九話 やめて、私に関わらないで

「アンスリア、あの時君が傍にいてくれたから今の僕がある。意気地のない本当の僕を知っているのは、君だけなんだ」


 遠い過去の思い出を嬉々と話すジュリアン様。私にとっても良い思い出だった。

 だったのに……。あの人達が、漆黒の悪夢に染めた。


「確かに僕達は親が決めた政略結婚だったのかもしれない。でも僕は、本気で君を愛しているんだ。あの時から、今でも、ずっと」


 ジュリアン様のお気持ちは、以前からひしひしと伝わってきていた。たとえ私が、悪役令嬢と呼ばれていても。


「ジュリアン様、こんな私には勿体ないお言葉です。そんな貴方様を傷つけるような発言をしてしまい、心よりお詫び申し上げます」


「いや、いいんだ。僕の方こそ、君の事を何も知らないくせに。本当にごめん。許してもらえるかい?」


 そう言って身を乗り出したジュリアン様は、長机に置かれた私の手を取り、優しく握る。決して壊してしまわないよう、両手でそっと。

 まさかこんな展開になるとは思いもしなかった。長い月日を経て、彼の中で何があったのかはわからない。

 でも、卒業パーティーの日に私の命の灯は消える。そんな事はわかっている。わかってはいるけれど、それまでの間だけでも、婚約者のままでいよう。

 でも、もしも私が断罪されなかったら? 死を迎えなかったら? 私は、ジュリアン様と結婚するのだろうか。

 いいえ、今はまだ、先の事を考えるのはやめよう。


「許すだなんてとんでもございません。ジュリアン様のご迷惑でなければ、以前に申し上げたあのお言葉、撤回させてください」


 もしかしたら、ここで縁談を断ち切っていたのなら、運命は変わっていたのかもしれない。一瞬、そんな事を考えてしまった。けれど今の彼の顔を見てしまっては、言えるはずがない。

 凛々しくも優しい顔なんて忘れて、こんなにも不安そうな一人の男の子の顔をしているんだもの。


「そうか。安心したよ、アンスリア。君との婚約、僕は今でも……」


 ガチャ!


「ジュリアン様! やっと見つけましたよ! もう! どうして今日は執務室にいなかったんですか!? せっかく今日もお弁当を作ってきたのに!」


 全ての時が制止したかと思うほど、私の時間は止まってしまった。突然開かれた扉から現れたのは、アメリナだったから。

 私がいるにも関わらずジュリアン様の隣に腰掛け、ぴたりと身を寄せる。


「あっ、お姉様もいらしてたのね! 本当に偶然です!実は今日、いつもよりお弁当を作りすぎちゃってて! 良かったら、ご一緒にどうですか!?」


 そう言いながら編みかごから取り出したのは、明らかに二人分ではない量の料理だった。


「ねえ、ジュリアン様! これからは執務室ではなく、応接室こちらで食べませんか!? ここならゆっくり食べられそうですし!」


 そう。そういう事だったのね。七回目の転生の時も、あの時もそうだったんだ。

 私ではなく、アメリナと一緒に……。


「アメリナ、ごめんなさいね。昼食は先に済ませてしまったの」

(嘘。昼食なんて食べていないわ)


「あなたはゆっくりしていなさい。ただ、夕食の分も食べてしまわないようにね。でないと料理長が悲しむわよ」

(貴女が夕食の席にいないとレオニード公爵に何を言われるか、わかったものではないからね)


「はい、お姉様! またお弁当を作りますから、その時は私の料理の感想を聞かせてくださいね!」


「ええ、そうするわ」


 そう言いながら、静かに席を立つ。


「ジュリアン様、本日は貴重なお時間を頂き、誠に感謝致しますわ」


 両手を腹部に添え、お辞儀をする。すぐに背を向けて、扉へと向かう。何かを言いたげなジュリアン様の顔を、私の瞳に映させない為に。


「アンスリア、待ってくれ!」


「申し訳ございません。今日のところはこれにて失礼致します」


 応接室を後にし、足早に廊下を突き進む。その足並みを崩すように心臓が胸を叩き、激しく鼓動する。

 こうなる事はわかっていた。何度も見てきた。それなのに、どうしてこんなに苦しいの? 婚約者を取られたからではない。アメリナと会っていた事を秘密にされていたからでもない。

