四ノ三

 その晩、しず姉様は具合が悪いからと早々に床についてしまった。笹本さんが買ってきた好物の豆大福にも手をつけず、夕飯もいらないと部屋に籠もってしまったのだ。

 わたしが季節の変わり目やちょっとした変化で体調を崩すのは日常茶飯事だが、しず姉様が寝込むなんて久しぶりのことだった。この家にきたばかりのころは、住み慣れた家を離れたせいか顔色の優れない日もあったけれど。

 久方ぶりの笹本さんと二人の食卓はとても静かだった。朗らかなしず姉様の声が聞こえない夜はなんだかとても味気ない。

 しず姉様が言い出したこととはいえ、史生さんとわたしの行為に傷ついたのかもしれない。恋仲の男が別の女と交わっているのを見るなんて、本当はお辛かったのだろう。わたしがもっとはっきりと断っていればよかったのだ。

「そない沈んだ顔せんでも、しずさんは大事おません。誰かてぐつ悪いことくらいおますよって」

 笹本さんに諭され、わたしは何も言えずただ曖昧に頷いた。昼間のことを言えるはずもなく、わたしはおつけもんをひとつ摘まんでぽりぽりと囓る。

 わたしはというと、案外とけろりとしていた。歩くと足のつけ根に違和感を感じるけれど、それ以外はなんということはない。血はすぐに止まった。月のものに比べればちょっと針で指先を刺したような些細なことに思えた。

 処女ではなくなったことに、何の感慨もなかった。好いた人と結ばれたのならまた違ったのかもしれない。史生さんが帰り際まで心配して大丈夫か、大丈夫かと声をかけてくださったのが申し訳ないくらいだ。

「董子さん、たんと召し上がってくださいよ」

 箸が止まっていたわたしに、いつものように笹本さんが声をかけてくる。わたしはお揚げさんの炊いたんを頬張り、鰮の煮つけも骨ごとかぶりついた。食べ始めるとおなかが空いていたことを身体が思い出したようだ。いつになく食欲のあるわたしを見て、笹本さんは驚いて目を丸くしていた。ああいった行為は、おなかが空くものなのかもしれない。

 お茶碗を片したあと、一服する前にわたしはお薬の時間だった。日々飲んでいるお薬と、茶色の小瓶が盆に載っている。湯冷ましの入った湯飲みを手で弄びながら、床に伏しているしず姉様を思った。

 今朝、わたしの胸に触れながら、しず姉様は泣いていらした。お顔は見えなかったけれど、確かに泣いていらした。親子ほども歳の離れた男にその身を捧げることを厭うて。

「笹本さん。わたしもいつか、お嫁に行くの」

 問いかけに、笹本さんははっとしたようにわたしを見て、それから手元に視線を落とした。

「……本家さんが決めはることやさかい」

 妾腹とはいえ一応は先代の血を引く亀島家の娘だ。父はわたしにもお金を遺してくれたけれど、子どものわたしはそれだけでは生きてはいけない。疎まれながらも亀島家から様々な援助を受けているのも事実だ。それは柵となってわたしを呪縛する。恩があるのだから本家のいうことには従わねばならないと。

 それなら、いっそ情けなどかけずに捨ておいてくれればよかった。だけどそれでは体裁が悪いということなのだろう。

「董子さんは、何かしぃたいこととか、欲しいもんとかありますか。うちでできることやったらなんでも力になりますよって」

 せめてこの家にいる間は。そういうことなのだろうか。笹本さんのどこか切迫した表情に、わたしは唇をきゅっと引き結ぶ。その場しのぎの答えではいけない。真剣に、心から思っていることを告げなければ。

 さりとて、欲しい物は特にない。視界に入るのは、薬包紙に包まれたいつもの粉薬と、ときどき笹本さんが手に入れてくる茶色い小瓶。

「わたしは、丈夫になりたい。身体が丈夫やなかったら何もできひん」

 元気でさえいれば、亀島家の束縛から逃れて生きていけるかもしれない。今は何もできないけれど、身体が丈夫ならなんとか仕事も見つかるだろう。今のうちに家のことをもっと教えてもらえば、笹本さんのようにお手伝いさんになれるかもしれない。読み書きを覚えれば、もう少しできることも増えるだろう。

