第4話 「まだ見ぬ世界への憧憬」
帰宅するなり、リビングからキッチンにかけての惨状を見て、盛大に溜息をいた。
いつものこととは言え、学校での一件もあって、今日は一段と気が滅入ってしまう。
たった一晩で山のように溜まった洗い物を片付け、床に脱ぎ捨てた服を洗濯し、綺麗に片付けたのは今朝のこと。
なのに、半日で元通りの散らかり様である。
「何溜息なんかついてんの? 帰ってくるなり、嫌な女だねぇ」
そう言ったのは、リビングのソファに肥満体を投げ出してテレビを見ている裕実だ。
その周囲にはスープだけ残ったカップラーメンの容器や空のペットボトル、それに丸めたティッシュが散乱している。
裕実は、私の養母こと倫香の妹で、この近くでカフェを営んでいる。
まぁ、そのカフェはリニューアル中と称して三年前から休業中だけど。
「嫌な女、嫌な女」
「嫌な女、嫌な女」
ケラケラと笑いながら、双子の雪菜と優菜が叔母の言葉を反芻する。
この姉妹は私の二つ年下の従姉妹で、本来なら中学生だけど、去年のゴールデンウィーク以降は一日も学校に行っていない。
彼女たちには四つ年上……つまり、私より二つ上の兄がいるけれど、彼はお金をせびる時以外は殆ど帰宅せずに友達の家を渡り歩いている。
「なにー? また美夜が帰ってくるなりブー垂れてんの?」
そうこうしている内に、養母の倫香がリビングへと入って来た。
裕実ほどじゃないとは言え、彼女もまただらしなさが滲み出た体型をしていて、根元だけ黒い痛んだ金髪がその印象に拍車をかける。
「何か文句あんの? あんた、偉そうに言える立場じゃないってわかってる?」
「そうよそうよ、高い金出して私立行かせてもらった癖に入試の成績だって最悪だったし」
「最悪だったし」
「最悪だったし」
(最悪って、四百人中四位ですけどね)
女四人の容赦のない口撃に、私は内心でそう呟いた。
口下手な私が、口だけは達者なこの四人とまともに口論して勝てるわけがない。
稚拙な悪口など全て聞き流すに限る。
身体と肌が弱いために家事を一切しない専業主婦の倫香を筆頭に、この家には四人の女たちがほぼ一日中家にいる。
そして、彼女たちは部屋を散らかすことに何の躊躇いもない。
だから、私が学校に行っている間に家中が荒れ放題になるのはいつものこと。
「……」
私は再び嘆息した。
理不尽なことだらけの毎日だけど、だからって嘆いていても仕方がない。
私が片付けない限りは家は綺麗にならないし、夕食も食べられない。
だから、私は私のために今日も夕食の支度に取り掛かる。
言う間でもなく、倫香は私のことが嫌いだ。
その理由は、彼女が富裕層や高学歴の人間を嫌うことと無関係じゃない筈だ。
お世辞にも裕福とは言えない家庭の十一人兄弟の長女として生まれた倫香は、他の兄弟と同様に、義務教育までしか出ていない。
本来なら、隆俊伯父と結婚できる立場じゃなかったのだけど……まぁ、妊娠した女というのは最強だ。
まだ年若く、しかも箱入りお坊ちゃんだった伯父は、まんまと倫香の策にはめられたというわけ。
子供の頃の私にはよくわからなかったけど、世間体を守るために祖父母は自分の息子と倫香との結婚に承諾した……というより、そうせざるを得なかったのだと思う。
そして、倫香の言葉の端々からは、お嬢様育ちの母への嘲笑が覗える。
母の娘で、しかも美人で頭もいい私に対して、彼女が高圧的な態度に出るのは必然と言える。
自分より優れた者が、自分より不利な立場にいれば、虐げたくなるのも無理からぬ話だ。
夕食の片付けを終えた後、帰宅が遅い伯父の分の夕食を用意する。
入浴を済ませて、学校で習ったことの復習と明日以降の予習、それに英会話の勉強をするのが私の日課。
私の祖母はある大企業の創立者で、祖父はその片腕でもあった。
二人が事故で急逝した後、何の心の準備がないままに伯父が継いでからは業績が停滞気味のようだ。
伯父は私が早く一人前になって経営を手伝うことを期待している。
英会話の勉強をするのも、そのための準備の内だ。
二時間ほど勉強したところで、小休止を入れようと、クローゼットに隠しておいた本を取り出す。
自室に本棚もあるのだけど、そこには比較的無難な本しか並べていない。
クローゼットから取り出した本は、祖父の蔵書の一冊で、ポーランド地方の神話や伝承について書いたものだ。
私は幼い頃から、各国の神話に関心を持っている。
ギリシャ神話やケルト神話と言った有名どころに関する書物は、もう何冊読んだかわからない。
元々は、とある目的から興味を持った分野で、その目的こそ果たせていないものの、いつしか様々な神話を収集すること自体を楽しむようになっていた。
とは言え、当初の目的を忘れたわけではない。
そう、自分のルーツを見つけるという目的を。
「……ブラギルフィア」
文字の羅列を目で追いながら、半ば無意識に呟いていた。
ブラギルフィア。
それは、幼い頃に母から聞いた国名だ。
(いつか必ず一緒に帰りましょうね、ブラギルフィアに)
そう告げた母の屈託ない笑顔は今でも忘れられない。
「……」
広げた本に視線を落としながら、いつしか私の意識は遠い記憶へと向いていた。
我へと返ったのは、自分を呼ぶ声が聞こえたから。
「美夜、まだ起きてるか? 開けてもいいか?」
返答を待つことなくドアが開き、伯父が顔を覗かせる。
「ええ、まだ起きているわ」
(質問の体を取るなら、せめて返事ぐらい待てないのかしら)
内心で嘆息しながら、読んでいた本を参考書の下に隠して立ち上がる。
「どうしたの?」
「いや、入学してからあまり話す機会がなかったからな。高校生活はどうだ?」
「順調よ」
(どうだ、という聞き方じゃあまりにも漠然としすぎているわ)
「そうか」
伯父は頷きながらも、渋い表情だ。
これは、彼が何か言いたいことがある時の顔で、そしてその内容は私にとってはいいものではない。
半ば諦観しながら続く言葉を待つ。
「勉強、ついて行けてるか?」
「……まだ始まったばかりだけど、今のところ問題ないわ」
「今のところ、だけじゃ困るんだ。お前、本当に大丈夫か?」
「大丈夫よ、伯父さん」
(大丈夫じゃない、そう言ったらどうするの?)
