第66話 SS:彼女はとても優秀だよ

 森野もりの海未うみは、戸崎結衣の後輩である。


 彼女はそこそこ運の良い人物だ。

 森なのか海なのかハッキリしろよ! と小学生の頃に名前を弄られたおかげで余程の事が無い限り傷付かないメンタルを手に入れ、中学生の頃に口論になった相手から「名前とは違って口はハッキリしているのね」と言われたおかげで物事をハッキリ言えるようになり、学生時代は名前が半端なんだからせめて就活くらいはハッキリしろと言われて受けた一流企業に合格してしまった。


 名前を弄られてばかりだが、彼女はそれを幸運だったと思っている。


 そして晴れて社会人となった彼女の教育係として選ばれたのは、会社が始まって以来最も優秀と評価されている人物で、しかも女性だった。


 現代日本において、女性がまともに働ける場所は少ない。それが大手企業ともなれば尚更だ。例えば不祥事を起こした会社が謝罪会見をする時、そこに女性の姿を見たことがあるだろうか?


 単純に、子育てによって仕事を離れる人が多いからだ。この問題は「仕事とは会社で行う事である」という常識が覆されない限り解決されることは無いだろう。また、この社会問題は多くの女学生の不安要素となっている。


 しかし、聞けば戸崎結衣は子持ちであるとのこと。よって彼女の下で働く事になった森野が結衣に憧れのような感情を抱くのは必然であったと言えるだろう。


 彼女の教えは分かりやすいし、あまりにも優れた仕事姿には敬意を通り越して恐怖すら覚える。


 まるで機械のように、それこそ攻略法を知っているゲームをプレイするかのように仕事をこなしていく。その仕事が単純な事務作業の類であれば驚くようなことは無かっただろうが、彼女がやっている仕事は他企業を相手に商談を成立させるというものだ。そこに明確な攻略法が存在するのなら、きっと世界経済は今よりずっと潤っている。


 彼女が一度の商談にかける時間は、平均して三分だった。


 まずは挨拶と同時に、相手の興味を惹く一言を口にする。その後、一分で詳細を話し、次の一分で根拠を述べる。相手は迷わず要求に従う。以上だ。


 ……凄すぎて、全然参考になりません。


 実際、森野が同じことをしようとしたら面白いくらいに失敗した。その度に森野は厳しく怒られることを覚悟するのだが、戸崎結衣は彼女を叱責することなく迅速に事態を逆転させ、商談を成立させてしまう。その後、森野に向かって「以後同じ失敗はしないように」とだけ、目も合わせずに言うのだ。これは厳しく叱責されるよりも辛い。


「はぁ……なんだか、自信喪失です。もともと無いですけど」


 昼休み。

 森野は社内の食堂で、ストローを口に入れたまま溜息を吐いた。


 今日、戸崎結衣は遠方へ出向いて商談を行う。その場合、森野は決まってお留守番となる。それは結衣が子供の為に八時までには必ず帰宅するからで、森野が居ると余計な時間が掛かるという事実を暗に告げている。


「お疲れの様子だね」


 知らない男の声。

 仮にも若い女性である森野は、少なからぬ警戒心を持って顔を上げた。


 そこに居たのは、想像よりも二回り年配の男性だ……いや、よく見れば覚えがある。

 

