第2話 「とくべつな、おくりもの」
……時は前日の朝へと遡る。
朝の陽射しを浴びながら、ひらりひらりと桜の花びらが目の前を舞い落ちていく。
校門付近に植えられた桜は、満開から半月以上が経過した今、花より葉のほうが目立つ。
葉に埋もれるようにして僅かに残った花が顔を覗かせるその様は、まるで遠目に見た時の山間に咲いた桜のようだ。
(ああ、今年も終わってしまうのね)
感傷を覚えた私は、葉桜を見上げながら胸中で小さく呟いた。
記憶の中の母は、まるで妖精か何かのように、儚くも美しい。
春の庭の木漏れ日の中で、か細く美しい声で歌っている姿が今も目に焼き付いて離れない。
あれは確か、私が小学校に入学する年の春だった筈だ。
客人……母の主治医が来たから、本人を呼んでくるようにと祖母から言われて探しに行った時だっただろうか。当時住んでいた家は広々とした日本家屋で、まさしく「探す」という表現が適切だった。
庭の一角で母を見つけた私は、母の姿から……正確には彼女がいる光景から目を離すことができなくなった。
満開の桜が咲き乱れる中、木漏れを浴びながら歌う母と、その歌に聞き入る観客たち。
庭に見知らぬ者がいるということ自体、本来なら由々しき状況だけれど、私はごく自然になこととして受け入れていた。
庭石に腰を掛け、目を閉じて母の歌声に耳を傾ける少女は、古めかしい印象の赤い着物を纏っている。その髪はとても長く、座った状態では地面に着くほどだ。
お祭りの時に着る袢纏を着た猫が、まるで人間のように行儀良く椅子に腰を掛けている。
それに、桜の枝葉には、ピーターパンに登場するティンカーベルのような小さな妖精たちがいて、頬杖を着きながら歌に聞き入ったり、あるいは手を取り合って踊る姿が見える。
当時の私の胴体ほどもある太さの、白銀色をした大蛇もいる。
ここに集まった観客には、一人として「普通の人」がいない。
私もまた、立ち竦んだまま、魅入られたように母が紡ぐ歌に聞き入ってしまう。
この時の私にとって、春の心地に包まれた庭の片隅が世界の全てだった。
そして、歌い終わった母は、私に「観客」の詳細について聞きたがった。
……私には、どうやら他の人の目には見えないものが視える、らしい。
この頃には、子供心ながらに理解していた。
祖父母を初めとした大人、あるいは友達にそれらのことを話すと叱られたり変な顔をされてしまう。
でも、母だけは違った。
「美夜ちゃんのその力はね、神様がくれた特別な贈り物よ。心ない人に何を言われても、美夜ちゃんはその贈り物を決して否定してはいけないわ。大切にしなさいね」
「とくべつな、おくりもの」
この時、母の言葉の意味を正確に理解できたわけではなかった。
それでも、その言葉を反芻すると胸が温かくなるような気がした。
桜の季節が来る度に、幼い頃に亡くした母のことを強く思い出すのは毎年のことだけど、最近は殊更感傷的な気分になってしまう。
憂鬱な気分を無理矢理追い払い、上履きに履き替えて教室へと向かう。
教室に入るなり足を止めたのは、私の机に座る少女の姿を見つけたから。
俯き加減で座るその子の横顔は、肩より少し長い髪が覆われていて、そのせいで一見しただけでは誰なのかわからない。
でも、彼女の目的は明らかに私への嫌がらせだ。
一瞬の逡巡の後、私は覚悟を決めて自分の席へと歩み寄る。
「おはよう」
朗らかに声をかけたつもりだけれど、彼女は何の反応も見せない。
私は机の横に鞄を掛けながら、言葉を続ける。
「悪いけれど、席を空けてもらってもいいかしら?」
刺々しくならないよう気を付けながら、そう依頼するも、やはり彼女は俯いたまま。
まさかここまで無視を決め込むとは。
さて、どうしたものか。
「ねぇ、ちょっと……」
躊躇いつつも彼女の肩に手を置いた瞬間、その部分が崩れたて、思わず小さく叫んだ。
驚く私の目の前で、彼女の肩口から先は完全に身体から離れ、土でできていたみたいにボロボロになっていく。
ゆっくり顔を上げた彼女と目が合った瞬間、私は反射的に後退っていた。
がたん!
