今日は朝から笹本さんは出かけていた。月に一度、しず姉様の様子を報告するため、本家に行くのだ。何故、しず姉様が本家から遠ざけられているのか、わたしは知らない。ご両親は様子を見にこられることはない。娘が心配ならばご自分で顔を見にいらっしゃればいいのに。

 笹本さんは最初、わたしも連れて行こうとした。本家には顔を出さなくていいから、四条であんみつでもいただきましょう、と。だけどあいにくわたしは朝から少し熱っぽく、出かけるのは断念した。

 熱のせいか、ひんやりとした甘味を思い浮かべるとたまらなくそれが恋しくなった。わたしは枕元の吸い飲みから水を一口含み、布団に潜る。昼下がりの陽射しは穏やかに、カーテン越しに畳の上に落ちていた。差し込む光に、秋の深まりを感じる。

 しず姉様は今頃何をしているのだろう。また本でも読んでいるのだろうか。少しだけ、様子を見にきてくれないかな。ほんの数分、おしゃべりでもできたら気が晴れるのに。

 考えていると目が冴えてしまって、わたしは身体を起こした。お布団の桔梗の模様がふにゃりと歪んで見えたけれど、しばらくするとそれも収まった。少しおなかが空いているのに気づいて、わたしは布団を這い出た。

 居間のちゃぶ台にはお鍋に入ったお粥、銀紙で包んだおにぎり、桃缶と塗りの菓子楊枝、それからお茶碗と硝子の小鉢が置いてあった。しず姉様はまだ召し上がっていないようだ。

「お部屋やろか」

 独りごちてしず姉様のお部屋に向かう。廊下はいつもより薄暗く感じて、わたしは目を擦る。まだ熱が下がっていないからだろうか。

 廊下の先では蝶が一匹、惑うようにふらふらと飛んでいた。このところぐんと寒くなったから、風を避けて迷い込んだのか。

 灰色の羽根が誘う先に、しず姉様のお部屋があった。元々は客間なのだが、父の死後は使うこともなかった。

「しず姉様、お昼にせえへん?」

 そっと声をかけてみるけれど、返事はない。聞こえなかったのか、お部屋にはいないのか。諦めて立ち去ろうとしたとき、中からくぐもった、うなされているような声が聞こえた。

「しず姉様……?」

 うたた寝して悪い夢でも見ているのかもしれない。それなら、起こしてさしあげなくては。

 わたしはそうっと襖を開けて中を窺う。硝子障子から刺す光がしず姉様のふっくらとしたおみ足を照らしている。着物の裾がまくれ上がり、紅色の八掛が酷く鮮やかに目に飛び込んできた。

 膝を立てて開いたしず姉様の股に、誰かが顔を突っ込んでいる。丸まった男の背は荒い呼吸のためか上下して、その手は着物の中に。

 何が起こっているのか、理解できなかった。行為そのものの意味はわかる。笹本さんが教えてくれた。男が女を――とりわけ若く美しい女をどのようにしたいのか。結婚して子を成す行為と同じだけれど意味はまったく違うということも。

 だけどそれはずっと遠い国で起こっている戦争のようなものだと、わたしは感じていた。このように身近に起こるものだなんて、つゆほども思っていなかったのだ。わたしは呆然として、声も出せないままだった。

 しず姉様は途切れた息をときおり漏らして、腰をくねらせている。引き攣った声は苦しげで、聞いているだけできゅっとわたしの胸まで苦しくなった。

 暴漢が庭から入り込んだのだろうか。しず姉様が、襲われている。

 怖い。どうしよう。誰か呼びに行かなくては――。

 だけど次の瞬間、再びわたしは凍りつき動けなくなる。しず姉様が呼んだその名前を、わたしは知っていた。

「史生……」

 本家の書生さんだ。わたしに竹久夢二の絵はがきをくれた……。親しくはなかったけれど、優しい感じの人だった。

 名前を呼ばれて、男は名残惜しげにしず姉様から身体を離した。縞模様の着物の下に白いシャツを着込んでいる。衿は乱れて、いつもかけている眼鏡を外しているけれど、間違いない。

