一章(17)

 異形の大きさは、想像を絶する巨大さだった。仲間を助けるだなんて意気込んで出てきたはいいが、敵を目の前にして動くことさえできなかった。

 自分一人だったらとっくに死んでいただろうと自嘲しながら、彼らの戦いを見ている事しかできない。

 情けなくて嫌になる。あの頃から何も変わっていない。弱くて何もできない、役立たずな足手纏いのまま。

 どんなに剣の練習をしたって、本番で使えなければ意味がない。自警団なんてかっこつけても、戦えなければごっこ遊びだ。

 私はずっとフリをしていただけ。村の皆を守る英雄のフリを。

 私は弱い。村の誰よりも、私が一番弱いんだ。


 玄関の扉が開く音が聞こえ、急いで玄関へと向かった。

 「お帰りなさい、お父様!」

 仕事から帰ってきた父に、私は勢いよく飛びついた。

 「今日もお仕事お疲れ様」

 「ただいま、スファラ」

 お父様は私を受け止め、優しく抱きしめてくれる。そんな絶対的な安心感から、疲れていると分かっていても飛びつくのを止められなかった。後ろでお母様が、はしたないわよと言いながら笑っている。

 「さあ、ご飯にしましょう」

 お母様が用意していた料理を運ぶために、キッチンへ向かった。

 お父様は私を抱きしめる腕を解き、代わりに手を握ってくれる。

 私たちは並んでリビングに向かった。

 「スファラも勉強、頑張っているそうじゃないか」

 お母さんに聞いたのだろうか。いつも朝早く出かけ、夜遅くに帰って来るお父様は、私が勉強している姿を見たことは無いはずだ。それでも私が一生懸命に勉強するのは、いつかお父様にも私の頑張りを見せたいからだ。

 「うん!私も大きくなったら、お父様のような立派な神官になるの」

 お父様が嬉しそうに笑う。私はお父様の笑った顔が大好きだった。

 「そうか、そうか。頑張り屋のスファラは、きっとお父さんより立派な神官になれるよ」

 お父様は、私が神官を目指すことを凄く喜んでくれた。

 お父様と同じ神官になれたら、お父様と一緒に働くことができる。そうすれば私が頑張っている姿を、お父様に見てもらうことができるのだ。

 大好きなお父様の背中を一番近くで見ることが、いつかその背中を支えることが、私の夢だった。

 「私、頑張るね」

 「頑張り過ぎて倒れないようにな。たまには息抜きも必要だよ」

 優しいお父様の口癖だ。

 「はい、お父様」

 ーーこの頃の私は幸せだった。夢に向かってひたすら前を向いていたあの時は、その影の大きさに気づかずにいられたから。やがて訪れる非情な現実に立ち向かう術も知らないまま、あの頃の私は夢の中を走り続けていた。

 

 明確にいつからというものは無かった。でも、どうしてかということだけは、はっきりと分かっていた。妹が生まれたからだ。

 生まれた時から私と妹には差があり、何を取っても私より妹の方が優れていた。

 まずは髪の色。私のくすんだ色と違い、妹は綺麗な橙色だった。髪の色が明るいほど神様の加護を受けているのだから、妹の方が私より神様に愛されているのは一目瞭然だ。

 それに加えて瞳の色は、神子様と殆ど同じと言っていいほど美しい輝きを放っている。生まれ持った色を今更変えることなんてできない。

 この時点で、私は妹に負けていた。それでも、今までの努力が消えてなくなるわけではない。そう思って今まで通り勉強を続けてきた。

 神官になればお父様に喜んでもらえる。たとえ妹ほど神様に愛されていなかったとしても、お父様に愛してもらえればいいのだ。お父様が褒めてくれれは、それ以上嬉しいことなんて無いのだから。

 それなのに……。妹が生まれてから一年、また一年と時が経つにつれて、お父様は私を見なくなっていった。

 いつしか、私など居ないかのように、私の声に耳を傾けてくれなくなった。お帰りなさいも、ただいまも言えないようになってしまった。

 玄関の扉が開く音がして、自然と体が反応する。お出迎えをしなくてはと思い椅子から立ち上がったが、でもお父様は……と躊躇し立ち止まってしまう。

 そんな私の横を妹が駆け抜けて、お父様に飛びついた。幼い頃の自分と全く同じことをする妹の姿に、懐かしさを感た。思い出に浸り微笑む私の横を、お父様は何も言わずに通り過ぎた。

 廊下に立ち尽くす私の後ろで、楽しそうな家族の会話が聞こえる。

 あのね、お父さんーー。クラエは偉いな。お父さんの自慢の娘だ。私ね、大きくなったらお父様のような立派な神官になるんだ。クラエなら絶対になれるさ。だってクラエは神様に愛されているのだから。

 結局、私は神官になれなかった。頑張ることを止めたからかもしれないし、もともと才能が無かったのかもしれない。

 神様だけじゃなく、家族にも愛されなくなった虚しさが、私から希望を奪っていった。私はずっと、私を置き去りにして幸せそうに笑うあの家から、逃げ出したかった。


 エストボールへ来たのも適当な理由だった。

 東の果てに人が住める場所があると聞いた教会が、調査員を募っていたところに応募したら選ばれた。それだけ。

 今まで無駄に努力してきた甲斐あってか、多少の戦闘ができることを買われたようだった。

 出立の日、初めて共に旅をする人たちと顔を合わせた。教会からの仕事のはずなのに、調査団の中に教会の人間は一人もいない。

 少し不自然だと思ったが、深く考えるのはやめた。あの家から逃げられるのなら、あとは何だってよかった。

 国の門を潜る時に一度だけ振り返る。もしかしたら、誰かが見送りに来てくれているかもしれないと思ったからだ。門の端から端までゆっくりと見渡したが、期待するようなことなど何も起こらなかった。

