初めてしず姉様に会ったのは確か五つのときだった。お正月、一通りお年始のご挨拶を済まされたお父様は、孫娘を連れてこの家を訪れたのだ。あのときのしず姉様のお姿は、くっきりと脳裏に焼きついている。

 浅葱色に扇と菊が描かれたお振り袖を身に纏った姿は、本当にお人形のようだった。ふっくらとした頬は薔薇色でまだおぼこく、だけど薄化粧をした唇は大人にはない色香を放っていた。結い上げた髪には摘まみ細工の簪が揺れて、しゃらしゃらと涼やかな音を奏でる。

 なんて愛らしい、美しい人かとため息が零れた。

 身体が弱くて外で遊べず、友だちもいなかったわたしに、優しく手を差し伸べてくださった。お部屋でかるた遊びをして、おじゃみを教わった。しず姉様がおみやげにと渡してくれた手鞠のような小さな飴は宝石みたいで、ずっと取っておきたかった。なのにしず姉様はわたしの口にぽん、と一つ飴を放り込んだのだ。いつでも買うたるさかいに、おあがり、と。

 今思い出しても、頬に甘い飴の味が蘇るようだった。

 父と、母の笑い声。そうだ。あのとき、母はわたしたちを見て朗らかに笑っていた。父は目を細めて、頭を撫でてくれた。何故だかあの日はとても幸せな空気がこの家を包んでいた。

 そういう日もあったのだ。今までどうして思い出さなかったのだろう。それともこれは、わたしが創り出した美しい記憶なのだろうか。

 突然、がらりと玄関の戸が開く音がして夢想は遮られた。ごめんくださいの声もない。掃除の手を止め不審に思いながら駆けつけると、血相を変えた女の人が、甲高い声で叫ぶ。

「しずはっ、しずはどこ!」

 しず姉様のお母様、絹江さんだ。取り乱した様子で、髪はほつれ、元々のつり目をさらにつり上がらせて、こちらを睨みつけている。

「しず姉様は、近くにお使いに出ましたけど……」

 おずおずと答えると、絹江さんはさらに恐ろしい形相で金切り声を上げる。

「やめて! あの子を姉様やなんて呼ばんといて! 前にも言うたやないの、ほんに覚えの悪い」

 ぶたれるかと思い身構える。だけど絹江さんは手を上げたりはせず、視線をわたしから外した。そろ、とわたしの肩に温かい手が触れる。

「どないしはったんですか」

「笹本さん! しずを使いに出すやなんて、どういうことやの」

「さ、笹本さんは今日は具合が悪くて……それで、しず姉……しずさんが代わりにて」

 天気もいいし、散歩がてら行ってくると言って出たのはつい今し方のことだ。わたしも一緒に行こうとしたが、少し一人になりたいと言われたのだ。久方ぶりに気分のよさそうなしず姉様のお気持ちに水を差すのも憚られて、そのままお使いをお願いした。

「どないしてくれるの。あないなことのあったあの子を一人で使いに出すやなんて」

 笹本さんを見上げると、小さく頷きを返してくれた。そうか、この人はしず姉様のお子が流れたことを知っているのだろう。

「しずに何かあったら――どないしょう、しず……しず……」

 それほど心配するのなら、どうしてしず姉様に悲しい思いをさせたのだ。離れて暮らして、一度も様子を見にきたこともない。手紙ひとつ寄こしたこともない。

 あんなに泣いていたのに。お母様に嫌われていると、この世で一つの縁に見放された子のように、力なくしゃくりを上げるしず姉様のことを、この人は知っているのだろうか。これまでに一言でも、優しい言葉をかけてくだされば、しず姉様があれほど悲しむこともなかったろうに。

