第128話 引っ越しを決めた日

 朱音とファミレスで話をしてから数日後。


 昨日みさきの学校では始業式が行われ、三学期が始まった。

 しかし翌日である今日は土曜日で、本格的に授業が始まるのは月曜日からになる。


 俺個人としては初めから月曜日に始業式を行えよと思うのだが、きっとそうする理由があるのだろう。

 ともあれ、今日もみさき色の一日が始まろうと――


『いいぃぃぃやっったぁあああああ!

 《バキッ》

 うえへぁアば!?』


 ……なんか、隣からスゲェ音がした。



 *



 俺はみさきと二人で小日向さんの部屋まで歩いてドアをノックした。

 しかし返事は無く、ドアを開けると床に埋まった小日向さんと目があった。


 とりあえず小日向さんを助けた後、簡単に事情を聞いた。

 ちょっと嬉しいことがあって飛び跳ねたら床が抜けてしまったらしい。


「……死にたい」


 穴の直ぐ近くで膝を抱えている小日向さん。

 みさきはチラチラ穴の方を見ながら、小日向さんの背中を撫でていた。


「まあ、こんなボロアパートだし仕方ねぇよ」

「……ふひひ、でも天童さんの方は無事じゃないですか。私なんて天童さんと比べたら大人と子供くらいの身長差があるのに、この有り様でふへへ……死のう」


 見たところ外傷は無い。部屋の中も穴が開いた以外は無事っぽいが、とにかく小日向さんの落ち込み方が半端じゃない。


「ほら、俺の部屋はアレだ。守り神が住んでるから」

「……わー、みさきちゃんすごいなー。レジェンドレアかなー? 諭吉さん何人くらい犠牲にしたら当たりますか? 表示上はゼロだが小数点以下に存在する確率で分母を明記していないから実質的には天文学的な数字が私の体重……死のう」


 ダメだ、いつも以上に何を言ってるのか分からん。


「そういえばほら、嬉しいことがあったとか言ってなかったか?」


 ハッとした様子で顔をあげて俺の方を見る小日向さん。


「聞いてください!」

「お、おう……」

「実はですね、さっき電話があってですね……ふ、ふひひ。新人賞で大賞に選ばれてしまいました!!」


 パンパカパーンと言いながら拍手をする小日向さん。

 俺も一緒になって拍手しながら、何の話なのか考える。


 新人賞で、大将。

 ……新人戦で大将じゃねぇのか?


 いやいや、小日向さんの職業的に新人賞で大賞って方が自然だ。

 でも小日向さんって新人なのか? 二年前にはもう漫画家だったよな?


「その大賞ってやつに選ばれると、どうなるんだ?」

「お金がもらえます!!」


 ド直球だな。


「あと連載が決まります!!」

「連載?」

「はい! 結構有名なとこなんですけど! そこに私の漫画が載ります!!」

「おー、なんかスゲェな」

「すごいです!!」


 俺には知識が足りないからかピンと来ない内容だが、小日向さんの喜び方を見るに相当な事らしい。みさきも小日向さんの隣でパチパチ手を叩いている。


「それでもう私は舞い上がってしまって、うへへへ、今夜は散財するぞい! ……と思った矢先にこれです。ふへっ、これ修理代とか請求されるんですかね?」

「だ、大丈夫だろ。多分」


 このアパートの管理人ってどんなヤツだったっけ。

 入居初日に会って以来は一度も顔を見てねぇから忘れちまった。


 まあ、この常識外れのアパートだからな……。


「……」


 さておき、小日向さんの落ち込み具合がやばい。

 こういう時こそ日頃の恩を返さねぇとな。


「小日向さん、お祝いに何か御馳走しようか」

「……よ、よろしいのでせう?」

「もちろんだ」


 貯金なら結構あるからな。引っ越しの為に貯めてる金だが、こういう使い方をするのも悪くないだろう。


「で、では……ご厚意に甘えさせて頂きたく存じますん」


 なぜか背筋を伸ばして指遊びを始めた小日向さん。


「実は私、前々から気になっていた老舗が在りて候」


 綺麗に三指揃えて頭を下げた小日向さん。


 さっきからテンションがおかしいのは新人賞がどうとかいう話で舞い上がってるからだよな? 実は頭を打ったりしてねぇよな?


