中編

 事務所から、おおよそ徒歩二十分。

 夕方になっても、まだ蒸し暑いものの、確実に秋の色が乗った風を感じながら、赤井と佐藤は一見の店に到着した。


 オレンジ色の看板に白く書かれているのは、『はなのごはん』という文字。その両脇には、昭和レトロと言われるような花が一輪ずつ描かれていた。

 何人かの客がホクホクとした顔でビニール袋を手に店を離れていっては、また別の客がやってくるを繰り返す。

 その波が一段落した頃、佐藤がしわがれた声を上げた。


「よぉ、はなちゃん!」

「シンさん、こんばんは! そちらは、ご家族の方ですか?」


 パッと明るい、まさに花が咲くような声。


 年老いた男は、にこにこと「ちがう、ちがう」と横手を振った。


「コイツは、同僚さぁ。コイツの嫁さんが悪阻でよぉ、あんまり食えてないらしいんだわ。それで、いっちょ、はなちゃんが見繕ってやってはくれねぇかと思ってよぉ」

「まあ! それは、大変!」


 パンッと軽快な音が鳴る。

 若い女の店員が両手を合わせ、赤井に体を向けた。


「ご家族がお好きな食べ物や、苦手な食べ物はお分かりになりますか?」

「……好きな食べ物っすか?」

「はい! あっ、食材じゃなくても、甘いものや苦いものとか、好きな味でも良いのですが」

「あー……苦いのは、あんまり食べてるのは見たことがないっすね……」


 ぼやぼやとした言い方に、佐藤が口を出す。


「最近、嫁さんが食べたのを、なんか覚えてねぇのか?」

「最近っすか? あー、なんか、一昨日は、酸っぱいのが食いてえって言いながら、卵焼きを食ってましたけど。昨日は、たこ焼き食いたいって言いながら、レタス食ってたっすね。結構、テキトーなんすよ。なんか、マックのポテトが食いたいとか言う日もあるし。マジで、よく分かんないんすよね」


 赤井が首に手を当てながら、左右に倒す。


「そう言やぁ、うちのかーちゃんも、真冬にスイカが食いたいって、言いだしたことがあったなぁ」

「マジっすか。それ、どうしたんすか?」

「いやぁ、全然見付からなくてよぉ。結局、探し回ってるうちに、別のもんに変わってたわぁ」

「わぁ……。オレ、そんなこと言われたら、飴しか思いつかねぇっすわ……」

「ああ、飴かぁ! その手があったか。おめぇ、良い発想するじゃねぇか。俺も今なら、飴を出せたのによぉ」


 男二人の会話が面白かったのだろう。

 クスクスと楽しそうな笑い声が間に挟まった。

 佐藤と赤井が揃って照れたようにそっぽ向くと、店員がにこりと微笑んだ。


「すごく、素敵ですね。でも、おかげでオススメが思いつきましたよ!」

「お? 本当かぁ?」

「はい! 四品ほどあるのですが」

「おう、全部買ってくぜ! 何しろ、今日は、俺のおごりだからな。何品でも構わねぇよ。さあ、言ってくれ、はなちゃん!」


 ニカッと笑った佐藤が、左腕を戸惑う赤井の肩に回すと、右手を店員に振った。


「では、一気に言いますね。『夏野菜と鰻のジュレ』と『夏野菜の鶏南蛮』。それから、『ほのかにチーズ香る、和風冷製リゾット』に、『はなの卵焼き』がオススメです!」


 言い切って満足そうな若い女と違い、男二人は、目が点になっていた。


「えっと、なんだってぇ? 鴨南蛮ゼリー?」

「いや、鶏南蛮じゃなかったっすか?」

「ん? 鴨も鳥だろぉ?」

「いや、まあ、そうなんすけど……」


 ごにょごにょと話す二人。

 その様子を微笑ましく思いながら、若い女はショーケースの上から身を乗り出した。

 びっくりする二人に構わず、男たちにも分かるように指をさしていく。


「その、白とオレンジっぽい二層に別れているのが、『夏野菜と鰻のジュレ』です。こっちの、トマトとズッキーニと絡んであるのが、『夏野菜の鶏南蛮』。これは、ちょっとだけ酸っぱいですが、その分、明日まで日持ちします! それと、『ほのかにチーズ香る、和風冷製リゾット』は、この白いマッシュポテトみたいなので、卵焼きは今から作ります。大丈夫そうですか?」


