2-7:

 世の建造物には、下部に基礎なるものがあるのを知っているだろうか。

 地盤というのは意外に軟弱で、何の対策も講じなければ、たとえばピサの斜塔のように自重で傾くことも珍しくない。

 それを防ぐため、杭を岩盤まで降ろし、その上に建物を造るのが一般的だ。

 つまり何が言いたいのかというと、何事も基礎こそが重要なのだ、という真理である。

 とくに、なんとなーくで甘く考えている付け焼き刃の素人には。


「えへへ、さすがのわたしも料理の“さしすせそ”ぐらい知ってるよ。

 さ、が砂糖でしょ。

 し、が醤油で、

 す、がお酢。

 せ、がえーと、たぶん背脂で、

 そ、がソースでしょ。

 どう? ぜんぶ正解かな?」

「…………“そ”は味噌だよ」

「あ、あれ? あはは、ちょっと勘違いしちゃっていたのでした」

「……」

「そ、そんなに睨まないでよ。あ、お屋台さんだ。ちょっと待っててね」


 お前クビ、と死んでも言えない従業員トオルは、古賀家の浴場で汚れを落としたあと、火照った身体を夜風に浸しながら、チョロロとたこ焼きを買いに走った古賀遥菜を眺めていた。

 帰宅が夜更けてからになったのは、先輩風吹かそうとして張り切る彼女が原因だ。エネルギー全開で、レンジに金属ボウルを入れ、水と油を混ぜ始めたときにはもう収拾がつかなくなっていた。

 トドメにフライパンの中身を仲良く被り、好意に甘える形で古賀父のコートを貸してもらっていた。


「あちち、うーんでも焼き立てはおいしいね。ほら、夏目くんも一つ」

「えーとでも、ダイエットは良かったの?」

「あ、あはは。そういえば、そうなのでした……えっとじゃあ、今日で終わり!」


 彼女もまた、外行きの服装に変わっていた。白ニットに淡いカーディガンを羽織り、胸には銀のネックレスをつけている。漂うシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。


「それでね、なおみが言ってたんだけど――」


 彼女は言葉を紡ぎ続ける。どうしてこんなにも平和なんだろう。移り変わる表情を見て、ふとトオルはそう思った。

 あんな大惨事、もし普通の会社なら一発で出禁だ。経験上そうだし、トオルでもそうする。けれど古賀家は、一度窘めたっきり二度と蒸し返さなくなった。


(なんか、言い難いんだよなぁ)


 事の元凶なのに、やたらと長風呂で身支度まで整えて。家路に着こうとすると、家族総出で引き止められるばかりか、バスタオルを巻いたまま涙目でドアの隙間から睨み出す。気付けばトオルは、あれよあれよという間に夕食まで御相伴に与っていた。

 古賀家は皆、純朴で驚くほどに善良だった。中学三年生の弟一樹でさえ、満面の笑みで歓迎の意を示してくれる。和気藹々とした家庭内の雰囲気で、己が矮小な気分にさえなった。


 違うのだ。

 自分だけが輪の外にいる。

 隣に座り、箸を突き合わせていても同じだとは思えない。自分の居場所はここではない。そんな惨めさだけがふつふつと湧き上がってくる。

 トオルが知るのは食い詰めた顔ばかり。いつグレたって、いつ死んだっておかしくない。ギラギラとした光を宿し、虎視眈々と出し抜く機会を窺っている。そんな影も形もない家族の姿が、否応なしに対比となって心を蝕んだ。


 拍車を掛けるのが、周囲を陶然とさせるような彼女の魅力だ。

 栗色の長い髪を右サイドだけ編み、ぱっちり開いた瞳には、鳶色の優しい色が輝いている。

 手足は細長く、一方女性らしい丸みを帯びた胴体と、理想的な体型をしている。ちょうど、トオルの胸に彼女の目元がくる形だ。

 ぷっくりとした上唇が少女から女へと移り変わる間の、そんな危うい色気を醸し出し、トオルを躊躇させるのだ。


 近寄るなと。

 お前ごときが触っていい存在ではない、と。


 流されるまま、気づけば一駅分以上歩調を合わせていた。街区は夜が更けても明るく、治安は良好だ。地元民たちがあらまぁと顔を綻ばせて挨拶してくる。

 面映そうに応対した彼女は、車を避けるためと言ってピッタリと真横に陣取った。


「今日は、失望させちゃったよね」

「そんなことないけど」

「ウソだ。顔に書いてあるよ。ぜんぜんお嬢さまなんかじゃなかったって」


 少女は語った。背伸びして入った進学校で、舐められまいと学業に励んだこと。深窓の令嬢などと言われてしまい、見栄を張った結果、遊びに誘われても新しい服が買えるまでは我慢したこと。長じて、高嶺の花として孤立してしまったこと。

