第72話 関東風、関西風 ともう一つ


 よく料理でこの「関東風」「関西風」という分け方をしますが、あきらかにもう一つ食文化はあります。

 北前船沿岸の日本海側風の料理

 仮に「北前風」でも呼びましょうか。


 江戸時代は鉄道は無いので、物流は船が主でした。


 太平洋岸は潮流が荒く、さらに江戸への流入は強固な制限があり、大井川とか橋の無い川、箱根の関所とか陸上物流は無いに等しい状態です。


 だから、関東と関西と別れてしまったという感じですね。


 ただ日本海側は冬の海は荒れますが、それも11月から3月まで。他の季節は静かな海なので、江戸時代はたくさん物資が春から秋にかけて行き来しました。


 棒鱈というタラの乾燥品は、佐渡や庄内でたくさん作られ、京や九州まで運ばれています。京都ではいも棒という、棒鱈料理が食べられますが、越後、佐渡、庄内でたくさんつくられ、安価に手に入る水産加工品だったのです。九州も「たらおさ」という棒鱈の料理を作ります。

 九州博多の「おきゅうと」は、元は佐渡の「えごねり」だったと言われます。


 江戸幕府の支配は、北蝦夷(=樺太)、南蝦夷(=北海道)、千島、勘察加(かむさすか)=カムチャッカ半島まで及んでいました。

 明治維新であっさりと新政府は放棄してしまいました(アホの極み)石油天然ガスの宝庫なのに(バカ)


 こちらに住むアイヌなどの現地住民は狩猟民族でしたが、ヤマト人との交易が始まると、醤油、酒、味噌などを要望するようになり、これを本土から運んで、ヤマト人が好む昆布などと交換するようになりました。昆布(コンブ)というのはアイヌ語です。


 この醤油、酒、味噌は蝦夷地のような寒冷地で作る技術が当時はなかったため、越後新発田藩領の沼垂ぬったり(今の新潟市中央区の沼垂地区)でたくさん製造され、それを船で蝦夷地に運び、昆布と交換して新潟湊に持ってきました。

 蝦夷地で買い付けた昆布を大坂商人が新潟湊に買い付けに来ていたのが北前船です。

いまでも大阪では贈答品に昆布を用いたりします。これは江戸時代の蝦夷地との交易の名残です。

 富山県の伏木から新潟あたりまでは昆布が潤沢だったため、昆布巻きや、とろろ昆布のおにぎりなどが今でも作られます。


 ちなみに北海道は今は味噌の大生産地ですが、製造法は「ほぼ越後味噌」「佐渡味噌」です。寒冷地の製造法です。新潟の人は札幌味噌ラーメンを食べてびっくりです(同じ)これは越後からの開拓使が工場を作ったのが由来でもあります。

 


 その他に、佐渡や能登では、フグの卵巣(有毒物質)の無毒化に成功しています。現在の科学でもそのメカニズムは証明できていません。

「ふぐの子」は佐渡佐和田地区ではどの家でもつくった家庭料理(驚愕!)とのことですが、保健所からヤメロと言われて、いまは一つのお店だけしか製造許可が出されていません。

 今でも「ふぐの子」は佐渡のお土産として、非常にポピュラーな珍味として、佐渡汽船の両津港でお土産に買っていく人が大勢いるそうです。



要は、太平洋側とくらべて日本海側は食文化の交流が盛んだったってことですね。

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