第130話 結婚について考えた日

 あのあと直ぐに大家と話をして、俺達は不動産屋に向かった。


 書類を書いたり審査を受けたり市役所に行ったり引っ越しの準備をしたりして、あっという間に一週間が過ぎた。とにかく文字を書く日々で頭が痛くなったが、向こうの管理者が入居者を探していたこともあって、事は円滑に運ばれた。


 もちろん問題も発生した。

 例えば俺と小日向さんとみさきの関係だ。


 なんと戸籍上は三人とも他人なのである。

 それを解決したのは「お金さえ払ってくれれば何でもいいよ」という管理者の発言だった。


 なんでも長いこと入居者がいなくて困っていたらしい。

 これについては、奇跡という他無いだろう。


 それから市役所で手続きをした際の


「えっと…………あっ、はい」

 

 という意味深な反応も忘れることは出来ない。

 あの人はいったい何を察したのだろう。


 みさきの保育園の件といい、あの市役所は大丈夫なのだろうか。

 考えられる可能性としては俺の親が暗躍していることくらいだが……そのうち挨拶しないとな。


 ともあれ、引っ越しの手続きは無事に終わった。


 新居での生活が始まるのは2月1日。

 だから、このボロアパートで過ごすのは残り二週間だ。


 因みに、このアパートは取り壊され、土地を売ることになるそうだ。


 もともとそのつもりだったところに入居者が現れ、気の良い大家さんの善意で部屋を貸してくれていたらしい。なので、入居者がいなくなった後にも残す理由は無いそうだ。


 少し寂しい気持ちになるが、むしろ後腐れなくていいのかもしれない。


「……そうだ、結衣に報告しないと」


 日曜日。

 部屋でのんびりしていた俺は、ふと思い付いた。


 ケータイを取り出して電話をかけると、ワンコールで繋がる。



 そして――



「……」


 その日の夜。

 俺は結衣に睨まれていた。


「何故みさきちゃんも一緒なのですか?」

「そりゃ心配だからだろ」


 今朝は仕事中だったそうで、話は途中で終わった。

 俺としては引っ越すという報告が出来ただけで満足だったのだが、結衣は他にも話したいことがあるらしい。


 そういう理由で呼び出され、俺はみさきと二人で結衣の住むマンションの前まで歩いた。


 いつもならみさきを小日向さんに預けているが、生憎と今日は漫画の件で東京に行っていて不在だ。


「……二人で話がしたいので、ゆいのところに預けてくれませんか?」


 と、結衣。


 みさきには聞かせたくない話なのか?

 いやでも、引っ越すだけだよな……あ、あれか。保護者とかそういうアレでいろいろあるのか。


「みさき、ちょっとゆいちゃんと遊んでてくれるか?」

「……ん」


 コクリと頷いたみさき。

 物分りが良くて助かる。


 というわけでみさきを結衣の部屋に預けて、再び二人で外に出た。


 マンションの前といっても、我がボロアパートとは違って道路の上ではない。一目でマンションの敷地内と分かる場所で、屋根も有る。広さも相当なもので、あちこちにある植木を取り除けば、例のアパートくらいは簡単に入るだろう。


 結衣は今日もスーツを着ていた。

 少しずつ土日は休むようになった彼女だが、それでも特に予定の無い日は働いているらしい。


「それで、何の話だ?」

「決まっています。引っ越しについてです」


 相変わらず率直で分かりやすい物言いだ。

 だけど、いつもと比べて鋭い感じがしない。

 仕事終わりで疲れているからだろうか。


「俺からは電話で話したことが全てだが……やっぱり、みさき関係で何かあるのか?」

「いえ、今みさきちゃんは関係ありません」

「そうか」


 ならどうしてみさきを外させたんだ……というか、なんかちょっと機嫌悪くねぇか?