「探しに、探しに行かな……」

 絹江さんは酷く狼狽えて、唇は血の気を失い、指先はずっと震えていた。

「奥様、落ち着いてください。何かあらはったんですか」

 問いかけに、絹江さんは一瞬目を見開いたあと、縋るように笹本さんの袖を掴む。

「史生がおらんようなりました。書き置きを残して」

 戦慄く唇から零れた言葉に、わたしは凍りつく。

「しずと、添い遂げると」

 さっと笹本さんの顔色が変わる。

「警察に連絡します。かましませんな?」 

 笹本さんは絹江さんを促し、玄関を出た。電話を借りに行くのだろう。慌てて追いかけようとするわたしを留め、笹本さんはいつになく厳しい口調で言った。

「董子さんは家におってください。鍵を閉めて、万一史生さんがきても決して家に上げてはあきません」

「わたしも、わたしにも探さして」

「あきません。しずさんが帰ってきたら、二人で戸締まりをして待っていてください」

 両肩を強く掴まれて、わたしは頷くことしかできなかった。

 玄関戸の鍵を閉め、勝手口と雨戸もすべて閉めた。そうして自分の部屋に閉じこもり、あめをそっと膝の上に置いた。怖くて怖くて、何かに縋っていなければ叫び出してしまいそうだった。

 いつもと同じように愛らしいけれど、どこか悲しげな、不安そうな表情をしている。

「お前もしず姉様のこと、案じとるん?」

 滑らかな頬を撫で、問いかける。もちろん返事はない。あめの幼げな面立ちにしず姉様が重なる。

 添い遂げるて、どういうこと。駆け落ちしようということだろうか。だけどしず姉様は史生さんとはもう関わる気はないのだ。

 史生さんは優しい人だ。そして、気が弱い。そんな思い切ったことができるとは考えられないけれど。年の瀬に彼が訪れたときの思い詰めた様子が脳裏に過る。

 なんも起こらへん。きっとしず姉様は帰ってきはる。史生さんはただ一目、しず姉様に会うてちゃんとお話がしたかった、それだけや。きっと、きっと。

 言われたとおりにわたしはじっと待っていた。しず姉様が帰ってくるのを。ちょっと寄り道をして遅くなっただけだと言って、悪戯っぽく笑うのだ。

 そうやって言い聞かせれば言い聞かせるほど、不安は膨らんでいく。

 まんじりともせず睨む虚空を過るのは、蝶……また、あの灰色の蝶だ。ゆらゆらと弱々しく羽ばたきながら、目の前を飛ぶ。

 不吉な兆し。

 突然、どんっと腹の奥を殴られたような痛みが走った。おなかの中を混ぜ返されたような不快感に吐き気がした。

 だけどわたしは立ち上がる。じっとしていられなかった。小さな手が爪を立てて急き立てる。

 言いつけを破り、わたしは家を飛び出した。足はまっすぐに頭に描いた場所へと向かう。

 神社だ。あの、いつもお詣りをしている、小さな神社。なんとなく、しず姉様はあそこに行ったような気がしたのだ。

「そう、やんな」

 誰にともなく問いかけると、おなかの奥がきり、と痛む。まるで中から抓られたみたいに。

 行かな。わたしが行かな。わたしがしず姉様を見つけな。

 下駄を突っかけ、走る。外套を忘れたけれど、走っているせいか、寒さは感じない。こんなに走れるものかと、驚いた。身体が弱かったから運動なんてほとんどしたことがなく、ひ弱な自分が大嫌いだったのに。身体は前へ前へと進む。神社の石段を駆け上がり、鳥居をくぐったところでわたしは立ち止まった。

 神社はとても静かだった。白梅の蕾みが膨らみ、今にも綻びそうな具合で、墨で描かれたような景色にほつ、ほつと雪のように浮かび上がる。

 もう少ししたら、花は咲き薫香を放ち、春の訪れを知らせてくれるだろう。まだ少し肌寒い中、お揃いのショールを羽織って梅花を愛でて、帰ったら甘酒で温まる。そういう、ささやかで幸せな一日を過ごすことはもうない。

