第6話 入院前 6
一週間後、僕が一人で検査結果を聞きに病院に赴くと、医師は
「今日は、おひとりですか?」
と尋ねてきた。
「ええ」
「そうですか・・・」
医師は少し戸惑ったような表情をすると、
「それでは・・・」
と書類を前に説明を始めた。結論はやはり内視鏡で切除できるレベルではなく、切除するか放射線治療にするかの選択で、今のところ他の臓器やリンパ節への転移は認められないのでステージ1であろう、との見立てだった。
「やはり手術が標準治療としてお勧めです。一度、放射線治療を行ってから当該部位や別の部位にがんが見つかって、それから手術というのは体力的にきついですから」
と言いつつ、医師は、手術で死亡する確率は1~2%程度、術後5年以内の再発確率は10%程度であろうという説明と、手術に伴う合併症に関する説明をした。とりわけ合併症については、
「西尾さんは喫煙歴が長いですからね。一般的には肺炎の確率は15%程度ですがあなたの場合は80%くらいは覚悟してください」
と妙なところで念押しされた。ほかにも神経麻痺や手術の際に起きうる結合部の
「おひとりですか?」
と聞いたのは連れ合いがいた方が色々な意味で説明がしやすいのだろうと思った。連れ合いと言っても別に本人が手術を受けるわけではないから少なくとも本人より冷静な判断ができると思うのは自然だろう。
「いずれにしろ、手術をするか放射線と内科治療の併合のいずれかを選択しなければなりませんから、次回はご家族の方と一緒に来院してください」
やはりガンともなれば家族が一緒に来るのが筋なんだろう。痔とか胃腸炎で家族が一緒に来る必要はないのだろうけど、心臓病やらガンやら、となれば患者の命が掛かる。そうなると家族にも説明して了解を得ておいたほうがいいという病院側の都合もあるのかもしれない。
「わかりました」
ひとりきりで来た僕は小声で答える。
「それと、煙草とお酒は当面は控えてください。とりわけ手術をする場合、煙草は血流を悪化させるし、病院によっては煙草を止められない人は手術を拒否する場合もあります」
医師は厳しい口調でそう言うと、
「とはいえ、永久に煙草を吸ってはいけないとかお酒を飲んではいけないと言っているわけではないですからね。治療をして効果が確かめられれば、先のことはそれから考えればいいんですから」
と一転して微笑を浮かべた。とはいえ・・・実際に手術を行った後で同じ意見であるかどうかは疑わしい。
実際のところを告白すればお酒についてははアルコールフリーというか、微アルコールという触れ込みのビアリーという飲み物を飲んでいた。これは去年の九月に孫の誕生日を近くのイタリアレストランで部屋を貸し切って行った時に出会って、それまでのアルコールフリー飲料に比べて抜群に旨い、というかビールの味に近くてお気に入りになったもので、正直言ってビール並みの値段だけどまずいものを飲むよりはましだと近くのスーパーで買っていたものだ。
煙草の方は劇的に本数は減らしていたものの禁煙まではしていなかった。しかし、手術にしろ放射線治療にしろ治療する以上は禁酒禁煙は避けえないだろう。でなければ治療をしてくれる医療スタッフに失礼に当たる。とは言え最後に一本くらいは煙草を吸いたいものだ、などと考えは千々に乱れる。
「えーっと一緒に話を聞いていただけるご家族は?」
医師は僕のもやもやした心境など窺うべくもない。
「妻がいます。子供は結婚してますので同居していないんで」
「そうですか、では次回は奥さんと一緒という事でよろしいですね」
医師は頷いた。
「あ、はい」
診察は平日だけだからまだ働いている連れ合いには休暇を取ってもらわなければならない。まあ、ガンだからなぁ・・・そう呟くと僕は病院を出た。
病院の近くにある駅から電車に乗れば三十分足らずで家に帰りつくのだが、僕は近くの駅から電車に乗らずに一駅歩くことにした。普段から一日、一万ぽは最低歩くことにしているのも理由の一つだが、手術にしろ放射線治療を受けるにしろ、今まで通り自由に気ままに散策することができるかどうか分からない、そんな思いもあった。病院は再開発地区にあって、病院や駅を少し離れれば普段は人通りが少ないし、店もない。その上駅と駅の距離が思ったより長い。
最近は電動キックボードを免許なしに乗れるようにするという無責任極まりない道路交通法の改正が行われたが、暴走自転車も防げないくせに、電動キックボードまで道路に出して本当に警察は大丈夫なのだろうか?と呆れたけど、むしろこういう再開発地区でこうしたガジェットを活用することを考えればいい。(あ、ガジェットというのは本来便利な小道具という意味ですから、別にIT周りでなくても使える言葉です)
五反田あたりでキックボードに乗る人が増えても何の価値もないが、こういう場所で活用すれば地区の活性化につながる。実情を見ずに政策を行うとこういう事が起こる。東京都も警察も良く考えた方がいい。
そんな批判めいた気持ちを抱きながら家に戻って、結局煙草は諦めることにして机の奥にしまった。完治した時にもしかしたら吸いたくなることもあるかもしれない。でも当面は患者としてできることはそのくらいのことで、それを怠ったら医師に失礼だという思いは残っていた。
夜、仕事から帰って来た連れ合いに病院の予約の日を伝え、同行を頼む。ちょうど年次休暇のあまりの取得を考えていたということで問題なく日程をあわせてもらえた。
問題は手術を受けるべきか、別の治療法にするかという点であった。もし転移や播種があれば治療をしないという選択肢もあったが、医師の話では今のところその心配はないという。
それに他にも考えなければいけない問題があった。母が逝去して一年、実家の片づけはなんとか進んでいたが、終わっていない。娘夫婦が住むならば土地だけでも将来を見据えて譲渡予約しても良いかと思ったがそんな気もなさそうだ。仏壇さえまだ移動していない。
もう一つは墓の問題で僕が元気でレンタカーで運転していけるうちはともかく、そういう体力や精神力を失ったら無縁仏になりかねない。とにかく墓の立地が遠すぎる。長野とか福島の田舎になるととか、下手をすると沖縄や北海道より辿り着くのに時間がかかるのだ。
もし手術の方を選択して、万一手術中に死んでしまったら(現実的に100人に一人か二人は死ぬわけで)下手をすればそのまま放置ということになりかねない。墓を故郷に作ったのは両親だが、なんでまたそんなところに、と思わないでもない。事前に何か措置を考えておかねばならないし、そのためには墓のある寺とも話をせねばなるまい。死ぬ前にやることがありすぎるし、時間は限られている。しかし、実家は東京に近い埼玉にあるわけで、これは何らかの資産価値があるわけだから残されたものにもインセンティブが働くわけで、なんとかするだろう。問題は資産価値がないどころか金がかかる墓の方にありそうだ。僕はそっとため息をついた。
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