不安そうなその顔は、決して私を案じてのものではない。
私が入学した学校は有名な進学校だ。
そこに、四位という成績で入学した私……姪のことを、彼が誇りを持って他人に話しているのを何度か聞いた。
それを聞いた者は彼の姪への愛情を感じ、妹の子をよくぞここまで育てたと彼を賞賛する。
今まで育ててやったからこそ、伯父には私が他人に誇れる存在でいてくれなければ困るのだ。
実際、私が主席になれなかったことで彼は大いに落胆した。
当然ながら、四位よりは一位のほうが断然良い。
「受験が終わったからって、絶対に気を抜くなよ。勉強してるんだろうな?」
「ええ、今もしていたわ」
「わかってるとは思うが、お前の本業は勉強だ。家事に時間を費やすのは程々にしておけ」
「その通りだわ」
(でも、それじゃあ誰がご飯作ったり洗濯や掃除をするの?)
使用人に囲まれて育った伯父は、今まで家事をしたことがない。
そのため、家事など取るに足らないと思っている節がある。
彼にとって、家の中が整然と片付いていることも洗い立てのシーツで寝ることも「当たり前」のことであり、そこに労力が発生するなど考えたこともないのだ。
祖父母が健在だった頃に比べると収入が減っているとは言え、今でも使用人の一人ないし二人を雇うぐらいの余裕はある。
伯父に使用人の雇用を打診してみたことがあったけれど、「お金がもったいない」という倫香の趣旨により棄却された。
気の弱い伯父は、倫香には適わない。
結果、私は伯父夫婦の養女兼家事手伝いという立場にいる。
「いいか、美夜。お前だけが頼りなんだ。早く一人前になって、俺を安心させてくれ」
「はい」
(でないと、私を引き取って育てた意味がなくなってしまうものね?)
「お前、今年でいくつになった?」
「十五よ」
「そう、もう十五歳だ。いつまでも子供じゃない」
「自覚しているわ」
「勉強が本業とは言ったが、学校で習うことだけが吸収すればいいってわけじゃないからな? わかってるだろうな?」
「もちろんよ。大学を卒業してすぐ伯父さんの力になれるよう、会社の経営のことももっと勉強するわ」
曖昧な言葉を一切使うことなく、私は即答し続ける。
「……なら、いい。本当に頼むぞ。そうだ、最近は倫香たちとは上手く行ってるのか?」
「上手くいっているわ」
(反論することなく聞き流しているわよ。私の胃袋にストレスで穴が空きそうなこと以外は、特に問題ないわ)
「お前、昔はよく倫香たちに何か言われて泣き喚いたろ? あんなの時間の無駄だからな、何言われても気にせず自分のやることだけやれよ」
「わかっているわ」
言いたいことだけ言って得心したのか、伯父は部屋から出て行った。
彼の気配が完全に遠ざかった後、私は詰めていた息を吐き出した。
伯父は表向きは大らかでお人好しだけど、身内に対しては良くも悪くも正直な人なのだと思う。
祖父母亡き今、愚痴や不安を吐露できる相手が私しかいないからこそ、ああいう態度を取るのだろう。
私を養ってくれてはいるけれど、本当の意味では頼りにできない存在だ。
否、伯父だけじゃない。
学校の先生も、児童相談所も、誰一人として頼れないことぐらい、実経験を通して理解している。
広義の意味では、私は伯父夫婦から心理的虐待を受けていることになるのだろう。
でも、だからってそれを誰かに訴えて何になる?
誇張でもいじけているわけでもなく、この世界に私の味方は一人もいない。
そして、私はその事実を嘆くほど弱くはない。
幸いにして、倫香たちと違って私には明晰な頭脳も美貌もあるし、少なくとも伯父は私に然るべき教育を受けさせてくれている。
私は更なる自己研鑽に励み、三年後にはこの国の最高の大学に入学し、立派な学歴をかざして祖母が創立した会社に入社する。
そして、いずれは伯父から社長の座から奪い取り、私がその地位も財産も全て手に入れるのだ。
……でも、そんな野心に燃える一方で、まだ見ぬブラギルフィアへの望郷にも似た想いに駆られる自分も否定はできずにいた。
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