第133話 新居で騒いだ日(深夜)

 例のアレがあったせいか、その後ずっと小日向さんと会話が出来なかった。


 何とも息苦しい雰囲気のまま時間が経って、俺達はそれぞれの部屋に入った。


 特にやることも無いので、俺とみさきは直ぐベッドに入った。


 新しい布団は驚くほど心地良くて、もう古い布団を使うことは無いだろう。


 しかし、枕については別だ。みさきは古い枕を気に入っているようで、今日も同じ枕を使っている。枕が変わると眠れないタイプなのだろうか。


 思えば、みさきに渡した初めてのプレゼントである。みさきが意識しているかどうかは分からないが、俺としては言葉にならないくらい嬉しい。


 俺は今、目を開いて天井を眺めている。

 電気を消してから暫く経ったけれど、どうしてか眠気が訪れない。


 そのうち隣で微かな寝息が聞こえるようになった。

 どうやらみさきは眠ったらしい。


 なんとなく体を傾けて、みさきを見る。


 何度かみさきを抱いたまま眠った記憶があるけれど、こうして同じ布団で寝るのは初めてだったような気がする。みさきの体が小さいのもあるが、ベッドは二人で寝ても十分に広い。特に足を伸ばしても外に出ないのは評価が高い。


 ……みさきが近い。


 みさきと出会ってから早いもので二年が経つ。

 最初は名前で呼ぶことすら煩わしかったが、今では名前を呼ばない日が無いくらいだ。


 みさきとの距離も随分と縮まった。


 みさきは頭を撫でると喜ぶ。

 最近は手を繋いで歩くようになった。

 そして今日は、同じ布団で寝ている。


 立派な親になってみさきを幸せにする。


 最初は欺瞞でしかなかったけれど、いつしか本心からそう思うようになり、みさきとの距離が縮まる程に気持ちが強くなっている。


 今の俺は、みさきの為なら何だって出来る。

 誇張でも過信でもなく、そう思う。


 みさきの幸せを第一に考えて行動したい。

 すると頭に浮かぶのは母親という存在だ。


 みさきの母親は今どこで何をしているのだろう。まるで話題に上がらないけれど、あの日、俺が母親と再会した日、みさきは自分の母親を思い出して涙を流した。


 俺の個人的な感情で言えば、みさきの母親を許すことは出来ない。

 だけど、みさきはどう思っているのだろうか。


 会わせることで、みさきは傷付くだけかもしれない。

 それでも、みさきが望むのなら、忘れる以外の形で母親と決着を付けさせてやりたい。


 みさきが望まないのであれば……新しい母親について考えるのも、悪くはないのだろうか。


 みさきの為に結婚を考えるのは何か違うような気がするけれど、やはり切り離して考えることは出来ない。


 まあ、そもそも結婚を真剣に考えている相手がいないのだが……。


「……結婚、か」


 また、この話題だ。

 みさきのことを考えていたはずなのに、気が付けば結婚という言葉が頭に浮かんでいた。


「……」


 もはや眠れる気がしなくて、俺は体を起こした。

 みさきを起こさないよう慎重にベッドから降りる。


 暗くて不慣れな部屋を注意して歩く。

 ドアを開けた途端、女の声が聞こえた。


 ……なんだ?


 眉をしかめて声のした方に目を向ける。


 ……明るい。小日向さんがテレビでも見てんのか?


