第11話
僕に関係する人にも実害を出して多大なるご迷惑をおかけした。
そこには最も身近な存在として家族がある。
躁状態に入ると僕は引っ越しを具体的に計画し、それを迷うことなく繰り返し遂行した。
次に行けば何かがある、もっと豊かな生活があるはずだ、当然金持ちにもなることができる、と疑わなかった。
居住している同じ市内に、言うなれば近所に転居したこともあれば、300㎞以上離れた他県へ移り住んだこともある。
妻は何も言わずに、ギチギチに荷物を積んだダイハツのタントを長時間運転してくれた。インフルエンザに罹患し治りはしたが、表情を保ってハンドルを切っていた。
今思えば、気分の高揚と形容されることもある躁の頃も、いいことなんて何一つなかった。
一方、うつ状態に陥ると何もできない。
文字通り、『何もできない』のだ。起き上がられない,喋られない,食べたり飲んだりもできない。
僕の場合はとにかくあらゆる意欲がなくなった。
薄いのはおろか、重たい方のカーテンも開けたくない。陽の光を浴びるのも億劫なのだ。
それなのに尿意・便意はあるから困る。トイレまで立って歩くのも困難だから、妻の介助で手引き歩行である。
大便の時はいきむ作業も一苦労。
やっとの思いで用を足しても、今度は便座から立つ意欲がない。
また手引きで布団に戻って、頭を床でゴンと打たないようにゆっくりと枕に乗せた。
つまり、一連のトイレ動作を手伝ってもらったのだが、これが嫌でオムツを選択していたら、後の処理を妻にお願いしていただろう。
テレビは観る気はしなかった。
画面が明るいからでも音がうるさいからでもなく、だからといって消して眠りたいわけではない。
消したところでどうせ眠れないのも分かっている。
妻は自殺を警戒してくれていたが、とてもではないけれど動けないのと意欲がないから、僕には心配はなかった。
しかし、少し調子が良いと感じると、近所を歩いてみようかと考えるくらいに『回復した』気分になる。
それは、妻の心配を的中させてしまう。
僕は、よく晴れた日の正午前に1人で散歩に出かけた。空き地の周辺をグルグル回っているまでは良かったが、なぜかスーパーマーケットに寄りたくなってきた。
お腹が空いたわけでも美しいレジのお姉さんに会いたかったわけでもない。
動機は何もない。
店内に入ると、正面に特売の野菜がある。まだまだ高いなと思いながら、ポテトチップスを狙いに行こうとした瞬間、『店長』と書いてある名札を着けた同世代の男を見た。
男は豆腐と玉ねぎ天を物凄いスピードで並べながら、パートの方に的確かつ迅速に指示を出していた。
その時、働いていなかった僕は、悲しいのと同世代とのあまりの違いに不安が一気に覆ってきた。
これはマズいやつだ!と思った。
早く家に帰ろう、寝ようと思った。
タオル地のハンカチで汗を拭きながら、急ぎ足で帰宅し鍵をかけた。
しかし、これがいけなかった。
妻の悪い予感は的中して、僕はハンカチをタオルに持ち替えていた。それを台所のタオル掛けに通し結んだ。これらの行動のスピードは実に速かった。
つらかったんだと思う。
首をかけようとした時、玄関の鍵の音がして妻が入って来た。ちょうど仕事からの定時での帰宅時間だった。
目が合った。
僕も妻も言葉を発しなかった。
妻はゆっくりとタオルを解き、2人で涙を拭いた。
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