一日目:月曜日

月曜日1

「桜咲ちゃーん? おーい。桜咲ちゃーん」


 優しく体を揺さ振られながら若くも大人な女性の声が自分の名前を呼んでいる。

 その声にさっきの重さが嘘のように軽くなった瞼を上げてみると、そこには看護師の菜月さんが立っていた。長い髪を後ろでまとめた、綺麗だけどどちらかと言えば可愛い系の女性。私より上って言うのは当たり前だけど、若い看護師さんだ。


「そんなに寝ちゃうと夜眠れなくなっちゃうよ」


 いつもの愛らしい笑みを見せた菜月さんはカーテンを閉めに窓際へと歩き出す。

 さっきのあれは何だったのだろうか? 本当にただの夢だったのだろうか? あれを再現するような光景が視界に広がり、私の脳裏へそんな疑問が浮かんでは消えてゆく。


「おーい。大丈夫?」


 そんな事を考えているとついぼーっとしてしまっていたらしく、カーテンを閉め終えた菜月さんは首を傾げ私の眼前で手を振りながらそう訊いてきた。


「えっ? あぁ……はい。大丈夫です」

「なら、良かった。もう少しで夕食だからね」


 その言葉を残して菜月さんは病室を後にした。

 結局、その日はいつも通りの夜を過ごした。やっぱりあれはただの夢だったらしい。そして意外にも夜はちゃんと眠れて、私はいつも通りに目覚めた。目覚めも良く冬の澄んだ空気のようにスッキリとした気持ち。それだけで今日一日を得したような気分だ。

 でもその事に嬉々とするより先に、窓際に立つその人影へと自然に意識は引き寄せられた。


「おはようございます」


 人影はそう聞き覚えのある声で挨拶をすると、カーテンを開け朝日を病室へと招き入れた。その陽光に照らされたのは、ハット帽にスリーピーススーツを身につけた男性。

 男性は少しだけ光を正面から浴びると傍にあった椅子へと腰を下ろした。脱いだハット帽を組んだ脚の上に乗せた男の姿勢は教科書のように一本線で綺麗だった。


「改めまして。今回、貴方様をお迎えに上がりました死神です」


 ルビーのように美しい双眸に見守られながら私は起き上がり、あの夢見心地の中で見た男性を思い出していた。確かあの背後から夕日に照らされていた人も同じようなことを言っていたと。

 だが当然ながら突然そんな事を言われても「はいそうですか」と受け入れる事は出来ない。


「えーっと。何かの悪戯ですか?」


 本当にそうだと思ったかと訊かれればそうじゃないけど、それが今の私が思い付いた精一杯の理由だった。


「いえ。申し訳ありませんが、それが現実です」


 一切の乱れもなく穏やかな声でそう言いながら頭を下げる男性。

 それを見た私は理由はないけど、この人が嘘を言っているようには思えなかった。とは言え完全に信じたわけでもない。まるで理想と現実が鬩ぎ合うように私の中には矛盾した感情が渦巻いていた。


「すぐに行くんですか?」

「いえ、貴方様にはあと一週間残されています。その間、何かご要望がありましたら申し上げください。出来る限りお叶えいたします。最期を少しでも悔いのないよう、少しでも楽しめるよう努める為に私はいますので」


 胸に手を当て会釈程度に頭を下げるその人は服装も相俟ってかとても紳士的に見えた。


「それはご丁寧にどうもありがとうございます」


 そんな死神に対して釣られるように私も頭を下げた。ゆっくりと下げ――ゆっくりと顔を上げた私は、死神にしては柔和な表情を浮かべる彼をじっと見つめた。


「それにして死神さんってもっと怖いかと思ってたけど――意外と優しい顔してるんですね」


 彼の顔を見てるとついそんな本音が零れる。依然と心の底から目の前の彼が本物の死神と思ってる訳じゃないけど。


「そのような方もいますが、貴方様のような所謂善人の方にはそれ相応の対応を致しますので」

「へぇー。そうなんですね。って言っても私は悪事を重ねるほど生きてないんですけどね」


 なんて冗談を言ってみたが死神は相変わらず柔和な表情を浮かべているだけだった。面白くなかったのか面白かったのか良く分からない。けど、きっと他の人にしたら反応に困ってただろう。そう遅れて反省した。