 そう思いながら歩く。

 果たして、テレビの前に見慣れた後ろ姿を見付けた。


「……ふひひ、これは当たり当たりっと」


 嬉しそうに呟いて、手に持ったケータイ……スマホを操作している。夢中になっているのか、隣に立っている俺にも気が付いていないようだ。


 テレビには漫画のような絵が映し出されている。これはアニメとかいうジャンルだっただろうか。最後に見たアニメが魚の名前をした家族の話だった俺からすると、なんというか別物にしか見えない。


 なんか、スゲェ迫力ある動きで卓球してる。絵も子供っぽい感じだし、みさきが見ても喜びそうだ。どうしてこんな時間に放送しているのだろう。


「……ふひひ、あかりたん可愛い」


 とりあえず小日向さんは大喜びらしい。


 そんなに面白いのだろうかという好奇心と、邪魔をしてはいけないという遠慮で、俺は息を殺して立っていることにした。


 テレビから聞こえる妙に甲高い声に混じって、時折ふひひという独特な笑い声が聞こえる。


 やがて放送が終わってCMが始まると、小日向さんは高速でスマホをポチポチし始めた。なにやら文章を打ち込んでいるようだ。


 そして手を止めると同時に立ち上がる。

 ばっちり目が合った。


「こんばんは」

「……こ、こんばんは」


 とりあえず挨拶。


「……え、えと、いつから?」

「十分くらい前」

「……そ、そですか」


 掠れた声で言って、小日向さんは小さくなって俯いた。


「……」

「……」


 相変わらずの微妙な空気感。

 原因は明らかに例のアレで、もう何度も謝ったが、やはりもう一度きっちり謝罪しておこう。


「悪かった」

「へ?」

「例のアレ。少し頭を使えば避けられた」

「例の……あぅあ! あっ、アレはもう忘れかけてるのでっ! 出来れば話題に出さないで頂きたく!」


 全身で慌てている様子を表現する小日向さん。

 てっきり例のアレかと思っていたが、どうやら勘違いだったようだ。

 なら、この微妙な空気感はいったい何なのだろう。


「……悪い」

「いえ、その、此方こそ」


 会話が続かない。

 もちろん無理に話をする必要は無いけれど、このままというのは純粋に嫌だ。


「小日向さん、アニメとか好きなのか?」

「……はい。その、それなりに」


 ポツポツとした会話の裏で、いろいろなアニメのCMが流れている。やたらと気合が入っていることは伝わるけれど、内容は全く頭に入ってこなかった。


「いろんなアニメがあるんだな」

「……はい。いろいろ、あります」

「小日向さんはどんなアニメが好きなんだ?」

「……私はその、雑食なので、とりあえず一話を全部見て判断というか……はい」


 小日向さんはツンツンと指遊びをしながら答えた。相変わらず声は小さくて目も合わせてくれないけれど、好きなことについて話しているからか少しだけ嬉しそうな感じがする。


「……天童さんは、アニメとかは、その、見ないんですか?」

「そうだな。最後に見たのは十年以上前だ」

「十年も?」

「テレビが無かったからな。アニメどころかニュースすら見てなかった」

「ああ、なるほど……」


 ほんと、偶に街で見かけるテレビが全てだったな。

 そう考えると、このマンションはいきなり生活レベルが変わり過ぎていて落ち着かない感じがする。


「なんというか、私、全然知らないですね。天童さんのこと」

「話してないからな。そもそも話すようなことが無いってのもあるが……」

「そうなんですか? ……ふひひ、そこは、私も似たようなものですが」

「そうなのか?」

「はい、そんな感じです」


 似たような、と言っても意味合いは大きく異なるのだろう。さておき、今更ながら互いの過去について全く知らないことに気が付いた。


 少し考えれば当然のことで、ここで話をしているのは今の自分なのだ。極端な話、好きな食べ物の話をしている時に五歳の頃に好きだった物の話をしても仕方がない。


 関心が無いと言えば嘘になるけれど、互いに言葉にした通り、わざわざ話すようなことではないのだろう。


「隣、座ってもいいか?」

「……はい、どうぞ」


 少し間があって、小日向さんは頷いた。