 どんっと胸を叩かれたような気がした。それからどくどくと血が身体中を巡る。

 しず姉様はしどけない姿態でゆらりと指先を史生さんの頬に這わせる。

「お嬢さん、会いたかった……」

「ん、あかん。静かに……董子が起きてまう」

 ぎし、と畳みが軋む音に気色ばみ、しず姉様が擦れた声を漏らす。しかし言葉ほどにはわたしのことなど気に留めていない様子で、天井を見つめながら吐息を零した。史生さんの手は急くようにしず姉様の身体を這い回る。衿を寛げ、豊かな膨らみを果実をもぎ取るような手つきで掴む。思わず「やめて」と言いかけた。

 乱暴にしないで。しず姉様を傷つけないで――。お願いだから触れるのならもっと優しく触れて。

 わたしは祈るように心の中で繰り返す。

 だけどしず姉様は多少乱暴にされても気にも留めていないのか、口元を緩めて史生さんの髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

 ぎゅっと唇を嚙む。少し血の味がした。足が竦んで立ち去ることもできず……いいえ、違う。わたしの中の浅ましい気持ちがこの場に身体を留めようとしている。

 あられもない姿で男に身を任せるしず姉様を、この目に焼きつけたかった。髪はほつれ汗で額に貼りついている。着物は乱れに乱れて帯でようよう身体に巻きついているという有様だ。

 それでも、しず姉様は美しかった。艶めかしく、それでいて清らかだった。

 紅潮した頬に比べて、乱れた衿から零れた乳房は白くて――とても白く見えて、目に焼きつく。

 わたしは知らず涙を流していた。悲しみなのか怒りなのか、それとも嫉妬……羨望、なのだろうか。どの言葉も今の気持ちに当てはまらない。ただ、名もない感情が飽和して水となり滴り落ちてしまうのだ。

 恍惚としていたしず姉様の目がゆっくりとこちらを捉えた。とろりとしていた目はふいに冷めた色を帯びる。

 わたしたちはしばし見つめ合った。

 しず姉様のお顔に驚きはなかった。侮蔑も、嫌悪も。ただ覗き見をするわたしのことをまっすぐに見ていた。唇は薄く微笑んでいるようにさえ見えた。

 カッと頭に血が上る。頬が熱い。鼓動が激しくなって、こめかみがずきずきと痛んだ。恥ずかしくてたまらなかった。淫らな行為を為ているのはしず姉様なのに、わたしのほうがいやらしく醜いから。覗き見しているのを、しず姉様に知られてしまったから。

 自分を蔑みながらも、わたしは見つめ続けた。

 二人のいきれに部屋の中は夏が戻ったみたいだった。暑くて湿っぽくて息苦しい。

 どこから迷い込んだのか、蝶が二匹、宙を舞っていた。小さな羽根を震わせて、しず姉様と史生さんの間を言ったりきたり。

 いえ……二匹ではない。目を懲らすと一匹、また一匹と数が増える。 

 どこかで卵が一斉に羽化したかのように、蝶は増えていく。自らの意志で飛ぶ花のよう。これほどたくさんいては可憐な姿も気味悪く思えた。

 蝶の群れの下で二人は四肢を絡ませ睦み合う。なんだか現実の光景ではないように思えた。わたしはまだ、夢の中にいるのだろうか。

 身体が強ばって、石にでもなってしまったようだった。怖い夢を見ているとき、よくこんなふうになる。恐ろしいものが追いかけてくるというのに、わたしの足はメヂューサの視線に触れたかのように固まって地面に貼りついてしまう。

 視線だけをきょろきょろと動かしていると、蝶が一匹、ふらふらと群を離れてこちらへと飛んできた。襖の間をするりと抜けて、暗い廊下に吸い込まれていく。

 それを見て、まるで呪縛が解けたように指が動き、足が動いた。

 わたしは息を詰めて、そうっとその場を離れた。



 部屋に戻り布団に伏して小一時間ほどが過ぎただろうか。董子、と襖越しに声をかけられた。しず姉様の声だ。

「史生はもう帰ったで」

 どのような顔をしていいかわからない。寝たふりでやり過ごそうか。わたしは布団に潜って息を詰める。しばしの沈黙のあと、そろりと襖が開く。しず姉様がそばに座った気配がしたかと思うと、ちょいと布団をめくられた。