 真実を知ってしまったからだ。

 あの時の私は、裏切られていたのね。本当に、助けを求めていたのに。


「アンスリア!」


 今は誰もいないはずの放課後。聞こえるはずのない声が私を呼ぶ。それでも私の足は止まらない。


「待って、待ってくれ!」


 ぐっと肩を掴まれ、振り返った。私を引き留めたのは、やはりジュリアン様だった。本当に急いでいたんだと思う。息を切らして、御髪も乱して。


「聞いてくれ、アメリナ嬢とは何でもないんだ」


「いえ、何も気にしておりませんわ」


 淡々と返事を返す。


「そうじゃない! 実は、君の相談を持ちかけられていたんだ。最近君の様子がおかしい。そう言われて、断れなかったんだ」


 そう。そうなのね。

 ジュリアン様はお優しい方だから、基本的には断れない性格。ましてや私の妹が訪ねてきたのなら、まず蔑ろにはしない。


「アメリナは普段明るく見せているが、それも君の為にしているんだよ。少しでも笑ってもらえるように」


 そう。あの子がそんな事を。


「どうしたら父君のレオニード公爵と君が仲直りできるのか、本当に悩んでいたよ」


 それは無理な話ね。あの人との関係は、もう修復不可能だわ。何より、あの人が私を拒絶しているのだから。


「レオニード公爵の事を、もう許してあげてほしい。君を心配しての事だったんだよ」


「……えっ?」


 思わず顔を上げ、ジュリアン様を見つめる。彼が何を言っているのか、わからない。許す? 何を? 今までの事全てを、許せという事?


「僕の誕生パーティーの日の夜、君はレオニード公爵に手を上げられたんだってね。あれからずっと後悔しているそうなんだ。たった一度の、過ちを」


 たった……一度?

 もしそれが手を上げた事を指しているのなら、そんなの出鱈目だわ。一度や二度じゃない。口の中が切れるほど殴られた事もある。三日三晩、納屋に押し込まれた事だって。

 何か、何かがおかしい。辻褄が合わない。


「アンスリア、三年前からの君は特に変わってしまった。意に沿わない生徒を虐げ、出来の悪い使用人には大勢の前で糾弾して……」


 ……よくわかったわ。

 ジュリアン様は何も変わらない。何度やり直してみても、ジュリアン・ザイール・レムリアという人物は同じなんだ。

 自分自身が見ても聞いてもいない事を信じ、他人の言葉を疑わず、ただ鵜呑みにするだけの愚鈍な御方。


「……離してください」


「アンスリア、僕の声は、君には届かないのか?」


 届くも何も、貴方様の中にいる悪役令嬢の私は、ここにいる私ではないから。

 だって本当の私は、何もしていないのだから。


「……少し独りになりたいんです。ジュリアン様のお気持ちを、忘れない為に」


 そう。忘れない為に。


「そうか。なら正門まで送ろう。なんだか心配だからね」


 どこまでもお優しいジュリアン様。でもごめんなさい。今の私には、とても不快なものでしかないの。

 願わくば、今すぐ貴方様から離れたい。


「大変お待たせ致しました。アンスリアお嬢様」


 それはまるで、私の願いが具現化されたような存在だった。

 都合よく私の名を呼び、予知していたように私の荷物を手に持って。何よりも私を安心させてくれた理由は、そこに現れたのがリヒトだったから。


「ジュリアン王太子殿下、お初にお目にかかります。ヴェロニカ公爵家の執事、リヒト・アニエルと申します」


 左手を胸に添え、軽く頭を下げるリヒト。


「……以後、お見知りおきを」


 怒気を込めてそう言うリヒトは、深紅の瞳でジュリアン様を睨む。


「……わかった。アンスリアは君に任せるとしよう」


「はい、お任せください。王太子殿下」


 今度は打って変わり、爽やかな笑顔を見せるリヒト。見る度に表情が変わるだなんて、世話しない顔ね。


「さあ、アンスリアお嬢様、参りましょう」


「ええ、しっかり頼むわね」


 帰り際、夕暮れの陽光が廊下を照らす。茜色に染まったこの廊下は、いつもとは違う通路に感じた。


「リヒト、アメリナを待たなくて良いのかしら?」


「はい、どうでも良いです。本日はアンスリア様の専任をと、仰せつかっておりますので」


「そう。なら遠慮はいらないわね。少し散策に付き合ってちょうだい。久々に家まで歩いて帰りたい気分なの」


「ぎょっ!? 御意のままに……」


「大丈夫、ほんの三時間だけよ」


 今までの私の物語には、リヒトという人物は登場しなかった。

 味方か敵か、今はまだわからない。今はまだ、信じる事ができない。それでも私は、気持ちが楽だった。

 だって、すでに登場している人物達は、敵ばかりだから。

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