4-3:

 凍りつくクラブハウスの中で、たった一人空気を読まずご満悦な社長に歓待を受け、エルは試合後の歓談に興じていた。

 とはいえ、エルは基本黙って立っているばかりだ。

 暇になり、化粧室に入ったトオルは、個室で仮面を外して人心地をつく。悪びれもせず、アークは気楽そうに言った。


『いや、悪かったな。余裕ぶっこきすぎたぜ』

「もういいよ」


 トオルは便座に腰掛ける。時間制限というデメリットは今まで気にしていなかったが、実力者相手に約三分という縛りは厳しいものがある。

 そのうえ、朝来野はこちらのことをよく研究していた。利き手が右など、ずっと一緒のトオルも最近気付いたばかりだ。神童がそれほど研究し、それでも及ばなかったのだ。それ以上は高望みというものだろう。


 それに、とトオルは小さくほくそ笑む。

 社長の喜びは、これ以上にないものだった。おそらく、当分の契約は保証されるだろう。

 なにせ、あの朝来野に完勝できるような選手が降って沸いたのだ。

 エルという選手は、零細芸能事務所の看板として扱われるようになるだろう。

 仲立ちするトオルにも利益は入る。

 いや、ちがう。何なら、エルの正体がトオルであると明かせばいいのだ。


 憑依能力が判明したとき、どうにも信用ならずひた隠しにしてきた。けれど、すでに大浜オープン、城附オープンと力を披露している。

 だったら、今更だろう。覚醒したとでも言い張ればいい。

 結局のところ、エルとトオルの背景にそれほど大きな違いはないのだ。

 非ナンバーズであり、

 寄る辺がないことに。

 一つ違うのは、実力だけである。


 覚悟はできた。違法試合に出場していたと自白することになるが、エルの実力を知った以上首にはなるまい。

 よしんば解雇されたとしても、新たな就職先を見つけるのはたやすいだろう。トオルは仮面を外したまま、個室のドアを開いた。


『おい、良いのか?』

「これでいいんだよ。二重生活なんて器用なこと、出来ないしね」


 トオルは素顔のまま廊下を闊歩し、会場へ戻る。

 すると、角の向こうから嗚咽を漏らす音が響いてきた。

 朝来野がパイプ椅子で項垂れている。側には、肩に手をかけるコーチらしき姿もあった。

 彼は感情を抑えられぬまましゃくり上げ、切れ切れに言葉を紡いでいる。

 それは、どこまでも素直な感情の吐露であるように思えた。


「落ち込むことはない。監督も褒めていたよ」

「……」

「良い試合だった。あれほど見応えある試合はなかなか巡り会えない」

「……ですが。ボクは、まるで力及ばなかった」

「キミは、良くやったよ。いつも以上の力だった」

「ならなんで!」


 朝来野はキッとコーチを睨みつける。

 けれどその意気も萎び、俯いたまま暗い声を絞り出した。


「敗れるのはいい! 及ばないのもいい! けどどうして、あんな終わり方なんです……」


 消え入りそうな声は、トオルの心臓を鷲掴みにした。

 彼の怒りが、彼の切なさが、彼の悔しさが刃となって突き刺さる。

 三分間のみの限定的な力。そのことを知らない向こうは、終盤に突如、稚拙な技で嬲ったように見えただろう。

 まるで弱者をいたぶるように。

 トオルとしては全力で相対した。けれど、アークの強さだけを追い、研鑽と研究を重ねた彼にとっては鼻先で笑われた気分だったのだ。

 終わりよければすべて良し、という言葉もある。

 最後の瞬間、すべてをトオルが穢していった。

 そのやるせなさは、いかばかりのものだったのだろうか。

 コーチも励ましは口にできない。それが嘘になると、わかっているからだろう。


 トオルは壁に背をつけたまま、慌てて仮面をつけた。

 素顔など晒せない。晒せるはずがない。

 彼の前に出ていって、実は自分がエルだったといえるわけがない。


 呼吸が荒く、浅くなる。

 痛かった。