 街にはいつも通りの時が流れ、門の近くにいる人が数人、大した興味も無さそうに私たちを見ている。

 教会の人ぐらい見送りに来るのかと思ったが、数刻前の大雑把な説明をしたまま帰ってしまったのだろう。

 何となく門の前で立ち止まっていると、門兵が催促するように睨んできた。

 私達はそのまま追い出されるようにして出国し、あるかもわからない地を探して、東の果てへと旅立った。


 道中で遭遇した異形は小型のものが殆どだった。たまに大人ほどの中型のものもいたが、数が少なかったため何とか倒すことができた。

 きっと、ヴォルガンがいたからだ。彼は強いだけじゃなく、優しさも持ち合わせている。その上リーダーの才能もあり、仲間をまとめるのが上手だった。

 私達は一月ほど彷徨い、ようやく目的地にたどり着く。

 情報通り人が住める場所だったが、不思議な空気に満ちていた。

 村人に話しを聞けば、この場所には異形が近づけない何かがあると言われ、調査を始めた。その結果、一本だけ立っている大木の影響だと分かり驚いた。

 実際に見たことは無いが、話に聞いた神聖樹を思い出す。教会の中心にそびえる神聖樹と同じものなのだろうか。神聖樹には魔を浄化する力があると伝えられている。もしも同じものなら、新しい安息地になるかもしれない。

 私達はここに村を作ることにした。

 もともとは町だったのか、砂まみれだが家がいくつも建ち並んでいた。その多くは補修が必要だったため、もとから住んでいた人たちと一緒に村を整備することにした。

 神聖樹を中心に村を起こし、それからは貧しいながらも、みんなで幸せに暮らしてきた。


 でも異形がいなければ、もっと幸せだったかもしれない。

 世界がこんな風にならなければ、私の髪の色と目の色が、神に愛されていないなんて評価すら、無かったかも知れないのに。

 しかし、それでも妹は生まれてくる。その時、結局私は私のままなんだろう。どうしたって出来損ないの役立たずで、それは何がどうなろうと変わらない。

 ーーほら今だって、自分が助けたいって言ったくせに、何にもしないで突っ立てるだけ。

 自分じゃ何にもできないから、代わりに強い人を連れてきたんだ。

 彼が勝てばいい。彼が勝てば、連れてきた私も皆を助けたことになる。

 別に自分が戦わなくたって、皆が助かればいいんだから。

 そうよ、彼が何とかしてくれる。だって彼は、あの皇族の生き残りなんだから。異形と同じ力を使う、化け物なんだから。

 見てよ。自分の何十倍もの大きさの鎌を剣で防ぐなんて、あんなの同じ人間じゃない。

 私は人間なのよ。化け物みたいに戦える訳が無いじゃない。

 あなたは勝てるでしょ?私の代わりに異形を倒してくれるでしょ?そうすれば私は、皆を助けた英雄の一人になれるんだから。

 リュトの髪が空に舞った。

 ーーこのままじゃ負ける。そんなのダメ。そしたら私は……。


 「君自身が戦わないと、本当の英雄にはなれないよ」

 「え?」

 どこからか声がした。頭に響くその声に、暖かな気持ちになる。

 「君が本当の英雄になりたいのなら強く願いなさい」

 「私は……」

 英雄になりたいのかといざ問われれば、すぐに頷くことができなかった。それでも力は欲しい。今はそれで十分だ。

 「私は大切な人を守る力が欲しいの」

 「あの子もそれを願っている。いいよ。君に力をあげよう」

 視界が光に覆われ、その眩しさに堪らず目を閉じた。胸の内に温かいものが宿り、全身へと行き渡っていく。

 ゆっくりと瞼を開けた後は、もう迷いも恐怖も感じてはいなかった。臆すことなくまっすぐと異形に剣を構えれば、刀身が白く光っているのが横目に見えた。

 先ほどまで腐っていた心が、煌く光に浄化されていく。

 ーー私が皆を守るんだ。

 驚くほど体が軽い。たった一度の踏み込みで普段の4,5歩の距離を進んでいた。異形の背はもう目と鼻の先。

 私はできるだけ強く地を蹴り跳躍した。まるで羽でも生えたかのように高く飛んだ体が、今度は重力に従って降下を始める。落下速度はそれなりにあるだろうが、今の私にはそれがとてもゆっくりに感じる。

 狙いを研ぎ澄まし、先のリュトの戦闘で見たように、尾のくびれに向かって刃を振り下ろした。硬質な感触と尾が切れる感触とが、同時に伝わってきた。

 地に足を着いた時の反動は、周りの砂の舞い上がる勢いと比べ思いのほか少ない。

 そんなことを冷静に考えていると、時間差で切った尾が地に落ちた。異形が体を上向きに反らせ叫び声を上げる。

 その間際、足の隙間の向こう側に、異形と正面で対峙するリュトと目が合った。

 「この尻尾、意外と簡単に切れるものね」

 私は得意げにそう言った。

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