 目の前の小瓶を手にして、ひと思いに飲み干した。身体中を何かが這い回るような違和感に肌が粟立つ。

 それでも、これで少しでも体力がつくなら。

 急いで白湯で口を濯いでも、こびりついた味は流れてはくれない。酸いような甘いような、苦いような――だけどどこかで覚えがあるようなにおいがする。

 笹本さんは、わたしが飲み終えるとほっとしたように息をついた。それから、細い目をさらに細めて微笑む。変わりない優しい表情……だけど少し、いつもと違う気がした。

 薄い唇の血色のよさがまるで紅を引いているように見えた。とりたてて美しい容貌というわけではないのに、女のわたしが見てもはっとするほどの色香を放つ。口元の小さなほくろがより一層、艶めかしさを引き立てていた。



 しず姉様は三日間ほど寝込んで、今日は午後になってようやく床からでてきた。おなかが空いた、と言って。

 笹本さんが作っておいてくれたお粥と卯の花を平らげて、行儀悪く足を投げ出す。白くぽってりとしたふくらはぎが見えた。

「笹本さんは留守?」

「うん、わたしのお薬をもらいに」

 言いながら、日めくりが昨日のままになっていることに気づいて、わたしは一枚、薄い紙を千切った。

「十二月かぁ。早いなぁ」

 しず姉様はしばし日めくりをじっと見つめ、それからわたしの手を握った。

「董子。大丈夫? ごめんなぁ、うち……強引やったかな」

「ううん。全然」

「ほんまに?」

 心配そうに首を傾げる様子が幼く愛らしくて、なんだか胸の中がこそばゆい。それに本当に、自分でも驚くくらいなんともないのだ。

 わたしは拳を腰にあて、胸を張って見せた。

「ぜんっぜん、平気!」

「なんや、董子は前より血色ええなぁ」

 ほっとしたように息をついて、しず姉様は笑う。董子が元気なんが一番や、と言って。 

「元気が一番はみんな一緒や。しず姉様、もう少し横にならはる? お医者様には診てもらわんでええの?」

「まぁ、病気ちゃうし」

 月のもののせいだろうかと考えて、気づく。そういえばこの家にきてから、月のものがあったという話は聞かない。わざわざ人に言うことでもないが、わたしがその日のときにはしず姉様はめざとく気づいて、身体を温めるよう言ってくれたり、綿花の上手な畳み方を教えてくれたりした。

 わたしの沈黙に、しず姉様は少し困惑したように目を逸らし、それから普段と変わりない口調で告げた。

「つわりもたいしたことあらへんかったし、ちょっと肥えたくらいにしか見えんと思てたけど。ぼちぼち、ごまかしきかへんな」

 そろ、としず姉様はお腹に手を当てる。その仕草でようやく、わたしはしず姉様が懐妊していることを悟った。ふっくらとしたお腹は寝間着の帯紐を押し上げて、その丸みを強調している。