「しず姉様……」

 寒い中、しず姉様は境内の砂利の上に横たわっていた。着物の裾がめくれ上がり、下肢が露わになっている。

「しず姉様、しず姉様……」

 呼んでも応えてくれる声はない。

 老婆の言葉が頭に蘇る。可哀想。女の子はみぃんな可哀想、と。

 女の子でなければ、こんな目に遭うこともなかったのだろうか。

 わたしはよろよろとしず姉様に近づく。

 御髪は乱れ、頬には涙のあとがあった。目は見開かれ、虚空を見つめている。もう、わたしに微笑んでくれることはない。

 胸には真っ赤な花が咲いていた。それは徐々に大きくなり、着物へと広がり、背中へと伝い地面に惜しみなく花びらを散らす。

 血……しず姉様の、血。こんなにも流れて土に染み込んで。

 もったいない。

 頭に浮かんだ気持ちに戦慄しながらも、ごくりと喉が鳴った。さわさわとおなかの中で小さな者が蠢く。言葉はないけれど、何を訴えているのかわかる。そう、あなたのお母様よ。

 わたしはしず姉様のお身体のそばにしゃがんで、傷口にそっと指を這わせる。まだ仄かに温かくて、緋牡丹のように鮮やか。なんて綺麗。

 そう、いつだってしず姉様はお綺麗だ。こんな、こんなことになってさえ。

 笹本さんが編んだショールとお袖が広がって、まるで場に曝された花札みたいだ。梅に鶯、桜に幕、菊に盃、艶やかな札が散る。

 わたしのもの。この美しい人はわたしのものだ。

 つぶり、と傷口に指先を埋める。くらりと目眩がした。温かくて柔らかくて――いいにおい。

「董子! 何してんの!」

 鋭い声に我に返る。笹本さんが駆けてくる。絹江さんは金切り声を上げて、鳥居のそばでへたりと座り込んだ。

 わたしは慌てて手を引っ込める。紺地の袖には僅かに赤黒い染みができていた。血のにおいでくらくらする。

 蝶がはらり、はらりとしず姉様の上に舞い降りる。傷口を覆い尽くすように群がり、口吻を伸ばしている。血を吸っているのだろうか。わたしは払いのける気力もなく、ただ禍々しい羽虫を睨めつける。笹本さんには、見えてはいないみたいだ。

 よろよろとしず姉様のそばにしゃがみ込み、乱れた御髪を整えて差し上げている。

「ほんに、ええお嬢さんやったのに。なんでこないなことに」

 ハンケチで口元を押さえながら、笹本さんはしず姉様を見つめる。目の端には涙が滲んでいた。

 絹江さんの声を聞きつけたのか、駐在さんと、数人の男の人がこちらへ走ってくる。その中の一人が、川で若い男の遺体が上がったと言っていた。きっと史生さんだ。喧々囂々と怒声が響くのを、わたしはぼんやりと見つめていた。



 しず姉様の葬儀は、近くの寺でひっそりと行われた。ご遺体は本家に運ばれることなく、参列者はほんの数人だった。絹江さんは始終、魂が抜かれたように茫洋として、ときおり、堰を切ったように泣き出す。まともな会話はほとんどできないような状態だった。

 あれほど冷たくあたってきた娘の死がそれほどに悲しいのだろうか。不思議でならなかった。それともわたしが子どもだから理解が及ばないのだろうか。

 わたしは滅多に袖を通すことのない制服を着て、しず姉様の葬儀に参列した。その日のことはよく覚えていない。ずっと、水の中にいるみたいだった。視界は歪み、音は幾重にも反響して意味を失っていく。

 あの日からずっと、わたしはふわふわと羊水の中を漂っているような面持ちだった。ここは現実ではない。きっと目覚め、わたしは新しい世界に生まれるのだと。

 わたしは涙を零さなかった。泣けば、しず姉様を失った現実を受け止めなければいけない。悲しめばこの喪失を確定してしまう。現実から目を背けていれば、いつかこの忌まわしい夢は消えて、また愛しいしず姉様に会える。そんな気がして。