 店員の問い掛けに、男二人が無言で頷く。


「良かったです!」


 若い女は嬉しそうに笑うと、グンッと体を起き上がらせた。すぐに、トンッと床に足が着く音がする。


「シンさんは、何にされますか?」

「ああ、俺も、コイツと同じのを頼むわ。二人前でな」

「あ、オレも二人前で……」

「はい、承知致しました! あ、お時間を十分ほどいただきますが、大丈夫でしょうか?」

「ん? ああ、俺は大丈夫だ」

「あ、オレも大丈夫っす」

「ありがとうございます! では、少々お待ちくださいね」


 眩しいほどの笑顔。

 十分間。長いような、短いような時間。

 店員が裏に消えると、佐藤が口を開いた。


「おめぇ、嫁さんに惣菜買って帰るって、連絡しとけ?」

「え? 別に、良いんじゃないっすか?」

「いや、ダメだ。ついでに、佐藤のおごりだって言っとけ」

「ああ……、っす」

 スマートフォンを手慣れた手つきで操作する若者を横目に、年老いた男は安心したように微笑んでいた。


   *


 アパートの少し寂れた階段を上る。

 部屋の窓から明かりは漏れていない。

 メッセージに返信も無かった。

 また、いつものように寝ているのだろう。


 赤井は、カーゴパンツのポケットから家の鍵を取り出した。

 鍵を回して、鈍い灰色の扉を押し開ければ、暗い廊下が彼を出迎える。

 スニーカーを雑に脱ぎ、電気も付けずに無言で廊下の流し台で手を洗っていると、部屋の奥から物音が聞こえてきた。


 ふらふらと壁伝いに、顔を覗かせる若い女。

 部屋が暗いのも相まってか、その顔は青白い。一瞬、お化けでも出たのかと、男の心臓が跳ねた。が、それもすぐに妻の玲奈であることを認識して、ホッとする。


「おかえり、健太。ごめん、寝てた……。帰ってきて、着替えようとしたとこまでは、覚えてるんだけど……」

「いいよ、そんな気はしてた」


 男がパチッと電気を付ける。毛先だけ茶色い玲奈の髪は乱れ、寝癖がついていた。


「ほんと、ごめん……」

「別に。あー、今日、佐藤さんに奢ってもらった」

「あ、そうなの? じゃあ、夕飯は食べてきたんだ?」

「いや、惣菜」

「惣菜?」


 キョトンとする玲奈に、赤井がビニール袋を軽く持ち上げて見せる。そろりそろりと、野生動物が近付くようにして、彼女は興味深そうにビニール袋を覗き込んだ。


「え? こんなに? てか、梨まであるんだけど?」

「あー、なんか、店の人がくれた。富山出身の客が箱でくれたらしくて、こうすい? とか言ってた」

「え、幸水?! あたしがめっちゃ好きなやつー! えー、ほんと、嬉しいんだけど。お礼、ちゃんと言った?」

「んー? あー、言ったと思う?」

「ちょっとぉ。明日にも、ちゃんと言ってね?」

「んー。てか、おまえ、梨好きだったんだ」


 ニコニコと嬉しそうに、梨を取り出して見る妻に、赤井は意外そうに言う。


「あたし、果物、結構好きだよー? 知らんかった?」

「あー、うん。知らんかった」

「そっかー。まあ、言ってないもんね」


 特に気にするでもない様子に、かえって据わりが悪い気持ちになる。だが、そんな夫の様子よりも、玲奈は目の前の惣菜の方が重要らしく、


「ねぇねぇ、もう食べるよね? 夕飯の準備するよー」


 と、顔色は悪いものの、楽しそうな表情で彼女は流しにある台拭きを掴む。

 赤井の、「あー、うん」と気の抜けた返事を聞くよりも早く、ちゃぶ台をさっさと吹き終えた女は、ビニール袋から惣菜を取り出し始めた。

 六畳一間もない畳の静かな部屋。

 ビニールのガサゴソという音が、なんとも楽しげに聞こえてくる。


「えー! めっちゃ、美味しそうなんだけど! 食べれると良いなぁ。ねえ、これ、健太が選んだの?」

「んーん、店員さん」

「へえ! すごいおしゃれな店だった?」

「いや、なんか、すごい昭和ぽかった」

「え、そうなの?」

「んー。あ、麦茶飲んで良い?」

「良いよー。あたしのも、ちょうーだい」

「おー」


 男が冷蔵庫から自家製麦茶を取り出すうちに、机の上には惣菜のパックとコップ、それから箸と銀のスプーンが用意されていた。


「ちょっとずつ、何日かに分けて食べたいよねえ。冷凍とか、出来ないのかな?」

「わかんねぇ。ほい、麦茶」

「ありがとー」

「あ、でも、なんだっけ。なんか、南蛮は酸っぱいから明日まで持つって言ってた」

「南蛮? これかな? じゃあ、これは明日に取って置こうっと。健太、梨と一緒に冷蔵庫に入れておいてくれる?」

「え、食わねーの?」

「だって、もったいないじゃん」


 沈黙。言葉では、無反論。

 しかし、口を尖らせて、ジッと艶のある飴色の惣菜を見つめる夫に、妻は苦笑いをした。


「じゃあ、足りなかったら、食べよ? それなら、良い?」

「ん」

「じゃあ、梨だけ冷蔵庫に入れてきて」

「わかった」


 いそいそと動く夫の背を可愛らしく思いながら、玲奈は惣菜の蓋を慎重に開けていく。

 どうか、匂いがダメじゃ、有りませんように。

 そう祈るように、一つずつ。一つずつ。

 白い半液体の米を開けたときだけ、一瞬だけウッとなった彼女だったが、幸いにも、それ以上の吐き気は来なかった。


「食えそう?」


 いつの間にか戻ってきた夫は、心配そうに顔を覗き込んでいた。「大丈夫そう」と、彼女が笑いかければ、男の頬が緩む。


「それじゃあ、食べよー。いただきます」

「ん、いただきます」

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