デートの誘い

 近所の兄ちゃんが死んだ。

 小さい頃から、俺をよく遊びに連れて行ってくれる人だった。

 高校の頃に兄ちゃんの誘いに乗って、俺はバイクの免許を取った。でも、旅の前日に、俺は風邪を引いてツーリングどころじゃなくなってしまった。それからは、大学への進学や就職活動なんかで忙しくなって、家の近くで会っていても、声をかけるだけで疎遠になってしまっていた。

 仕事優先の両親よりも、彼との思い出の方が数あるかもしれない。

 そんな人の、突然の死の知らせ。

 聞いた時には自分の耳を疑い、通夜に並んでいる今は現実を疑っている。

 入れ物の中で眠る彼はただの物体だった。肌色は冷たい薄青がかった白になって、真っ白な死装束と死化粧が合わさると、人はこれほどまでに無意味な置物のようになってしまうのか。


『たっちゃん、せっかくバイクの免許取ったんだからよ、一緒にどっか行こうぜ?』


『仕事あるから無理だよ』


 顔を覗くほどに、彼と交わした最後の会話を色濃く思い出す。あの時の俺の素っ気なさと、どこか寂しそうだった兄ちゃんが、俺の後悔の念をざわつかせる。


 なんで楽しいとも感じていない仕事なんかに固執した。

 どうして無理に休みを取ってでも誘いにならなかった。

 給料が減るからだ。

 有給取れば良い。ツーリングに行く方法なんていくらでもあったじゃないか。


『兄ちゃん、起きてよ、一緒に行こうよ』


 霞む声で話しかけるけど、兄ちゃんの気持ちよさそうに閉じた目が再び開くことはなかった。


 ──火葬の日。

 兄ちゃんの遺体が焼かれている間の待合室で、兄ちゃんのお父さんが俺の肩を叩く。


『少し、いいかな?』


 ゆっくりとした彼の足取りを、俺は同じペースで着いていく。

 火葬場を出て、お父さんは目の前に流れてる川の手すりに寄りかかると、懐から取り出したタバコに火をつけながら隣をすすめた。


『何があったんですか……』


『心臓の発作だったそうだ。北海道で日の出を見に行ってた。季節も中頃、人の居ない時間帯で発見が遅れてしまった……医者が言うにはそういう事らしい』


『そんな……そんな感じは全くなかったのに……』


『運命だったのかもしれない……』


 それを聞いて、俺の後悔の念はさらに強くなって、故人のお父さんがここに俺を連れてきた意味を察した。

 きっと、俺が誘いを断ったことを兄ちゃんから聞いていたんだろう。俺が着いて行きさえすれば、兄ちゃんは死なずに済んだかもしれないのに。そう責め立てたいのだろう。

 その通りだ。

 俺が幼い頃に行きたかった所に、どこか行きたい所はあるか? と、兄ちゃんは自分で稼いだバイト代で、俺の親の代わりに連れて行ってくれた。

 そんな彼の誘いを蹴り続けたんだ。

 文句の一つや二つあって当然だ。


 でも、彼のお父さんから出てきたセリフは俺の予想を超えた真逆のものだった。


『たっちゃん、君が良ければ、あの子のバイクに乗ってあげてくれないかい』


『…………』


『親バカかもしれないけど、うちの子は頑張り屋だった。中古で、しかもそのくせ身の丈に合わないバイクだったのに、どうしてもこれに乗りたいんだって言って、少しづつお金を貯めて買ったものなんだ。知らない所で知らない奴に乗り回されるのは……わたしゃ少し嫌なんだよ』


 なんて間の悪い。

 生まれて20年余りの間で、これほど運命や神様の類が憎たらしいと感じる瞬間があっただろうか。

 俺の体が健康だったなら、この話を受けていた。

 でも、訳の分からない注射を打たれてしまった俺の体は常に消滅しかかっている。しかもその注射薬をつくった奴が言うには、余命一年あるかどうか。

 バイクがあっても意味がない。

 しばらく乗っていても、しばらくして手足が消滅してしまえば運転する事もままならなくなる。


『……ごめんなさい。俺、大型の免許持ってないんです』


『……そっか』


 ──キサトの隣で彼女の教科書の中身を懐かしみながら、俺は兄ちゃんのお父さんとのやりとりを思い出していた。

 あれから、もう半月が過ぎようとしている。


 疾患は進み、俺の左手の指先はほとんど黒く変色してしまった。

 全ての元凶……もといキサトのお父さんよると、肌の変色は全身に広まるらしい。黒くなった次は灰色に変化し、さらに進めば灰に似た粒子になって消滅するそうだ。火葬された兄ちゃんみたいに。

 薬をもらっているけど、キサト父の創作薬だから、人体実験にほぼ等しい。左手の状態を見るに、薬が効いているのかどうかも怪しいところだ。

 この病気のことを、俺はまだ家族に話せずにいる。言っても信じてもらえないだろうし。それに、たいていは酒を飲んで自分が言ってて気持ち良いことしか吐かない両親だ。会話にすらならないだろう。