 はじまりこそくだらない。けれど、被っていた仮面が素顔となる。そんな襟の内を打ち明けた。


「ちやほやされるのが嫌じゃない自分も居てね。あはは、ぜーんぶ自業自得なんだけどさ。それでもやっぱり、自分らしくすれば良かったって思うから」


 電灯並ぶ街並みを抜け、月明かりだけが少女を照らしている。

 容姿だけではない。ころころ変わる表情に、やけに頑固な一面。しょぼくれたり、かと思えば弟を叱りつけたりする喜怒哀楽豊かな彼女を、今日一日でたくさん見た。

 太陽のような微笑みを湛える彼女は、その土手の向こう、河岸の向こうとはまるで違う人種に思えたのだ。


「だからね、夏目くんとは本当の友達に――」

「トール!!」


 突如として、甲高い叫びが閑静な街並みを切り裂いた。

 振り向いた先には、錆の浮いたフェンスの向こうで夏目ひかりが肩で息をしている。気怠そうに番長歩きをする政和の姿もあった。


「ひ、ひかり。どうしてここに」


 よほど動転していたのだろう。つっかけは泥だらけで、自慢の三つ編みもほつれかかっている。家事用のリス柄エプロンもそのままだ。

 彼女はフェンスを避け大回りしてくると、ほっとしたように顔を緩めた。


「もう、もう。なんで帰ってこないのよトール!」


 ポコポコと胸を叩く彼女の目尻には涙が浮かんでいる。

 トオルが「ごめん」と頭を撫でると、やがてしゃっくりに変わる。

 そこでようやく寄り添うぐらい近い女の影に気づいた。


「あ、あははは。その、えーと。夏目くんのクラスメイトで、今は同じ店で働いています。古賀遥菜です、よろしくお願いします。

 って、えっ? えっ? 帰ってこないって、もしかして同棲っ!?」


 手を揃えてお辞儀しようとした遥菜は、トオルとひかりの顔を見比べて、途端に戸惑った表情を浮かべた。


「ああえっと、なんて説明すればいいんだろ。

 とりあえずその、ひかりは幼馴染で、君が思ってるような関係じゃないから」


 しどろもどろになっていると、遥菜の声がワンオクターブ下がった。


「……へー幼馴染。

 夏目くんは幼馴染と同棲してるんだー」

「いやその、同棲って言葉がそもそも不適切で」

「へー不適切。そういうこと言っちゃうんだー」


 遥菜は胸を片手で隠しながら、半目で言った。


「いやその、古賀さんは大きな誤解を」

「へー誤解なんだー」

「こ、古賀さんにはこの度大変なご迷惑を」

「つーん」

「あのー古賀さん?」

「つーん、つーん」


 トオルの額から冷や汗が流れる。さっきから一言も喋らないアークが妙に不気味だ。


「なれなれしく、しないでよ……」


 小器用に顔を背ける遥菜のご機嫌取りをしていると、暗く沈み込むような声が二人を遮った。

 ひかりである。

 彼女は耳がキンキンする甲高い声で、ヒステリックに髪を振り乱しながら絶叫した。


「トールになれなれしくしないでっ!!

 なんなの! こんな夜おそくまでトールをじぶんかってに連れまわして!

 トールは奴隷じゃないんだよ! なんでそんなこともわかんないの!」

「え、あ、ご、ごめんな――」

「うるさい、うるさい、うるさいっ!

 そんな思ってもないようなこと聞きたくない! そんな取ってつけたような態度でごまかされない!

 ねえ、なんでいつもそうなの。なんで、なんでなの。私から、ぜんぶ、ぜんぶ奪って。今度はトールまで奪っていくの。それの何がたのしいの!!」


 ひかりが大粒の涙を零しながら想いの丈をぶち撒ける。

 高い感受性をもつ遥菜は、怒りというよりもはや怨念に近い感情をぶつけられ、肩を抱えて一歩退いた。


「“ナンバーズ”だからってバカにしないでよ!」


 ひかりはそれっきり地面に尻餅をつくと、周囲も憚らず大声で泣き喚いた。

 遅れてやってきた政和がジャンパーを掛けると泣きじゃくる彼女を連れていく。彼もまた、遥菜に対して刺々しい態度を隠そうともしなかった。


 静まり返った街路灯の下で、トオルは彼女を見た。

 怯えていた。

 頬はこわばり、今にでも走って逃げそうだった。


 すとんと肩の荷が下りる。いや、背中の肉ごと小削ぎ落とされた気分だった。

 手を伸ばそうとして、諦める。身動ぎひとつで肩を震わせる彼女が、今は直視できないほどに痛かった。

 虚しくないと言ったら嘘だ。

 でも、いつかこうなると知っていた自分こそが憐れで、惨めで。

 いつも生きている価値がないって、考えてしまう。


「ごめん。お父さんにやっぱり止めますって伝えておいてくれないかな」


 トオルは社用端末を取り出し、自走タクシーを召集する。決済を済ませると、意を決して語り出した。


「僕も君に一つ、嘘をついていたんだ。

 僕たちは“非ナンバーズ”。

 なにもできない、社会のクズ。

 きっと僕は、迷惑になるから」


 車がくると、それっきり振り返らず疾風のように逃げ去った。

 彼の孤影はスラムに飲まれ、暗い路地を突き進んでゆく。

 闇へ、闇へ。



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