 途切れ途切れに放たれる言葉すべてが、トオルを糾弾しているようにさえ聞こえた。

 気にするなというアークの励ましも、何一つ耳に入らない。唇は乾き、視界はどこまでも真っ暗だった。


「おっ、ここに居たか。待たせて悪かったな」


 T字路の反対側から、社長とその部下が向かってきた。二人に連れられるまま、ばったりと朝来野に出くわしてしまう。

 彼を直視すると、背筋が凍りつき、脚が動かなくなる。

 どこまでも真っ直ぐな、怖いほど鋭利なかんばせだった。


「それじゃ、私らは失礼しますよ」


 根っからの商売人である社長は、敗者の感傷になど気にもとめない。

 これで良い、これで良いんだと心に言い聞かせながらトオルも続いた。


「待って、ください」


 朝来野が、心を奮いたたせ立ち塞がった。その燃ゆるような眼差しをはじめて直視する。

 それは、心折られた敗者のものではなく、ただ不屈を覗かせる、ひとりの気高き武士のものだった。


「アドバイス、お願いします」


 何にも膝を折ったことのないような彼が、トオルに頭を下げた。

 プライドを押し殺し、悔しさを噛み殺し、どこまでも真摯に強さを望んでいる。

 それも、何の力をもたないトオルにだ。


 トオルは言葉を失った。かける言葉を持たなかった。

 あろうはずもない。お得意の厨二病で煙に巻くか。自分は最強だから。馬鹿馬鹿しい、よく言えたものだ。

 借り物で何も持たない。

 ひたすらに空虚だ。

 トオルは黙り込む。このときばかりは、くだらない素顔を晒さなくていい仮面に感謝した。


「よろしく、お願いします」

「……」

「それとも、敗者に掛ける言葉はなしですか」


 朝来野が顔をあげて恨みがましく言った。庇うようにして社長が間に入る。


「ふん。囀るなよ、お坊ちゃん」

「なにっ」

「苦労知らずなんだろうが、負けたからって突っかかるのはよしてくれ。こいつはウチの大事な選手なんでね」

「あなたにボクの何がわかる!」

「はっ、負け犬だろ?」


 辛辣な言葉に、朝来野がぐっと唇を噛んだ。


「育ちが知れるぜ、お坊ちゃん」


 社長からしてみれば、何気ない一言だった。だがそれは、地雷そのものだ。

 朝来野ははっきり激怒すると社長に掴みかかった。

 拳を振りかぶる。稚拙で力任せ。高校一年生の痛切な叫びが、社長の頬に吸い込まれる。

 音は乾いていた。だからこそ、どこまでもその内心が直に伝わってきた。


「一般人への暴行は重罪だぞ、冷静になれ!」

「しゃ、社長も煽らないでください!」


 コーチが無理やりに二人を引き剥がす。部下の沢村マネージャーも、慌てて間に入った。

 羽交い締めされても朝来野が暴れている。他のコーチや事務員たちが駆け寄ってきて、大騒ぎになった。

 やがて、劈くような罵詈雑言が大人しくなる。朝来野に代わって、コーチが丁寧に頭をさげた。


「申し訳ありません。教育が行き届いておらず」


 頬を赤くした社長は、背広の襟を正しながらフンと荒い鼻息を吐いた。


「ふん、正式に抗議させてもらうからな」

「大人げないですって、社長」

「うるせぇ、行くぞ!」


 ズカズカと音を立てながら社長たちはクラブハウスを出ていく。

 さらに項垂れる朝来野と、恐縮そうに頭を下げつづけるコーチが目に入った。


『なにか、声をかけてやったらどうだ』


 アークがポツリと言った。

 トオルは心を雑巾のように絞り、ひたすらになんでもない言葉だけを放った。


「次は公式戦で合間見えよう、ショウ」

「えっ」


 そうして、威風堂々身をひるがえす。振り返ってはならない。勝者の情けない姿は、敗者を侮辱する行為だ。

 自分はアークではない。

 エルではない。

 だからこそ、虚勢を張らねばならないのだ。

 そう、言い聞かせるしかなかった。



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