「董子。驚かせてしもたな」

 お盆にはお茶と、干菓子が載っていた。それから、しず姉様の腕には市松人形。本家から連れてくるくらい大切にしているものだ。

 わたしは黙って身体を起こした。しず姉様の顔を見るのが怖い。

「董子、あーん」

 言いながらしず姉様はわたしの口元に干菓子を運ぶ。わたしは固く唇を結んでいたけれど、あまりにぐいぐいと押しつけてくるものだから、根負けして薄く唇を開いた。和三盆の塊は舌で触れた途端、ほろほろと崩れていく。

「甘い……」

 つぶやいた途端、ぽろぽろと涙が零れた。わたしは大急ぎでもう一つを口に放り込む。少し咽せると、しず姉様がお茶を手渡してくれた。

「慌てんでも、全部董子がお食べ」

 優しく背中を撫でられて、わたしは堪えきれずにしず姉様に縋りつく。

「しっ……しず姉様は、もうすぐお嫁に行くんやないの?」

「そうや」

「お嫁に、行くの?」

「駆け落ちでもする思た?」

 肩を竦めて笑うその顔が、とても悲しく思えた。

「許婚はな、うーんと年上やけど、うーんとお金落ちや。ええべべ着せてもろて、ええもん食べさしてもろて、今までと変わらん暮らしができる。うちに飽きたら妾囲いはるやろうから……そしたら、うちも気ままに好きなことする」

「それで……ええの?」

「うん」

「せやけど、その……えっと……お相手は、しず姉様が――」

 その先は言えなかった。だけどわたしが何を考えているか悟ったのだろう。しず姉様は乾いた声で言う。

「はなから、うちにはそんな値打ちはないんや」

「え……」

 わたしはしゃくりを上げながらしず姉様を見る。ぐしゃぐしゃに濡れたわたしの顔を、しず姉様は優しくハンケチで拭ってくれた。

「けど、そのおかげでこの家で過ごさしてもろてる。董子と一緒に暮らせて、嬉しいんよ」

 わたしの知らないところで、しず姉様に一体何があったのだろう。本当ならばお嫁入り前なのだから、お母様からいろいろ教えてもらったり、家族との時間を大切にするのではないのか。一人でこんな辺鄙な場所に預けられて。

 どうしてしず姉様がこの家に預けられたのか、深くは知らない。なんとはなしに家族と折り合いが悪いのだろうと思っていただけで。だけどよくよく考えればおかしな話だ。

 ここは先代のお妾さんが住んでいた家。そしてその娘が住まう家だ。そんなところに大事な嫁入り前の娘を預けるものだろうか。しず姉様のお父様は、人一倍世間体を気にする人だと、笹本さんから聞いたことがある。お母様もきっと同じように体裁を重んじる方なのだろう。一度、あの人の前でしず姉様と呼んだことがある。そのとき、恐ろしい形相で叱られた。しずを姉様などと呼ぶなと。妾腹の娘が本家のお嬢様を姉と呼ぶなど穢らわしい。そういうことなのだろう。

 そんなご両親が、この家にしず姉様を預けるのはなんだか不自然なことに思えた。

「どないしたん、董子」

「わたしも……しず姉様と一緒におれて、嬉しい」

 蟠りを呑み込んで、わたしはしず姉様に寄りかかる。しず姉様はわたしの背をとんとんとあやすように叩いてくれていたけれど、ふと思い出したように袂に手を突っ込んだ。取り出したのは一葉の絵はがき。史生さんからもらった、宵待草の絵が描かれた例のはがきだ。

「これ返すわ」

「……勝負やから」

 わたしは返却を拒んで、俯いた。綺麗な絵だと思っていたけれど、もうまともに見られなかった。見ればあの光景を思い出す。悍ましくて恐ろしくて、なのに――しず姉様は美しかった。

