって彼女は、私の大切な友達だったから。
でも、命に貴賤はない。誰の命であれ、それは尊いものなの。それに優劣をつけて、大切な人だからと言って特別扱いすることなど、あってはならないの。それは命に対する冒とくに他ならない。
それに、戦いを始めた同胞の決断には、一切口出ししないのが私たちの掟。私はただ、その結末を見届けることしか出来なかった。
でも……あなたは亜希の死ですら乗り越えた。これまでで一番、心が揺れていたわ。でも、それでも……あなたは前を向くことを選択した。この災厄の根源に辿り着いてやると決意した。とんでもない人よね、本当に。まさか負の感情を、自身の原動力に転換するなんて」
ハンカチで涙を優しく拭う。奈津子を愛おしそうに見つめ、玲子が微笑む。
「そんなあなたを尊敬した。誰が何と言おうと、私はあなたの強さに憧れた。出来るものなら、あなたがどう成長していくのか、ずっと見ていたかった」
「……宮崎のおばさんは、近い内にこうなる運命だった。彼はただ、少しだけ時間を進めたに過ぎない。でも、それでも……なっちゃん、君は負けなかった。
僕は最後まで、ただの幼馴染でいたかった。でも……君は強かった。いや、強すぎた。僕の正体を明かさなければならないほどにね」
そう言って春斗が目を伏せた。
「もう……私の声も聞こえてないかしら……奈津子、大好きだよ」
「なっちゃん……信じてもらえないかもしれないけど、僕はなっちゃんのこと、本当に大好きだよ」
二人の言葉が、渦となって奈津子の中に入っていく。
大好き。
その言葉だけが、奈津子の心を温かくした。
私は壊れている。
ずっと壊れていた。
そんな私が今、二人から好きだと言ってもらえた。
もういい。
このまま壊れても構わない。
いいえ、壊れるべきなんだ、私は。
こんな
両親が死んでも、心が全く動かなかった不義理な人間。
ぬばたまに飲み込まれた方が、今よりきっとまともになれる。
おじいちゃんだって、その方がいいに決まってる。
だからいい。もういい。
私は今、二人からもらった「大好き」という言葉を胸に、深い闇の中に消えていこう。
ありがとう、二人共。
私も……大好きだよ……
「あははははははっ!」
突然部屋に響いた笑い。
その声に、奈津子の意識が引き戻された。
玲子と春斗も、驚いて奈津子を見る。
「こんな時まで悲劇のお嬢様気取りかよ、この偽善者!」
奈津子が目を見開く。
鏡の中にまた、あの奈津子が現れていた。
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