「にしても死神さんって何だか懐かしい? 親近感? みたいな何だか不思議な感じがするんですね。優しい顔もそうですけど、何だかこう――意外と落ち着く雰囲気っていうか」


 この感覚を言葉で説明するのは難しく、私は懸命に手を無意味に動かしては伝えようとした。


「少しでも警戒せず落ち着いて接して貰う為の少しばかりの機能と言いますか、配慮がありますので。我々は死神。こうして言葉を交わしている時点でその人の死は逃れられないものですから」

「へぇー。結構、人間思い? なんですね。でも死神という事は私以外の人には――」


 丁度私がそう質問をしようとしたその時――まるで用意していたかのように菜月さんが病室へと入ってきた。


「桜咲ちゃーん、おはよう。――あっ、お見舞いの方が来てくれてたんですね」


 死神の存在に気が付いた菜月さんは目を合わせると軽く頭を下げた。

 そして死神がそれに答えている間に菜月さんはいつも通りベッド際へ。


「もしかしてお兄さんとか?」

「え? いや。そういうんじゃなくて……」

「親戚の者です」


 透かさず死神は菜月さんにそう説明した。


「なるほど。それじゃあ私はちゃちゃっと済ませちゃいますね」


 その説明に納得した菜月さんはいつもと変わらぬ調子で、いつもより手早く済ませると病室を後にした。


「本当に見えてるんですね」

「えぇ。ですがご希望でしたら感知出来ないようにする事も可能ですよ」

「いえ。このままで大丈夫です」

「分かりました」


 死神のその声が消えていくと病室には日常的な静けさが広がった。目を閉じるか逸らせば何事もなかったかのようにいつもと変わらない。

 でもやっぱりそこにはその人がいる。じゃなくて死神。

 するとふと、目覚める前に彼とこの場所で会った時の事を思い出した。あの夕陽に病室が焼かれた綺麗な時間帯。夢か現実か曖昧な感覚の中、彼はそこにいた。

 そしてあの言葉を――。


「あの。もしかして夢の中に現れる事って出来るんですか?」

「不可能ではないですね。ですがあれは現実です。昨日、この場所で確かにお会い致しました」


 私が何を言いたいのかお見通しだと言うように昨日の事だとは言わなかったが、死神は的確に返した。


「それじゃあやっぱり……」

「――えぇ。貴方は一週間後に死にます」


 再度確認するように言われても当然ながら疑念は拭えない。

 でも改めてそう言われてみても、私は落ち着いていた。特に恐怖に襲われる事も、絶望に呑み込まれる事もなく――明日には忘れてしまう程度の心の揺らぎ。


「落ち着いてますね」

「んー。何だか……別にいっかなって感じなんですよね。死にたいとかじゃなくて、別に死んでもいいかなみたいな?」


 私自身、言ってる事が当たってるのかよく分からなくて思わず首を傾げてしまった。


「それか――。私、昔から体が弱くてよく入院とかしてたんで、だからもう来ちゃったんだって感じですかね。特に今回の入院って一番長いし、もしかしたら私って実は考えたこともあったし」


 別に強がってる訳じゃない。でも少しだけまだこの異様な状況を実感出来てないだけなような気もした。どこかあまりピンと来てないような感じもするから。


「信じられないですか? 死神が目の前にいて死ぬなんて言われても」

「えっ?」


 すると死神は本当にそういう能力があるんじゃないかって思う程に私の心を読みそう尋ねてきた。


「まぁ……そうかもしれないです。――もしかして私の心読めます? そういう能力的なのある感じですか?」


 思わずそう尋ねた私に対し死神は零す様に笑った。


「いえ。そんな能力はありません。そこは人間と変わりませんので」

「なら良かった。もしそうだったら変なこと考えられないんで」


 私はそう冗談めかして言った。それに対し死神はさっきの笑みの延長のような柔らかさを表情に残し続けている。

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