 そうやって自分を騙しながら月日は流れていった。

 半月が過ぎた今日、笹本さんはしず姉様の遺品を片づけていた。本家に送り返すためだ。それが一段落すると、今度は自分の荷物をまとめた。

 笹本さんはこの家を去ることになった。僅かな着物と割烹着、お菓子の缶に入れた装飾品は、この家にやってきたときと同じ小さな旅行鞄に収められた。この家で笹本さんが暮らしたのは七年ほどか。その間、ちっとも笹本さんの荷物は増えなかったのかと思うと、胸がきりきりと痛くなった。

「ほんまに行ってしまうん?」

 躙り寄って袖を掴む。食い入るように笹本さんの顔を眺めた。慣れ親しんだ、優しい眼差し。母娘のように暮らした人――。笹本さんの中に、必死に探す。母の面影を。

 董子――笹本さんは、あの日わたしを呼び捨てにした。動揺していたせいもあるかもしれない。だけど……声が、違っていた。いつもの穏やかな笹本さんの声ではない。幼いころ、母の鏡台を勝手に使っていたときに叱られた、あのときの声に聞こえた。母との思い出は少ない。だから、鮮明に覚えている。険のある声でわたしを呼んだ、慕わしいとは言えないけれど、だけど確かにわたしの名を呼んだ、母の声。

「また、うちを置いて行くん」

「お嬢様があないなことになって……このまま、雇てもらうわけにはいきません」

 もうとっくに腹を決めていたのだろう。笹本さんの言葉に迷いはなく、思い止まってくれることはないのだろうと悟る。

 ならば、確かめなくては。共に暮らすことが叶わないのならばせめて、もう一度呼んでほしい。董子、と。

「あの、あの……笹本さんは……うちの」

「峰子さんのことやったら、よう知ってます」

 わたしの言葉を遮り、笹本さんは抑揚のない声で言う。

「ほんま一目見たら忘れられへんような別嬪さんで。せやけど気位が高うて、めったに笑わん人やった。我が子にさえ、微笑んでやることもせんと」

 苦々しく吐き出して、笹本さんはゆるゆると首を振る。

「峰子さんがよう言うてはった。綺麗に生まれついても、なぁんもええことなんかなかった、て」

 ため息と共に吐き出した言葉は重く畳の上を漂う。笹本さんはそろりと皺の目立つ手で自分の頬を撫で、悲しげに微笑む。

「厭味なこと言うて思てたけど、しずさんのこと思たら、そういうものかという気もします」

 美しい娘はそれだけで幸せになれるものかと思っていた。だけど、美しさ故に禍を呼び込むこともあるのだろう。

「董子さんもあと二、三年もすれば目の覚めるような美人にならはります。せやさかい……どうか、気ぃつけてください」

「うちは……そないなこと」

 否定しかけたわたしの手を、笹本さんはぎゅっと握ってくる。かさかさと乾いているけれど、温かい、優しい手だった。

「……何か、困ったことがあったら梧桐先生を頼ってください。きっと力になってくれます」

 言いながら手渡してくれた紙片には、電話番号と住所が印刷されていた。

「さ、そろそろ、お迎えがきますよって。董子さんも支度せんと」

 するりと手が解けた。わたしはぬくもりが消えないように拳を握り締める。笹本さんは立ち上がり、車で運んでもらう荷物を玄関まで運んでいった。

 わたしは本家で暮らすことになった。まだ十四歳のわたしが一人で暮らすのは難しい。親戚筋に預けるか養子に出すという話もあったらしいが、絹江さんがわたしを引き取ることを強く望んだらしい。

 娘を亡くした絹江さんの希望に強く反対する人はいなかった。絹江さんは、人が変わったように優しく接してくれる。寂しさからなのか、罪悪感からなのかはわからない。しず姉様のお父様は、相変わらず仕事ばかりで家の中のことには無関心なようだ。

 この家は父の遺言によってわたしのものであることには変わらないが、成人するまでは亀島家で管理することになっている。

「あの、笹本さん……」

 あなたは、あなたは本当は、お母様ではないの。お顔は全然違うけれど。

 問いたかった言葉はついに声にならず、胸の奥深くに沈んでいった。

「董子さん、どうかお元気で」

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