「単刀直入に聞きます」


 結衣は軽く呼吸を整えて、


「例の女性……小日向さんとは、交際しているのですか?」


 まったく予想していなかった質問に少し面食らった。

 

「交際って、所謂アレのことか?」

「交際といえば男女が結婚を前提に行う品評会のようなものの事ですっ」


 なんか怒られてしまった。

 品評会ってスゲェ言い方だな初めて聞いたよ。


「いや、べつにそういう関係では――どうした?」


 珍しく間抜けな顔をして俺のことを見ている結衣。

 

「……交際もしていない女性と、同棲するのですか?」

「同棲って……まあ、そうか」


 正直なところ、少しも意識していなかったかと問われれば頷くことは難しい。


 しかし、あのアパートでの生活も見方によっては同棲していたようなものである。部屋は隣で音は丸聞こえだし鍵も付いていない。だから、どうせ二人とも引っ越すのなら、良い部屋を折半すれば互いにとって利があると考えての提案だった。


「本気で問題を認識していないという色ですね……」


 いっそ呆れた表情で言う結衣。


「問題ってのは言い過ぎだろ」

「大問題です。非常識です」


 なんだか最近は怒られてばかりな気がする。

 それは構わないのだが、今の言い方だと小日向さんまで悪く言われているようで頂けない。


「別にいいだろ。悪いことをしているわけじゃない」

「……ダメです」

「ダメってなんだよ」

「とにかくダメですっ」


 どうしたんだこいつ。

 この前といい、なんか嫌なことでもあったのか? だとしたら、これは八つ当たりか何かだろうか。結衣に限ってそんなガキみたいなことはしないと思うが……なんにせよ、ちょっと不愉快だ。


「なあ、少し冷静になれよ」

「冷静です。私は当たり前のことを言っています」


 結衣の言葉通り、その口調には淀みがない。

 ならば冷静でないのは俺の方なのだろうか。

 ……どっちでもいいか。


「俺は何も問題無いと思う。小日向さんもそう思ったから、この提案を受けたんだと思う。それだけの話だろ」

「それだけって……」


 思った通りのことを言ったのだが、やはり結衣は気に入らないらしい。


「……それなら」


 グッと何かを堪えるような仕草を見せて、


「他意は無いと、下心は無いと、ただ住居を共にするだけと、そう言うのですね?」


 瞳を揺らして俺を見上げている。

 ここで俺は、ようやく彼女の言いたいことが分かった。


「なんだよ、そういうことなら最初からハッキリ言えばいいじゃねぇか」

「……なに笑ってるんですか」

「安心しろ。小日向さんが嫌がるようなことは絶対にしない」


 下心という言葉でピンと来た。

 まったく、そんなことするわけないだろ。


「一切の下心は無いと、断言できますか……」

「もちろんだ」


 下心ってのは、ストレートに言うとエロイこと考えてるかどうかってことだろ?

 なら、そんな気はさらさらない。


 そもそも結婚もしてねぇのにガキ作ってどうすんだよ、そのガキ絶対不幸になるだろ。子供のことを少しでも考えたら、そんなことは絶対に出来ない。


 さておき……結婚、結婚か。

 全く意識していなかったが、普通は同棲するってことは、そういうことだよな。


 小日向さんと結婚…………。


「ああ! やっぱり考えてるじゃないですかあるじゃないですか下心!」

「だから何で分かるんだよ」

「分かりますバレバレです!」


 結衣はどこか必死になって、


「ダメですよそんなのっ、絶対ダメ!」

「なんでお前が拒むんだよ。そもそも、少し考えただけだろ」

「それもダメ!」


 なんだ、この……疲れてんのか?


「ぐぬぬ、なんですかその色。めんどくさい人を見るような……」

「そこまでは思ってない」

「そうですか。とにかく、ダメですからね」


 なんなんださっきから。

 心を読まれて怒られるとか……よく考えたら貴重な経験だな。全く喜べないが。


 あっ、そういやこいつ夫に逃げられたんだっけか。

 てっきり嘘だと思い込んでいたが……なるほど、それで結婚に対して否定的なのかもしれない。


「なあ結衣」

「はい、なんでしょう」

「結婚って、どんな感じなんだ?」

「……は?」

「一応、経験者なんだろ?」

「なんの話ですか。未経験ですよ失礼な」

「いや、お前、自分で……」

「言ってません」


 ……やっぱ嘘だったのか。

 なら、どうして否定的なんだ?