「あっ、老舗といっても普通のレストランというか、語呂が良かったので採用しただけです」

「そうか、よく分からんが何でも言ってくれ」

「ん? あ、いえ、ふへへ、ありがとうございます」


 今度は怪しいセールスマンみたいにひょこひょこ頭を下げる小日向さん。

 やっぱり漫画を描くような人は引き出しが多いのか、この人の動きは見ていて飽きない。

 

 そのうえ、面白い。

 どれくらい面白いかって、みさきが隣で動きをマネしているくらいだ。


 ……みさき、りょーくん出来ればその動きはマネしてほしくないかなぁ。


「ええっと……この穴、どうしましょうか」

「とりあえず埋めればいいんじゃね? 深さもそんな……うわっ、なんだこれ」


 穴を覗きこんで、思わず身を引いた。

 そこには信じられないくらいおぞましい闇が広がっていて……。


「引っ越そう。こんなところにみさきを住ませるなんて有り得ない」

「……そ、そうですね」


 俺と同じように穴を除き込んで言った小日向さん。


「……あの、とりあえず銭湯に向かってもいいですか? あっ、こんなバッチイ女が行ったら出禁になりますかね?」

「大丈夫だ小日向さん。その証拠に、わりと汚い物を嫌がるみさきも……」


 俺と小日向さんは、ほぼ同時にみさきがいた場所を見た。

 しかしそこにみさきはいなくて、ふと視線を感じて部屋の外を見ると、鼻をつまんで俺達を見守るみさきの姿があった。


「……死のう」

「違う! みさきは穴にビビっただけで小日向さんにビビったわけじゃない!」


 頭から穴に飛び込もうとする小日向さんを全力で止める。

 ちくしょうっ、気持ちは分かるし素直なところは大好きだがタイミング悪いぜみさきぃ!


「なんだかんだで先延ばしにしてたが、そろそろマジで引っ越しを考えねぇとな。みさきが家出したら大変だ」

「家出は無いと思いますけど……」


 小日向さんは苦笑いした後、少しだけ真面目な顔になって、


「実はその、私も真剣にお引越しを検討しています。はい。商業での活動となると締め切りがキツそうですし、今の環境でも頑張れば大丈夫そうですけど、やっぱりその、もう少し文明レベルを上げたいという思いがあります。主にセキュリティ的なアレで……」

「セキュリティか……確かに、このアパート鍵もついてねぇからな」

「ほんとですよ。すっかり慣れちゃいましたけど、最初は寝るのとかすっごい怖かったです。ふひひ、これが田舎クオリティ」


 慣れとは恐ろしいものだ。

 少し考えるだけで多くの問題が浮かび上がる環境に生活していても、時間が経って順応すれば、それが当たり前となってしまう。


 思えば、かなり長いこと此処で生活していたが……そろそろ潮時か。


「実は結構前から考えていたんですけど、なんだか居心地良くなっちゃいまして……」


 小日向さんもこのアパートに愛着のような感情を抱いているのか、少し寂しそうに言った。


「はぁ、でも引っ越したらお金かかりますよね……安いとこでも三万円くらい。電気代とか合わせて諭吉さん五人は必要でしょうか? 安いアパートなら間取りはここと変わらないのに料金五倍、そんなにあったら、いちコミケできちゃいますよ……かといって高いところに住む余裕も無いですし」


 少し早口で言って、うーんと考え込む。

 思えば、自分のことで悩んでいる小日向さんを見るのは初めてかもしれない。


 俺は素直に、力になりたいと思った。

 それは今までの恩もあるけれど、きっとそれだけじゃない。

 貸し借りとか無しに、彼女の助けになりたい。


 漫画についての相談ならお手上げだったが、この案件なら俺も前々から考えていたことだ。


 小日向さんの言う通り、引っ越しとなれば金がかかる。


 この金は一回払えば終わりというものではなく、確実に毎月の負担を増やす出費となるだろう。しかし、負担を増やしたところで今と大きく生活レベルが変わるということは無いだろう。


 銭湯や公園に行かずとも済んで、電気も家の中で手に入るようになる。

 字面だけ見れば大きな変化があるように思えるけれど、家の外に出れば満足出来たことが、家の外に出なくても良くなるだけだ。それは、このアパートで長く生活した俺や小日向さんにとって、それほどのメリットにはならない。


 かと言って、家賃が十万もするようなマンションに引っ越す程の余裕は無い。


 最近では仕事を貰えるようになって給料が徐々に上がり始めたけれど、大した額ではない。これから先みさきの為に金が必要になることもあるだろうし、今の段階で良い所に引っ越すのはキツイ。


 ただ、アイデアはある。

 ずっと考えていたことがある。


「なあ小日向さん。ここから小学校に向かって、もうちょい歩いた所にあるマンション、知ってるか?」

「えっと……あー、あのデッカイところですよね。あんなところに住めたらいいですけど……お値段すごそうです」

「九万円ちょいらしい」

「うへぇ、そんなにあったらシャイゼリアで二ヶ月暮らせますよ……」


 小日向さんの例えは良く分からないが、金がかかるのは間違いない。


 家賃だけで九万。

 それが毎月で、他にも水道代とか電気代とか、いろんなことに金がかかる。


 繰り返すが、そんな余裕は無い。

 だけど、



「それ、半分ならどうだ?」

「……え?」

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