一菱銀行目黒支店

「A財団の格付、見てたんだけどさあ」それは承認の連絡でなかった。




「資産調査で、美術品の登録してるじゃない。この絵ってさあ、ほんとにあるの?」


「はい。決算書にはそう書いてありますが」


「前期の決算書には無いよね?」


「購入したのは今期ですから」私は呻くように言った。




「ふうん」と、探偵が思案するような声色が聞こえた。


彼は東大卒だ。人間の知性は、このように浪費される。




「この絵がある美術館の館長。うちの銀行からの出向者でしょ? 前に関西のどっかで支店長やってた人。今回の融資のために、BS良く見せたがってるって疑わなかった?」


「はは。支店長経験者が粉飾の指導してたら、世も末ですね」




鼻を鳴らす音がした。返答が気に食わなかったらしい。


こちらも彼の気に入る答えを返す義理はなかった。




「僕の指導担当者はねえ。裁判所もコンプラチェックしろ、って言ってくる人だったんだ」


「はあ」


「新人研修で習うでしょ、『健全な懐疑心』って。伊藤くんに聞いてみたら? 黒川代理みたいな指導担だから、彼みたいな格付しちゃうんだよ」




橋本調査役は、うまい冗談を言えて嬉しいようだった。


私は受話器を握りしめた。




「行って、見てきてよ。実際にあるか。で、稟議書に添付して。ちゃんと保存状態も分かるように、写真も撮ってね。あと、資金の出所も。もし館長の言う通り、本当に無料で譲ってくれたなら、何かやり取り残ってるでしょ? それも添付してね」




課長と支店長のデスクに視線を移した。


「外出中」と書かれた札が立ててあるだけだ。


電話を代わってくれる相手はいない。


あらゆることが、悪い方向に動き始めていた。私は抵抗した。




「美術館は名古屋で、実行は三月末です。出張すると、間に合わ……」


「は? じゃあ、稟議、戻そうか?」


「それだけは勘弁してください。あと、良いですか」私は感情を抑えて言った。


「名古屋は関西じゃない。中部です」。


受話器越しに、橋本調査役があくびをしているのが分かった。




私たち法人営業課の行員は稟議を上げる際、薄い氷のような期待をうっすらと抱く。


「もしかしたら、すぐ承認になるかもしれない」と。


愚かなことだ。融資部の人間というのは、期待を打ち砕くことに最も長けた人材なのだ。




「橋本調査役、何て言ってました?」




受話器を置くやいなや、背後から伊藤が話しかけてきた。


漆黒の短髪は丁寧に整えられている。ネイビーのスーツはちっともよれていない。


彼はハンサムボーイだった。大きく黒い目が、不安気に揺れていた。


綺麗な目だ。この手の目を揃える人間は、だいたいのことは大目に見てもらえる。




「格付にイチャモンつけられた。資産調査の美術品、現物確認してこいって言われたよ」


「え。でもB美術館って、名古屋ですよね?」「うん。ま、来期かな」


「え。でも、そうすると黒川代理の実績になりませんよね」「しゃーないよ」




名古屋出張のしんどさ。後任の誰かに実績を取られる。


メリットデメリットを考えると、もう諦めるしかなかった。




彼は何かを口にした。謝罪のようにも聞こえた。


格付を作業したのは彼なので、責任を感じているのだろう。


私が手をひらひらと降って返すと、お辞儀をして席に戻っていった。




私はしばらくその背中を見ていた。


爽やかで、若くて、学歴も申し分ない。全てを備えている。


だが、この手の好青年は、銀行には山ほどいる。そして、急速にくたびれていくのだ。




私は席を立ち、法人事務課のシマへ行き、小谷さんのデスクに近づいた。


彼女はパソコンを睨んでいた。




「ねえ、小谷さん。今期の店の予算って、あといくら残ってる?」


「え?! あぁ。黒川代理かぁ。見てみますね」




彼女は朗らかに応えた。後ろめたいことは何もないような顔をして。


それはネイルサロンの予約画面だった。


掲載されていた爪たちは、絵の具製造業の社長でさえ叫びだしそうな配色だった。




彼女が立ち上がると、スカートがふわりと舞った。


画面をそのままに、奥の棚へ行き、ファイルを確認していた。


彼女が告げた金額は、手土産を二つ買えるくらいしかなかった。

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