 いつから――いや、最初からだ。この家にくるより前から。

「あ、あの、史生さんはこのこと……」

「史生のややこやない」

 吐き捨てるように言って、しず姉様はわたしのことなど見ずに笑う。

「これが、うちがこの家に預けられたわけや。嫁入り前の娘が腹ぼてやなんて知れたら世間体が悪なるからなぁ」

「お、お医者様へは……」

「産院なんぞ、結婚もしてへん娘が行くところやないて、お父様が」

 娘よりも世間体を重んじる親に辟易しているのだろう。悲しみは、とっくの昔に通り過ぎてしまった。しず姉様のお顔からはそのように感じられた。

「史生とはもう会いとうない」

「けど……」

「もうええんや」

 しず姉様はわたしの言葉を鋭く遮る。一瞬宿った怒りは光を放つ前に消えて、ふっくらとした手はそろそろと帯の下を撫でる。

「この子がおなかからいーひんようなったら、うちは何食わん顔でお金持ちのとこへお嫁に行く。相手さんには療養中いうたあるらしいから、痩せとかなあかんなぁ」

 ふふ、と自虐的に微笑むその目がひどく幼く見えて、わたしは泣きそうになるのを必死に堪えた。

 史生さんではないのなら誰の子か、とは問えなかった。しず姉様も自ら話そうとはしない。語りたくないのなら、それは誰でもない。人でさえないのだ。そう、しず姉様は鬼の子を身籠もったのかもしれない。

 わたしは怒りで目眩がした。吐き気を堪えて拳を握り締めていると、不意に柔らかいものがぶつかってくる。

 しず姉様はわたしの首に腕を巻きつけ、抱きついてきた。その感触とぬくもりに息が止まりそうになる。

「董子」

「し、しず姉様……?」

「……この子が生まれたら、ここで育てて欲しいなぁ。董子と、笹本さんがそばにおってくれたら心丈夫やさかい」

「うん……」

 わたしは曖昧に頷く。そんなこと、できるのだろうか。本家の方々はどう思うのだろう。任せておいてと言えない自分の無力さが歯痒い。

「うちな、ややこは好きやなかった。せやから、いっそ流れてしまえばええと思て……」

 史生と。ため息とともに吐き出した言葉には後悔が滲んでいた。自分に気があるのを知って、史生さんを誘惑したのだと、しず姉様は言う。

「けど、このうちで過ごすうちにささくれてた気持ちも落ち着いて……なんや、ちいこいのがここにおるんか思うと、かいらしいような心持ちになって。生まれてもいーひんのに」

 お腹を撫でるしず姉様のお顔は穏やかで、わたしは泣きそうになる。どうして、そんなふうに微笑むことができるのか、わからなかった。

「子どもて、かいらしいもんやねんなぁ」

 それがたとえ鬼の子だとしても? その問いは口にはしない。宿った命を慈しむしず姉様が憐れで、愛おしかった。なんて心根の優しく美しいことか。

「けど、お母様はうちのこと嫌てはる。うちがこんなんなるずぅっと前、小さい頃からや。なんでやろ。なんでやろな……そない悪い子やったんかいな……」

「ええ子や。ええ子やったに決まってる。しず姉様は優しいもん」

 どうして。どうしてこんなに優しくて可愛らしい人を嫌うことができるのだろう。お腹を痛めた子を母親は慈しむものではないのか――いや、それはただのお伽話なのだ、きっと。だってわたしの母も、出て行った。七歳のわたしを置いて。

 わたしは何も言えず、ただしず姉様の頭を撫でた。柔らかい髪を指で梳き、頭頂部を何度も手のひらで優しくさする。ひっくひっくとしゃくりを上げるしず姉様はまるで小さな子どものようだった。だからわたしも幼子を宥めるつもりで、根気よくしず姉様の頭を撫でる。

 ああ――また、蝶が。窓は閉めてあるはずなのに、どこから入ったのか。

 灰色の蝶は冬枯れの下では蜜にありつけず彷徨うのか。弱々しくその羽根を震わせ、しず姉様とわたしの周りを羽ばたく。

 気がつくと、羽音が聞こえるほどにたくさんの蝶が集まっていた。鱗粉で視界がざらつく。あまりの数にぞっとはしたが、たかが蝶だ。毒もなければ針もない。ただ紙切れのような薄羽を震わせるだけ。憐れな、弱い虫けら。

 わたしはそれらを目で追うのを止め、しず姉様を慰めることに意識を向けた。

 可哀想。可哀想に。女の子はみんな可哀想。耳元で老婆が囁く。

 ふと、手のひらにこつりと何か当たった、なんだろうと思い、髪を梳くふりをして指でそこを探る。

 しず姉様の頭部には、小さいけれど硬い突起があった。



 しず姉様が下肢を血に濡らして倒れたのは、その翌朝のことだった。

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