3-1:
悲鳴木霊す、どこまでも薄気味悪い闇夜だった。鬱蒼と茂る笹藪の中を、甲冑姿の女が駆けている。皎々たる望月が白んだ靄に包まれ、儚い光を降ろしていた。
女の吐く息は、吹き荒ぶ木枯らしに煽られながら尾を引き、長く、弱く続いていた。険しい獣道である。金属絡み合う音は物々しいが、猛禽類の虹彩一つ見当たらず、周辺一帯を構成する木々が怯えを隠すように揺れ動いていた。
目庇を落ち葉が叩く。兜を放り捨てた女は、紫紺の髪を靡かせながら足腰に鞭打つ。籠手から覗く蜂蜜色の肌は、枝葉で切られ血が滲んでいる。背後にならう仲間は居らず、体力は奪われる一方だった。
宵闇、それも、魔軍勢力圏内でしかない険しい山間を、何の準備もなく突き抜けることは自殺志願と同義である。すでに趨勢が決しつつあるとはいえ、本隊主力控える陣営に乗り込もうなど、蛮勇の一言では片付けられぬ暴挙であった。
「間に合ってくれ……!」
呼気と共に焦燥が漏れ出してゆく。根に脚を取られていると、チカチカと胸元のペンダントが明滅した。
「もう止めなさい。斥候の報告では、何刻も前に出立したとのことでした。どれほど健脚であろうと、今更捕まるはずがありません」
「黙れっ、そんな憶測聞きたくない!」
「貴方の想いは理解しているつもりです。悔しさ、やるせなさ、報われなさ。私とて、彼が無為に失われてほしいとは思いません。しかし、土台不可能だったのです。よしんば、今日引きとめることができたとして、次の機会をみすみす見逃す人ではない。そのことは私たちがよく、いえ、何よりも貴方が一番よくわかっているはず。冷静になってください。旗頭である貴方が今失われれば、世界はまた闇に――」
女はペンダントを握りつぶすと、鎖を引きちぎりながら投げ捨てた。
強く上唇を噛むと、鉄臭い味が口内を満たしてゆく。目尻に浮かんだ感情を流しながら、再び全力で駆けはじめた。
女の顔は、混じる感情でぐちゃぐちゃになっていた。
肉体派の前衛とはいえ、夥しい苦境を潜った英傑である。論理に疎くとも、磨き抜かれた直感が退けと囁いている。
女の背負う大剣は月光を反射し、どこまで貴く輝いているが、万の軍勢にはひどく頼りない。所詮、一個の鉄塊なのだ。
敗色濃い決死の魔軍相手には、洪水を前にした土嚢ぐらいの意味合いしか持たぬだろう。
だが、だからこそ、女の脚は留まることを知らなかった。
――「最強」を目指しているの? どうして、そんな苦しい道をわざわざ。僕だったらそうだな、吟遊詩人になりたいなあ。せっかく世界を巡ってるんだし、ね。
――え? お前は歌が下手だろって? そういうのは良いんだよ。大切なのは歌詞だったり、経験だったり、それに心だったり。たった一人でも勇気をあげられれば。そう、思わないかな?
女は崖を飛び降りると、内臓の持ち上がる感覚に耐えた。眺めは遠く、静まっている。もはや大粒となって溢れはじめた感情を振り払い、忠告も、現実も忘れ、ただ己の命じることのみにしたがった。
ほどなく藪を抜け、視界が晴れた。
音はなかった。流れる血潮は、まるで河のように営塁を浸していた。本能的な恐れを感じる。得物を握る拳は青白くなっていた。
どれほど歩いたであろうか。
脛当てと鉄靴が、元の姿形を見紛うほどに穢れていた。
「……フランツ」
辿り着いた先では、膾切りにされた赤龍の上で、長剣を抱いた男が片膝を立てて静かに連峰を眺めていた。
女は言葉もなく立ち尽くす。気配を察し、男は穏やかに視線をくれた。
「来なくていいって、言ったのに」
男の姿はどこまでも普段通りだった。くすんだ金髪を靡かせ、鎖帷子にも致命傷らしき痕はない。にこりと曖昧に笑う姿も、利き手側である左手で頬を掻く仕草もいつもどおりだ。
ただ、打ちひしがれた瞳だけは、虚無が宿り、屍のように生気がなかった。
凄惨な光景に喉が乾く。踏み出そうとした一歩は、どこまでも遠かった。
不意に空が曇り、世界は一寸先すら見渡せぬ闇に包まれた。臆病な心が顔をだす。
瞬間、燃え上がった火の粉が檻のようになって男を包んだ。
逃げ場はない。
いや、抵抗もなかった。
女の絹を裂くような絶叫が轟く。
死期を悟り、男は静かに唇を動かした。
――ごめんね、アーク。
そこで、世界は暗転した。
「っ――!」
自宅のロフトで目を覚ましたトオルは、銃声を聞いた猪のように身を飛び起こした。
袖で汗を拭おうと、ひたすら湧いてくる。退屈そうに社用携帯を見ていたアークがあぐらを崩しながら頬杖をついた。
「い、今のは……」
『あぁん? どうした夢精か?』
「ああいや、なんでもないんだけど」
自分の顔を両手で覆いながら、ほっと胸を撫で下ろした。空想、にしては凄まじいまでのリアリティだった。音、匂い、食感、すべてが本物としか思えなかった。
布団に潜っても、いまだ鮮明に描き出される。震えが止まらなくなるほどの体験だった。
(それに、たしかアークって)
果たして何だったのか、わかるはずもない。
心のもやは消えず、形になってゆく。
空が白みはじめても結局、深い眠りにはつけなかった。
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