「戸崎先輩の先輩!?」


 気付いた瞬間、森野は背骨が折れそうな勢いで背筋を伸ばした。


「ははは、先輩の先輩か。これは面白い」


 男は柔らかく笑うと、森野の正面の席に腰を下ろした。


「他でも無い戸崎君について話をしたい。時間はどれくらいあるかな?」

「いくらでもあります!!」

「では、昼休みが終わるまで、年寄りの話し相手になってくれないかな?」

「喜んで!!」


 ガッチガチに緊張する若者を見て、男は孫娘を見るような目を見せる。だが余計な事を言わずに、遠慮なく本題のみを口にした。


「戸崎君のことはどう思う?」

「すごいと思います!」

「どういうところが?」

「全部です!」


「何をもって全部とするのか、思い付くことを述べてくれるかな」

「仕事の早さとか、無駄の無さとか、絶対に失敗しないところとか」

「一番。一番すごいと思うところを問われたら、何を思い浮かべる?」


 ほとんど無心で思い付く言葉を羅列する森野を遮って、男は落ち着いた口調で言った。

 森野は口を塞がれたかのように絶句し、しばし思考する。


 返事は、男が思ったよりも早かった。


「まるで人の心が分かっているかのような話術……です」

「そうか、君もそう思ったか」


 まるで森野が何を言うか分かっていたかのように、男は言った。


「彼女はとても優秀だよ。だが、優秀なだけではない。彼女には特別な何かがある」


 一泊置いて、彼は言う。


「君には、それを盗んでほしい」

「盗む……ですか?」

「言葉が悪いかな。弟子が師匠の技を目で見て覚えるとか、そういった意味合いだよ」

「いえ、単純に、私なんかに出来るのかなと……」


 正直な所、森野には戸崎結衣が自分と同じ人間には思えない。決して悪い意味では無いと前置きしたうえで、彼女は人心を掌握する術を持った魔女なのではないかと思ったことがある。むしろ、そうであった方がしっくりくる。それほど、彼女の話術は卓越している。


 もちろん、その事実について男は森野よりも正しく理解している。


「君には期待しているよ」


 そのうえで、男は言った。


「彼女と共に仕事をさせて、一週間以上続いたのは君が初めてだ」

「……ええっと」


 突然知らされた事実に、森野は言葉を詰まらせる。


「人は自分よりも遥かに優れた人間を見ると、どうにも心を壊してしまうらしい。その傾向は、なまじ優秀とされてきた人間が集まる我が社では特に顕著だ」


 男の言葉について、森野には痛いくらい心当たりがあった。

 戸崎結衣にまつわる根も葉もない黒い噂。

 彼女に向けられる数々の醜い感情。

 その根本にある感情――劣等感に起因する嫉妬、そこから転じた傲慢な憎しみ。


 そして、それら全てを五感の外に置く戸崎結衣の姿勢。

 それを間近で見せつけられ続けた森野の心労は、きっと普通の人なら誰もが共有できる感情だ。


 自分と同じ事をしているはずなのに、自分よりも優秀な人間が居る。すると自分がダメな人間なのでは無いかと不安になる。その不安を押し殺す為に必死で努力して、しかし差は広がるばかり。そのうち、どんなに頑張ってもダメなのではないかという思いが芽生える。そうなったらもうおしまいだ。


 全てを諦めて、ただの惰性で残る人生を生きるか、敗北感を憎しみに変えて、優秀な存在を蹴落とすことで、相対的に自分を高めるしかない。


 だから男は、言うのだ。


「君には、期待しているよ」


 森野という「元より優秀ではない存在」が、いつか優秀な人間になることを期待していると、彼は言っているのだ。


「……はい、分かりました」


 森野は、強張った表情で頷いた。


 ――これが、戸崎結衣と最も近しい場所で生きる大人達の会話である。


 故に、戸崎結衣は孤独である。




「みさき! あたしクロールできたよ! クロール!」

「……ん」

「すごいでしょ!」

「……」

「みさきよりはやい!」

「……」

「かえったら、ママにほうこくするの!」

「……」

「みさき……?」

「……ねむい」

「きいて!! おきてきいて!!」


 ――そしてこれが、戸崎結衣と最も近しい場所で生きる子供達の会話である。


 故に、戸崎結衣は孤独である。


 なにも難しい言葉遊びをしているわけではない。

 戸崎結衣と対等な人間が一人も居ないという、ただそれだけの話だ。




 ――真っ暗な世界で、戸崎結衣は歩いていた。


 彼女の前には、小さな光が有る。

 それを抱きしめると、光はとても優しい音を鳴らす。

 だけど光は、決して結衣の隣には立たない。


 いつも結衣の傍に居て、結衣の周りを照らしてくれる。

 だけど光は、決して結衣の背中を引っ張らない。


 光はいつも結衣の傍に居て、結衣の周りを照らしている。


 結衣は、光の周りでクルクルと回っていた。

 この真っ暗な世界には、結衣の他には、その小さな光しか無い。


 不安だ、孤独だ。

 

 耐え切れなくなって光を抱きしめると、優しい声が聞こえる。


 大好きだよ。


 いつしか結衣は、この光を守ること以外考えられなくなった。

 結衣の耳には、この光が囁く暖かくて優しい言葉以外、何も聞こえなくなっていた。


 そこに、小さな足音が入り込む。

 最初は小さかった足音は、徐々に大きくなる。

 それはとても懐かしくて、そして――とても不愉快な音だった。


 だけど、この音は結衣にしか聞こえない。

 戸崎結衣という人間を知る者にしか聞こえない。


 これから君達に耳を授けよう。

 戸崎結衣と同じ音を聞く為の耳を授けよう。

 ほんの少し、長い話をしよう。

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