「……」

「……」


 会話が途切れる。

 結衣は、きっと色々なことを考えている。

 俺には心を読む特技なんてないけれど、それは顔を見るだけで分かった。


 一方で俺も、彼女は何を考えているのだろうと考える。


 結衣は、なんだかんだで優しい人間だ。娘にはもちろんのこと、見ず知らずの他人ですら困っていれば見過ごせないのが戸崎結衣という人間だ。それは初めて出会った時から分かっている。


 だから今日の会話にも何か理由があるはずなのだ。

 いったい何が目的なのだろう……。


「……とにかく、交際はしていないと、そういうことで間違いありませんか?」


 やがて結衣は呟いた。

 それは考え事をしていた俺にとっては不意打ちのようなタイミングで、少し返事をするのが遅れる。


「ああ、してない」

「結婚についても、今日ここで話をするまで意識すらしていなかった。それで間違いありませんか?」

「ああ、間違いない」


 質問の後、結衣は少し脱力した。

 最後の最後でまた質問の意図が分からなくなったが、結衣は納得したようなので良しとしよう。


「では、ゆいが待っているので帰ります」


 切り替え早いなこいつ。


「そうか。みさきにもよろしくな」

「はい、分かりました」


 結衣はすっかり満足した様子で言うと、踵を返した。

 そのまま自動扉を通過して、そこで一度振り返る。


「どうした?」


 結衣は口元を引き締めて、俺のことを睨んでいる。

 そして右手をゆっくり頭の上まで持ち上げると、勢い良く俺に突き付けた。


「覚悟していてください!」


 何をだよ。


「では、また!」


 そう言って、結衣はエレベーターに乗った。

 ほんと、なんなんだ今日のあいつは……。


 思わぬ捨て台詞に悶々としながらみさきを待つ。

 数分後、ポケットに入っているケータイが震えた。

 開くと、メールの着信が一件。



 みさきちゃんは今晩ゆいの部屋に泊まっていくそうです。



「……ああ、そう」


 溜息ひとつ。

 それからとぼとぼ帰宅して、静かで寂しい夜を過ごした。


 布団の中で、まぶたの裏を見ながら考える。


 どういうわけか、今年は結婚という言葉が何度も頭に浮かんでいる。


 しかし、そもそも結婚とは何なのだろう。


 結論だけ言えば家族になるってことなんだろうが、そもそも俺は家族を知らない。


 まあ一口に家族と言っても様々な形があるだろうけれど、それを自分で作っていくという未来を上手く想像することが出来ない。


 みさきが数人に増えるようなものだろうか。

 そういうことなら大歓迎だが、そんなに簡単ではないだろう。


 結衣の話によると、結婚を考える為に行う品評会が交際で、普通はそういう相手と同棲するそうだ。


 俺は特に意識していなかったけれど、小日向さんはどうなのだろう。あの提案を受けたって事は、そういうことなのだろうか。まあ、結衣の意見が一般論ってワケでもなさそうだが……ダメだ、よく分からん。


 これから先、分かる日が来るのだろうか。



 *



「姉さん! 聞いてください姉さん大変です大事件ですマジやばいです!」

「落ち着け。なんだ、事件って」

「友達の友達の友達の親戚の友達に不動産屋で働いてるヤツが居るんすけど!」

「友達でいいじゃんそれ。で、その子がどうした?」

「姉さんの男! 女連れて引っ越しの手続きしてたって!!」

「男って、誰のことだよ」

「あの人っすよ! 姉さんの運命の!」

「運命って…………は? 龍誠のこと?」

「そう!」

「いやいや、龍誠が女連れて引っ越しってそんな……」

「写真もありますよ!!」

「…………」

「ねっ、これヤバくないっすか?」

「……たまたまでしょ」

「タマタマ一緒に不動産屋に来るとか無いっすよ! ていうか手続きしてるんすから!」

「……べつに、関係ないし」

「そんなこと言ってると盗られちゃいますよ!?」

「…………」

「姉さん!!」

「…………ちょっと、確認する」

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