 ここに来る前に、会社に辞表を送った。とりあえずは自由の身だ。翌日の朝のことや、仕事の人間関係の事からは解放されたわけだ。

 これで治療に専念できる。


「──できた」


 キサトが何かを描き上げたらしい。

 俺はベットに腰を移してキサトのスケッチブックを覗き込む。


「見せてくれ……ん? これ、俺か?」


「そうだよ。上手く描けてる?」


 スケッチブックの中の俺は、酷い悪人面で、真横を向いて本を読んでいる。


「上手いのは判るけど俺こんな暗い表情してたか?」


「うん。何かあったの?」


「ちょっと考え事」


 無意識に出た悪人面を苦笑いでごまかした。


「それにしても上手く描けてるな。他に何か描ける?」


「風景画かな」


 キサトは再びペンを走らせる。何も見ない状態で、あっという間に樹海の絵を書き上げた。

 鉛筆一本でここまで綺麗に描けるのもすごいし、何より実際に行ってきたかのような雰囲気を感じる。


「へぇ、てっきり病室の中かと思ってた。行ったことあんの?」


「うぅん。書いたことがあるの。パソコンで森って調べて、出てきた画像をそのまま紙に写しただけ」


「悪いことを聞いちゃった」


「気にしないで」


 ──と言う彼女もまた、どこか儚げな雰囲気を滲ませている。

 でも、その正体がわからない。聞こうかきくまいか、しかし聞いたところで何ができる?

 俺はキサトの教科書を読むふりをしながら、横目でチラチラと彼女の顔を見る。。


「ねぇ、K・T?」


「ん?」


「私ね、絵を描くの、もうやめようって思ってるの」


「なんで? もったいない」


「K・Tは上手って言ってくれるけど、これから絵を描き続けて、何か意味あるのかな」


「意味か……」


 とことん言い訳を還元していけば、全てのものに意味なんてものは無いのかもしれない。


 答えられない。

 棺桶で眠る兄の姿は、ただの置物だった。『生き物』から『生』が失われ、ただの『物』がそこにあった。火葬され残った骨は、冷たい金属の筒に入れられて機械にかけられる。機械が骨を砕ききるまで5分もかからない。中で筒が上下逆さまを繰り返して、回転する刃を往復する。三回、四回と回を繰り返す。ガリガリと不気味な音がシャリシャリとした音に変わり、最後は機械の動く音に掻き消されてしまう。

 目の前で機械が動きを止めるまでの時間が、どこか永遠のように感じた。

 そうして機械から出てきた粉は、感情の無い無機質な壺に入れられて、おじさんの腕の中に戻ってきた。最後の身分証と一緒に。


 返事の言葉が詰まってしまう。


「私ね、もう死んじゃいたい」


「…………バカ言うな」


「……ごめんね。でも、今まで苦しいの我慢して、手術して治ったと思ったら治ってなくて。それでも、治った後の夢を絵に描いていたけど、無意味だから勉強しろって言われて……学校の勉強の事なんて、使い道があるのかどうかも分からないのに……なんかね……疲れちゃったの……」


 この娘の家庭教師か? 何か言ったのか。


 黒く変色し始めた俺の手足。ヤブによると、これが今度は灰色に変わりながら全身に広がって、最後は粉になって消えていくそうだ。

 清々しいもんだ。火葬する必要がない体になったっていうのも。

 意味の無いものがいくつか減るから。

 それに、もし治ったとして、その頃に俺の体は五体満足でいられているだろうか。四肢が無くなっていたら、生きたままの物体でしかない。それこそ、生きている意味が無い気がする。


キサトの病気は治る余地がある。でも、当の本人はそれしか生きる気力を失いかけているようだ。

俺よりも未来の希望がある彼女には、気力を取り戻してほしい。

でもなんて言葉を送れば良い?

同じく未来への希望を無くした俺にできる事なんて……。



『──僕たちは食べることができる』


ふと、俺が学生時代にお世話になったバイト先の店長の言葉が蘇る。


『──歩くことができる』


そうだ。


『──眠ることができて、そして起きることができる。僕たちは生きることができる』


そうだ、できる。


『やっちゃいけないと言われてないなら、僕らは自由になんでもできる』


やっちゃいけない事はない。あってもそんなのクリアすれば良い。

俺はまだ食べれる。眠りそして起きることができる。まだ思い通りに動くこの体は、俺の意志に背いて、必死に生きようとしてるじゃないか。

できることを数えたら、勇気が湧いてきた。強がりかもしれない。でも、賭けてみよう。

立ち止まって深く考えるのはもうやめよう。動かなければそこに感動はないんだ。


「──観に行くか?」


「……っえ?」


「観に行こう。キサっちゃんの観たい景色をさ」


「でも、病気が」


「最近、発作はでたか?」


「出てないけど……」


「じゃあ行ける! 薬が効いてるってことだ。ある分だけ持っていけば良い」


「でも……」


「行こう! 病気でこんな狭い部屋に閉じ込められて、自分の趣味も否定されて勉強漬けにされて、生きるのに疲れちまったんだろ? だったら行くべきだ」


「……やっぱり行けないよ、K・T」


「なんでぇ?」


「みんな心配するし、それで私が死んだらみんなが悲しんじゃう」


「へぇ、さっきまで死にたいとか言ってた娘のセリフとは思えないな。じゃあ、このまま次の手術で治るのを待つってのか? 待ってる間に死んだらどうする? 冗談じゃない。俺だってこの体が治るかどうか分からないんだ。奇跡なんて待ってられるかよ!」


俺は下ろしている腰をキサトのベッドの上に移し、ビクリと震える彼女の頬にそっと手を当てる。


「──キサト、俺やお前だけじゃなくみんながいつか死んじまう。悲しい思いをする時は必ずくる。違いはない。あるなら、速いか遅いかの違いくらいだ。死ぬのは怖いか?」


「……うん」


「一週間準備をする。俺は一人でも行く。怖いなら止めない。それまでに決めてくれ。ここで光の見えない未来に希望を託すか、それとも……ふたりで外に飛び出すか」

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