第53話 その時


 翌朝。

 目覚めると同時に身を震わせた。


「寒いな、今日は……」


 天気予報だと、昼から大雪になるらしい。

 布団にくるまりながら時計を見ると、もう7時だった。


 今日は随分と寝過ごしてしまった。

 考えられる理由は二つ。


 一つは勿論、春斗との再会だ。

 どこにいてもついてくる視線に、心休まる時がなかった。次に何をしてくるのかも分からない。眠りが浅くなるのも当然だった。

 自分を守れるのは自分だけ。

 そう思い、いつも緊張感を持って生活していた。

 しかし昨日、成長した春斗に出会ったことで、その気持ちに少しだけ変化が生まれていた。

 春斗が守ってくれる。

 誰かに頼ることで、こんなにも心が穏やかになるんだと思い、嬉しくなった。

 春斗の存在がどれだけ自分に必要かを、奈津子は感じていた。


 そして寝過ごしたもう一つの理由に、布団から出ようとして思い当たった。

 まだ体が重い。

 昨日、無理して夜更かししたからだろうか。それとも夜の冷え込みで、風邪がぶり返したのだろうか。

 体温計を挟むと、37.7度と表示された。


「……折角春斗くんと一緒なのに……」


 溜め息をつき、恨めしそうに体温計を見つめる。

 それでも布団から出れないほどではない。今日は家で春斗と二人、のんびり過ごそうと思った。


 着替えを済ませて部屋の襖を開けると、味噌汁の匂いがした。

 多恵子の味噌汁。この家で自分を初めて迎えてくれたのも、この匂いだった。

 ほっとする。

 奈津子は笑みを浮かべ、おぼつかない足取りで居間へと向かった。

 居間にはもう、宗一も春斗もいるようだった。

 テレビの音に混じり、二人の楽し気な声が聞こえる。


「ふふっ……いいな、こういうのって」


 ストーブにかけられたやかんの蒸気が、窓を曇らせている。

 電気のついた温かい部屋。味噌汁の匂いに包まれたそこは、ずっと奈津子が求めていた世界だった。


「おはよう」


 照れくさそうに挨拶すると、宗一も春斗も笑顔で応えてくれた。


「おはようなっちゃん。朝ごはん、出来たところよ」


 台所から聞こえる、多恵子の穏やかな声。

 ああ……今、私は本当に幸せだ。

 瞳が濡れていることに気付き、苦笑する。

 何だか……ここに来てから私、泣いてばっかだな……




「え……」




 奈津子が声を漏らす。

 大好きな味噌汁の匂いに混じって、別の何かが奈津子の鼻孔を刺激した。


 この匂い、知っている。

 知りたくもない、気付きたくもない匂い。

 幸せの絶頂にいる私を、どん底へと突き落とす匂いだ。

 奈津子が唇を噛んだ。


「奈津子、どうしたんじゃ?」


「なっちゃん大丈夫? 顔色よくないみたいだけど」


 宗一と春斗の声に背を向け、奈津子は台所へと向かった。


「……」


 間違いない。匂いはここからしている。

 表現しようのない匂い。

 誰にも理解されない匂い。

 しかし奈津子は確信していた。


「おばあちゃん……どこか具合、悪くない?」


 震える手で、多恵子の袖をつかむ。


「え? なんだいなっちゃん、何かのクイズかい?」


「クイズじゃないの。そうじゃなくて……おばあちゃん、苦しかったり痛かったり、そんなことない?」


「そうね……今朝起きた時、少しだけ胸が痛かったけど……でもこういうのって、年を取ればよくあることなの。これくらい大丈夫だし、なっちゃんが気にするようなことじゃないよ」


 穏やかに微笑み、奈津子の頭を撫でる。

 その温もりが辛かった。


「おじいちゃん……お願いがあります」


「……なんじゃ、言ってみなさい」


 奈津子のただならぬ雰囲気に、宗一が表情を引き締める。


「いますぐおばあちゃんを、病院に連れていってほしいの」


「病院って……なっちゃん、大袈裟だよ。本当に何でもないんだから、そんなに心配しないで」


 そう言って、奈津子を後ろから抱き締める。


「本当、優しいんだね、なっちゃんは」


 耳元で多恵子が囁く。その優しい声に、自分もこのまま一緒にいたいと思った。

 しかし奈津子は涙を拭い、多恵子の手を握った。


「お願いです、おじいちゃん。変に思うかもしれないけど、おばあちゃんを病院に。そしてすぐに検査してほしいんです」


 そう言って宗一を見る。しかしそこに宗一の姿はなかった。


「……おじいちゃん?」


 突然消えた宗一に動揺する。しかしすぐ、それは安心に変わった。


「いくぞ、ばあさん」


 戻ってきた宗一は、上着をはおっていた。手には軽トラックの鍵が握られている。


「行くって、病院にですか。お昼から大雪なんですよ」


「奈津子のこんな顔、わしは見たことがない。わしらを不安にさせて喜ぶ、そんな子でもなかろうて。わしにもよく分からんが、それでも奈津子が、こんな顔をして頼んどるんじゃ。訳があるに違いない」


「おじいちゃん……ありがとうございます」


「ほら、ばあさんの上着じゃ。これをはおっておくといい。奈津子、それに春斗くん。わしらは病院に行くが、お前たちはここでゆっくりしてるといい。朝飯もちゃんと食うんじゃぞ」


「分かりました」


「奈津子。お前は今日一日、家で大人しくしとるんじゃ。お前、また熱が上がってきとるじゃろ」


 そう言って、奈津子の頭を荒々しく撫でる。


「顔を見れば分かる。ちゃんと休んでおくんじゃぞ」


「はい……ありがとう、おじいちゃん」


「ばあさん、行くぞ」


 よく分からないままに上着をはおり、多恵子が宗一に続く。


「ごめんねおばあちゃん。急に変なこと言って」


 伏し目がちにそう言う奈津子を、多恵子が微笑んでもう一度抱き締めた。


「ちゃんと朝ご飯、食べるんだよ」


「うん……」


「それから暖かくして。家から出ちゃ駄目だからね」


「おばあちゃん、おばあちゃん……」


「あらあら、ふふっ……大丈夫よ、なっちゃん。すぐに戻ってくるから」


「うん……うん……」


「そうしたら約束通り、一緒にお料理作りましょうね」


「うん……」


「なっちゃんに教えたい料理、いっぱいあるの。なっちゃんは私の料理、いつも嬉しそうに食べてくれるから」


 奈津子の頬に涙が伝う。多恵子は微笑み、指でそっと拭った。


「じゃあ、行ってきます」


「うん……いってらっしゃい、おばあちゃん」


「待っててね、なっちゃん」


 微笑み、手を振る。


 玄関が締まると、奈津子はその場に膝から崩れた。


「おばあちゃん……ごめん、ごめんなさい……」


 大粒の涙が落ちる。

 自分には何も出来ない。

 出来るのは、運命を呪うことだけ。

 唇を噛み、肩を震わせる。

 その奈津子を、春斗が優しく抱き寄せる。


「春斗くん……」


「いいんだよ、なっちゃん。我慢しなくていい、いいんだよ」


「うん……」


 春斗の温もりに身を委ね、奈津子が微笑む。

 そして、もう二度と会えない多恵子を思い、涙した。



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