「ちょっと!」
硬質な音、そしてそれに続くように抗議の声が聞こえた。
振り返ると、机に座った少女が迷惑そうに私を見上げている。
どうやら私は、彼女の机にぶつかったみたい。
「やめてよ。何してんの?」
「ご、ごめんなさい」
謝罪してから自分の机へと視線を戻すと、先ほどまでそこにいた彼女の姿は既になかった。
もちろん、崩れた肉体の一部が落ちているなんてこともない。
ここに至り、私はようやく合点がいった。あれは人間じゃない。
少なくとも、生きた人間ではありえない。
私は俗に言うところの「視える人」だ。
昔から他の人には見えないものを視てしまうことがあった。しかも、成長するにつれてその精度が増していく気さえする。
私は内心で嘆息して、何事もなかったかのような態度で自分の席へと腰を下ろした。
でも、私がいくらそう振る舞ったところで、周りがそれに同調してくれるかどうかは全く別の話。
授業の準備をしている間も、自分に向けられた無数の目とヒソヒソ声を嫌というほど感じる。
中心となるのはバンビ一味である。
バンビはクラスの中心的存在の女子で、本名は忘れたけれど、その愛称で呼ばれている。
そして、私は入学早々にバンビから目を付けられてしまった。
となれば、彼女の作り出す空気に他の子たちが従うのは必然である。
「……何あれ、やばくね?」
「一人で喋ってたよね?」
「自分にしか見えないお友達ってやつ?」
私は誰にも気付かれないよう、深呼吸して心を落ち着かせる。
あんな雑音、何でもない。
私がするべきことは、今日も真面目に授業を受けて新たな知識を吸収し、次の試験でより良い成績を取ることだ。
そう、全ては輝かしい将来のために。
私は綺麗で頭も良いし、それに努力を怠らない。
凡百な人間の陰口など、これっぽっちも気にならない。
言いたい者には好きに言わせておけばいい。
自分に言い聞かせている内に、落ち着いてきた……かに思えたその時だ。
「あいつの親父、レイプ犯なんでしょ?」
「そうだよ。それで母親も頭おかしくなったって」
「うわー、親子揃ってサイコパスとかやばすぎじゃん! こっわ!」
それほど大きな声ではなかったにも関わらず、いやにはっきりと聞こえてしまった。
私は考える前に席から立ち上がっていた。
迷わず振り向いた先には、やはりバンビ一味がいる。
隅っこのほうに、クラス内で唯一顔とフルネームが一致する鈴木サヤカの姿も見えた。
でも、あの言葉を発したのが誰なのかはわからない。
私のこの反応は想定外だったか、彼女たちは身を寄せ合いながら私を見返す。
その顔からは、いつものようなニヤニヤ笑いは消えている。
そのままバンビ一味へと数歩近付くと、彼女たちはますますお互いの身体をくっつけて、おどおどした目で私を見ている。
「何?
「今の話だけど」
リーダー格のバンビが、私への対応に出る。
「もしかして私のことなの?」
取り巻きの顔に、動揺が浮かぶ。決まり悪そうに目を逸らす者も何人かいる。
でも、やはり群れのリーダーであるバンビは別格だった。
「は? 何それ? ごめん、意味不明なんだけど」
先ほどまで、私に対して少しばかりたじろいだかに見えたバンビだけど、既にいつもの調子を取り戻している。
くるり、と取り巻きを振り返った。
「うちら、皇さんのことなんか話してないよね?」
「うん、全然話してない」
「話してないよ?」
「なんで自分のこと言われてるって思ったんかな?」
「いや、そういう人って結構いるよ」
「いるいる」
「あーしが中三の時のクラスにもいたよ! 別のその人のことなんか何も言ってないのに、『悪口言われた!』って大騒ぎする人!」
「思い込み激しくて被害妄想癖ある人って確かにいるよねー」
彼女たちは自分が一人ではないことを思い出したのか、途端に口々に話し始めた。
こういうところが、バンビのリーダーたる所以なのだろう。
彼女は群れの皆を上手に操っている。
今度は、私が決まり悪さに顔が赤くなる番だ。
ああ、もう、私の馬鹿。あんな切り出し方をしたところで、こうなることはわかっていたのに。
「そう? ごめんなさい、早合点だったみたい」
せめてもの反撃のつもりで、綺麗な笑顔でそう言った。
せいぜい、私の美貌に妬み狂うがいい。
嘲笑と陰口を背中に受けながら、私は席へと戻る。
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