 思い出して、また涙が溢れた。あんな光景を美しいと思うだなんて、わたしはなんて浅ましいのだろう。

 わたしの涙を見て勘違いしたのか、しず姉様は吐息混じりに訊ねてくる。

「なぁ、董子。董子は……史生のこと好きやったん?」

「ううん、そないなこと……」

「史生、優しいもんな?」

「好きやない」

 身近にいた若い男の人は、史生さんだけだった。優しい人だと思っていた。ただそれだけ。だけどあのときは、なんだか知らない人に見えた。顔は確かに史生さんなのに、何か別の忌まわしい生き物に見えたのだ。

 好きではない。ほんの淡い気持ちを抱いてこれが恋なのかと夢想したこともあるにはあるけれど、それは砂糖菓子のように儚く溶けて消えたのだ。

 口の中に残る甘い味を感じながら思う。

 恋ではなかった。史生さんはただの、知っている男の人。それだけだ。

 なのにどうしてこれほど涙が溢れるのだろう。胸が閊えて苦しい。嗚咽を押し殺しながら、わたしは泣いた。しず姉様はとんとんと背中を叩いて宥めてくれる。

 一頻り泣いたあと、すんと心が静かになった。わたしが落ち着いたのを見て、しず姉様はお膝に座らせていた市松人形を抱き上げた。

「董子。この子、もろてくれへんかな」

「え……これは、しず姉様が大事にしてはった……」

「市松さん。名前はあめ」

「あめ?」

 雨とも飴とも違う抑揚で、しず姉様は人形を呼ぶ。

「かいらしいやろ。うちが生まれたときにひな人形と一緒に買うたんやって」

 面立ちはどこかしず姉様に似ていた。おぼこい目元にぷっくり唇のおちょぼ口。眉は少し困ったように下がっていた。

 しず姉様は愛おしげに、市松人形のふっくらとした頬に触れた。視線で促され、わたしもそっと撫でる。見た目はこれほど柔らかそうなのに、触るとひんやりとして固い。

 豪華な京友禅のお振り袖は、お人形用の反物で仕立てられたものだ。桃色を基調に淡い色合いで小さな菊花が描かれている。花菱柄の帯に簪、鳳凰が刺繡された筥迫はこせこまでも精緻に作られている。

 美しく、どこか親しみの持てるお人形だった。持ち主の女の子が密かに語りかけたり、自分を重ねたりできるような。

「この子……うちが持ってたら、あかん気がするねん」

 しず姉様は寂しそうに呟いて、わたしの手を導き、お人形の額に触れさせる。滑らかな黒い絹糸の手触りの奥に、こつりと固い物が指先に触れた。なんだろうと思って、幾度か指でその場所をなぜる。そっと髪を掻き分けてみると、小さな突起があった。

「角……」

「怖い?」

「ううん。怖いことない」

 わたしは慌てて頭を振る。角が生えてしまったから、この子はこんなに困った顔をしているのか。怖いなんて言ったら、きっと深く傷つくだろう。女の子だもの。

「うちの手元にあったら、この子は鬼になってしまう」

 しず姉様も人形と同じように眉を下げ、困ったように笑う。

 お嫁に行くときには連れて行かない。そういうことだろうか。なんだか人形が気の毒になった。しず姉様はわたしの腕にお人形を委ね、懇願するような目で見つめてくる。

「お願い、董子が持っとって」

 わたしはしばし逡巡したけれど、しず姉様の言いようがとても切実だったから、嫌とは言えなかった。

「あめ」

 呼んで人形の髪を撫でると、愛着が沸いた。あめは突然しず姉様の手を離れて不安で、困っているように見える。

 大事にする。しず姉様の代わりに大事にする。誓うように心で言って、あめを胸元に引き寄せる。

 わたしの様子を見て、しず姉様は安堵の息をつく。それから、思い出したように一言つけ加えた。

「そうや。史生とのこと、笹本さんも知ってはるから」

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