 ちょっぴり体を避けて広く空けてくれたスペースに、ゆっくりと座る。


 この頃には最初にあった奇妙な空気感はかなり薄れていた。

 その代わりに、小日向さんと話がしたいという気持ちが生まれている。


 俺は小日向さんのことを何も知らない。

 過去はもちろん、今の小日向さんについても。


 小日向さんと話をする時、そこには常にみさきがいた。

 俺と彼女がみさきと関係の無い話をすることなんて、全くなかったのではないだろうか。


 だから、話がしたい。

 彼女のことを知りたい。


「この後は他のアニメが始まるのか?」


 テレビを見ながら、声を掛ける。


「はい、一時間後くらいに」


 きっと小日向さんも同じように返事をした。


「それまで起きてるのか?」

「はい、なんだか眠れないので……」


 眠れないというのは、小日向さんも何か考え事をしているからだろうか。


「それって、漫画のことを考えてるからか?」

「……へ?」

「ほら、連載になるんだろ? だから、ストーリーとか考えるのが大変なのかと」

「ああ、はい。それも、ありますね……」

「それも?」

「ああいえっ、そうです。そんな感じで、いろいろ考えてます」


 この様子だと、漫画以外にも何か悩み事があるらしい。

 それを隠すってことは、つまり俺には話したくないということだろう。

 なら、無理な詮索はしないでおこう。


「天童さんは…………天童さんも、眠れなかったりするんですか?」

「ああ。いろいろ考えてたら目が冴えた」

「いろいろ……」

「いろいろというか、ほとんどみさきのことだが」

「ふひひ、ぶれないですね」

「まあな」


 二人揃って肩を揺らす。

 素直に楽しいと思えた。

 これは、朱音と話をした時に似ているだろうか。


「その……えっと……聞いても、いいですか?」

「何を?」


 肯定の意を込めて、そう言った。

 小日向さんは少し考えるような間を作って、


「ほとんど、ということは……他のこと……みさきちゃん以外のことも、考えていたんですか?」


 とても控え目な口調で言った。

 俺は特に何も考えず、正直に返事をする。


「全く関係無いとは言えないが……そうだな、他のことも考えてた」

「……それって、どんなことですか?」

「結婚」

「なるほど、結婚ですか…………えっ?」


 小日向さんは何処かほっとしたように言って、しかし直後に驚きの声を出す。


「ケっ、コ、ケ、コケコケかぁ!?」

「なんでか最近話題に上がることが多くてな。それでまあ、いろいろ考えてる」

「ソ、ソデスカ……」


 小日向さんはふひひと笑って、


「びっくりしました。天童さん、誰かと結婚するのかと……」

「そんな予定は無い。今はなんというか、結婚って何なのかなって考えてる段階だ」


 俺は小日向さんに目を向けて、


「小日向さんは、どう思う?」

「ど、どうとは?」

「イメージとか」

「イメージですか……そんな、私なんて全く縁が無いというか、語るのも烏滸がましいような喪女ですけど、その……大変だなって思います」


 少し俯いて、


「これでも少女漫画を描いているので、恋とか結婚について考えることがあるんですけど……例えばイケメンに囲まれたヒロインが結婚した後も複数のヒーローと桃色な感じだったら、それってただの浮気じゃないですか。


 だから、大変だなって思います。誰か一人を選んで、その人と一緒になるのって、大変だなって、重たいなって思います。基本的に夢とか理想で出来ているのが漫画ですけど、それでも、軽々しく扱える内容じゃないなって、私は思います」


 すらすらと言葉を紡ぐ小日向さんの横顔は、どこか大人びて見えた。


 きっと彼女は、俺なんかよりもずっと多くのことを考えている。


 それが分かったから、添える言葉なんて浮かんでこない。


 こうして生まれた奇妙な空気を吹き飛ばすかのように、小日向さんは楽しげに笑う。


「なんて、全部私の妄想なんですけどね」


 少し大きな声で、


「でもほらっ、軽く結婚して軽く離婚とか嫌ですし、やっぱり幸せな家庭に憧れるじゃないですか。その為にはどうすればいいんだろうって、私なりに真剣に考えているのであります。ふひひ、漫画のことですけど」


