彼岸の片恋
―これは、僕の気づけなかった、たった一人を想う恋の話―
春の初め、父が再婚して、義理の妹ができた。
緋華、と名乗ったその子は、僕より二つ年下の女の子だった。
どこかおとなしくて、控えめで、でも僕にだけはよく笑う。
はじめは気を遣ってくれているのかと思ったけれど、すぐにそれが彼女の「素」だとわかった。
僕の前では、少しだけ無防備になってくれるのが嬉しくて、よく話し掛けるようになった。
そして、いつの間にか勉強を教えるようになった。
「お兄ちゃん、ここ教えてー」
リビングのテーブルいっぱいに広げた参考書とノート。
僕がソファでスマホを見ていると、彼女は当然のように隣に座って数学の問題を見せてくる。
なんてことのない一次関数のグラフに、困った顔をしてるのが、ちょっとおかしくて。
「これな、公式にそのまま代入して……そうそう、そこで間違えた。」
「むー……お兄ちゃん、意地悪!」
ぷくっと頬を膨らませる顔が、どこか年相応で少しだけ幼い。
時々、一緒にゲームをすることもあった。
コントローラーを握って、二人並んで画面に向かいながら、
「ねぇ、今わざとやられたでしょ!」
「いやいや、ちゃんと真面目にやってるって!」
なんて、笑いながら夜更かしをして、母さんに怒られた日もある。
休日にはクレープを買いに街まで出かけたり、映画を観に行ったこともあった。
兄と妹――それ以上でも、それ以下でもない、けれど、どこか心地よい距離感。
あたりまえのように続くと思っていた、何でもない日々。
その全部が、今では宝物みたいな記憶になってしまった。
でも、そんな日々はあまりにも早く、音を立てて崩れていった。
緋華が病気になった。
進行性の難病。治療法はなく、残された時間もそう長くはない。
彼女の担当医は苦しげに断言した。
家族は皆動揺した。
母は泣き、父は声を殺して叫んだ。
だけど、彼女だけは違った。
「大丈夫だよ。まだ少しは時間あるから」
静かに、微笑んで、僕の手を握って言った。
本当は怖いはずなのに。
不安でたまらないはずなのに。
病の進行は、緩やかなようでいて、確実にあの子の身体を蝕んでいた。
けれど、緋華だけは——いや、緋華こそが、何時も一番冷静だった。
「うん、大丈夫。だって私、毎日楽しいもん」
笑顔を浮かべてそう言う彼女の姿に、僕たちは逆に救われていたのかもしれない。
治療の合間にも、彼女はいつも通りの調子で話し、冗談を言い、時には笑ってみせた。
本当に、強い子だった。
そんなある日、季節が夏から秋へと移ろい始める頃。
緋華の体調も少し安定していたこともあり、近くの小さな公園まで散歩に出かけた。
空気は澄んでいて、ほんのり甘く乾いた風が吹いていた。 並んで歩きながら、途中で見つけたのは、真っ赤に燃えるような彼岸花の群れだった。
「……綺麗だね。なんだか、燃えてるみたい」
そう呟いた緋華の声は、どこか遠くを見るような、儚げな響きだった。
僕が「写真、撮ろうか?」とスマホを構えると、彼女は首を横に振った。
「ううん。これは、ちゃんと目で見ておきたいの。……私、忘れたくないから」
そのときの彼女は、少しだけ口元を震わせて、目を伏せた。
「……ほんとはね、怖いんだよ」
ふいにそう言った言葉に、僕は思わず足を止めた。
「でも、弱音って、あんまり言いたくないじゃん? だから……お兄ちゃんだけね。ちょっとだけ、言わせて」
そう言って、彼女は僕の袖をそっと握った。
小さなその手は、冷たくて、でも確かに今そこにあって、僕の胸の奥を強く締めつけた。
——僕は、あのとき何も言えなかった。
ただ、その赤を見つめる彼女の横顔を、今でもずっと忘れられずにいる。
緋華が息を引き取ったのは、それから一ヶ月も経たないある朝のことだった。
静かに、まるで眠るように。
枕元には一通の封筒が置かれていた。僕の名前が丁寧に書かれた、小さな深紅の便箋。
『お兄ちゃんへ
この手紙を読んでるってことは、私はもうそっちにいないんだね。
ねえ、お兄ちゃん。
お兄ちゃんと家族になれて、本当に嬉しかったよ。
私、ずっとひとりぼっちだったから、お兄ちゃんが「ただいま」って帰ってくるだけで、すごくあたたかい気持ちになれた。
一緒にゲームしたり、勉強教えてもらったり、お出かけしたこと、どれも大切な思い出だよ。
全部、宝物みたいに胸にしまってる。
でもね、本当はずっと、ずっと…… 私はお兄ちゃんのことが「家族」としてじゃなくて、「一人の人」として、好きでした。
伝えたら困らせるって分かってたから、言えなかった。 最後まで、言うつもりなかったんだけど…… せめて、手紙なら、いいかなって。
ごめんね。 勝手に好きになって、勝手に想い続けて。
でも、どうしても、どうしても、お兄ちゃんじゃなきゃダメだったんだ。
ありがとう。
私を妹として、優しくしてくれてありがとう。
好きって気持ちを、私に教えてくれてありがとう。
――お兄ちゃんは、私の「思うはあなた一人」でした。
緋華より』
僕は、何も知らなかった。
いや、知らないふりをしていたんだ。
そんなわけない、と。 気のせいだ、と。 思い込みだ、と。
でも、本当は――気づいていたのかもしれない。
あの公園で、彼岸花を見つめていたあの横顔を。 僕にだけ見せてくれた、最後の弱さを。
精一杯の想いを、あの一瞬に込めていたことを。
彼岸花の咲く季節になると、今もあの道を歩いてしまう。
僕の目には、真っ赤な花の群れが、あの日よりも色濃く映る。
そして、思う。
――僕は、彼女の「たった一人」になれたのだろうか。
彼女の中で、彼女の心で。
ほんの少しでも、それを誇ってくれていたなら。
僕は、少しだけ、前を向いて歩いていける気がするんだ。
彼岸花の花言葉を胸に抱いて。
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