 小日向さんは、あくまで想像の話だと強調する。

 しかし俺は、そんな風に軽く見ることは出来なかった。


 想像するのは、答えが分からないからだ。答えが分からないから、様々な可能性を考慮するのだと思う。


 それはひとえに視野を広げるということで、最良の答えを見付ける為の手段なのだと俺は思う。


 だから、分からないことについてアレコレ考えることを、そうして導き出した答えを軽々しく扱うことなんて出来ない。


 だってそれは、みさきのことを軽く考えることと同じだからだ。


 なんだか堅苦しい考え方に感じるけれど、何も考えずに行動して失敗するよりよっぽどマシだ。


 ただの感情論で動くのは危険だと、俺は身を持って知っているのだから。


「……難しいな」

「……そうですね」

「なんか、そんな感じの漫画は無いのか?」

「うーん……直ぐには思い浮かばないです。結婚まで行く漫画は結構ありますけど、だいたい理由は好きだからの一点張りで、話もそこで終わってしまいます」

「終わる?」

「はい、完結します。結婚は人生の墓場とか言われてますからね、ストーリー的にも続かないんだと思います。私も思い浮かばないですし……」


 人生の墓場。

 なんだか暗い印象のある言葉だ。


「でも」


 と、小日向さん。


「私は、続きが読みたいと思います」


 その声を聞いて思わず息を飲んだ。

 こんなに真剣な声を聞いたのは初めてだった。


「懸命に生きていた登場人物が運命の相手と出会って、その人と一緒に生きたいって思って、いろんな困難を乗り越えて結ばれて……そこで終わりなんて納得できないですよ」


 俺はきっと、初めて漫画家としての小日向さんを見た。


 その道を極めてプロになるというのは、きっと並大抵のことではない。しかし、同じプロでも彼女ほど真剣に物事を考えている人は、果たしてどれくらい居るのだろうか。


 いつか小日向さんは好きだから漫画を描いていると言っていた。


 きっと多くの人は好きであることに理由を持っていない。おそらく小日向さんに問いかけても、明確な答えは返ってこないと思う。


 だけど今の話を聞いて、彼女は本当に漫画が好きなのだと感じた。


「……なんか、すごいな。尊敬する」

「いえっ、そんなっ、こんなの重いだけですよ。ほら、実際に重過ぎて床を……思い出したら死にたくなってきました」


 どんより項垂うなだれる小日向さん。

 直前までの真剣な雰囲気はどこへやら。

 まったく、本当に掴み所の無い人だ。


「なんというか……結婚って、重たいんだな」

「ふひひ、そうですね」

「どうやって支えてんのかな」

「そこはほら……愛の力、ですよ」


 なるほど、妙にしっくりくる。


「……あの、ドヤ顔しちゃったのでリアクションを頂けないと寂しくて死んでしまいたくなり候……」

「いや悪い、納得してた」


 言うと、小日向さんは驚いたような表情を見せて、くすくすと笑う。


「すみません。なんというか、その……」


 顔を上げて、


「天童さんって、すごく真面目ですよね」

「そうだな。それなりに真剣だ」

「それはもちろんですけど、そうじゃなくて……」


 続く言葉は、いつまで待っても聞くことが出来なかった。


 いったい何を言いかけたのだろうか。

 俺の疑問をよそに、小日向さんは別の話題を口にする。


「天童さん、アニメは好きですか?」

「よく分からん。ほとんど見たこと無いからな」

「ふひひ、ですよね」


 唐突な質問をした後、小日向さんは嬉しそうに言う。


「じゃあ、この後のアニメを一緒に見ませんか?」

「ああ、構わないが」

「ありがとうございます」


 ……ほんと、突然話題が変わったな。


「事前情報はチェックしないタイプなので、私も初めて見るアニメです」

「そうなのか」

「はい、そうなんです」


 小日向さんはテレビに目を向けて、


「わくわくします」


 本当に嬉しそうに言った。

 その横顔をどれだけ見ても、何を考えているのかはさっぱり分からない。


 だから俺もテレビに目を向けて、


「そうだな」


 ただ一言、呟いた。

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