【忍び寄る、雨の匂い】
登山道 (といっても比較的広い。道が整備されていた当時は、車で途中まで入れたというが)の入口に自転車を置いて山を登り始める。
道中、会話は殆どなかった。空は次第に曇ってきたけれど、初夏特有の蒸し暑さは健在である。ただ、歩いているだけでも、玉のような汗が背中を伝う。
足が痺れて痛かったけれど、音は上げなかった。私より一歩先行して歩く都くんは、まるで背中に目でも付いているみたいに、私が遅れ始めると歩調を緩める。隣に並んだら、私の姿を常に視界の端に収め、さり気なく呼吸の乱れを聞いている。休みたいな、という考えが頭を過ると、「ちょっと休もうか」とごく自然に声をかけてくれる。
やっぱり、都くんは優しい。
時越山の中腹辺り、一時間ほど登った先の開けた空間に、悠久の木はあった。
「綺麗……」
ぽとりと雫が落ちたみたいに呟く。
初めて見たな。本当に夏でも紅葉しているんだな、と面白味のない感想を抱いた。視界のすべてを、鮮やかな黄色が埋め尽くしている。
濃厚な蜂蜜みたいな黄色。
春の日光のような、黄色。陳腐な表現しか出てこないけれど、今って、六月だよね? という疑問や常識を、文字通りひと目で吹き飛ばす光景がそこにあった。
周囲の木々とは違う圧倒的な存在感に呑まれたというか、しばらく私たちは無言だった。
吹きすさぶ風の
「じゃあ、願い事をしようか」という都くんの声で、ようやく我に返った。危うく、当初の目的を忘れてしまうところだった。
「あ、うん。そうだね」
手を叩こうとして、神の御心に届く祈り方って、きっとこういうのじゃないな、と思い直す。目を閉じ静かに両手を合わせた。
『素直に、私の気持ちを伝えることができますように』
そう祈った。シンプル過ぎて、色んな意味にとらえられそうだけど、たぶん大丈夫だよね。隣の都くんを薄目で窺うと、彼も無言で両手を合わせていた。
何を祈っているんだろう、と気になったけれど、訊くことはできなかった。手を降ろしたあとの瞳はずっと遠くの何かを見ているようで、私が踏み込んではいけない
「じゃ、帰ろっか」と、憑き物が落ちたような顔で彼が笑う。「うん」と私は頷いた。
時々、彼は遠い目をする。
時々、ぶつぶつと何かを呟く。
それは、島に戻って来てから増えた彼の癖で。昔から彼をよく知っている私は、時々壁を感じて不安になる。
それでも、彼は幸せそうに笑っていたのだから、これでいいんだと不安を追い払う。
この日、まだ悠久の木は枯れていなかった。
そしてこれが、最後に見た、都くんの笑顔だった。
雨の匂いが、近づいていた。
◇
雨が降り出したのは、下山を始めて間もなくのこと。
パタタ――と木の葉を叩く雨音が聞こえたと思ったら、本降りになるまですぐだった。
山中を歩いているので、葉や梢に遮られることで直接体に当たる雨はさして多くないが、雨音の数と強さに、こりゃ当分の間止みそうにないなって思う。
「傘、持ってきてる」
提げていたショルダーバッグから、ピンク色の傘を取り出した。
傘を差すと、「ごめん」と言いながら都くんが入ってくる。おお、相合傘だ。
広げた傘が全天のスピーカーとなって、雨音を断続的に耳に運んだ。白く煙っていく景色を見つめ、甘い雨の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
ちょっとだけ、切ない匂い。
「そういえば、さ」
空は、墨をぶちまけたように真っ暗だったけれど、遠くの景色は少しだけ白んでいる。そのうちこの雨も止むだろうか。
「最近、真人くんとあまり口きいてない?」
前から気になっていたことだ。もしかしたら、私の勘違いかもしれない。でも、二人はここ最近話をする機会が減ったように思う。都くんが何も言わないので聞かずにいたけれど、やっぱり気になるものは気になるのだ。
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「あー……、うん。やっぱりわかるか」
「どうしたの? 喧嘩とか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね。この間行われた大会で、僕のほうがタイム良かったからね。そんで、ちょっと嫌味言われた。アイツ、もしかすると僕のこと嫌っているのかも」
「そうかなあ?」
嫌っている、とは違う気がする。
「それはさ、都くんのことをライバル視しているからだと思うよ」
「それは知ってる。それについては、僕だって同じだもん」
「あれ、そうなんだ。というか、やっぱりそうだよね」
「うん。僕だってアイツのこと気にしてるもん。真人はもう、とっくに忘れちゃってるかもしんないけどさ。小学生の時、県の大会で一緒に泳いだことあるんだよ」
「へー、ほんとに?」
スポーツで勝ち負けを気にするっていうのは、たぶん私には一生かけても理解できない感情だ。だからこそ、いいなって思った。いかにも男の子って感じだ。
「そん時、まあ僕が勝ったんだけど、タイム差は三秒だった。で、今年の県大会で競い合ったときのタイム差が二秒。わかる? 一秒縮まってんの。これってさ、結構怖いよ。いま現在、伸びしろで負けてるってことだもん」
「あー、なるほど。なんかわかる」
身近にいる相手と無意識のうちに比べてしまうのって、確かにあると思う。親しければ親しいほど、余計に。
「まるっきり手が届かない相手になると、もう叶わないと判断して尊敬に変わるんだけど、自分よりちょっとうまい人には嫉妬しちゃうもんなんだよね。そういう、負けたくないなっていう心理が、冷たい態度になって現れてるだけだと思う」
言いながら思う。ああ、この気持ち、私が健康な人に対して抱くものと似ているかもって。
「そうかなあ?」
「そうだって。嫌われてるわけじゃないよ、絶対」
「だといいけど」
ビターな声で、彼が言った。
ところが、切り上げようとした話の矛先が、今度はこっちに突き刺さる。
「そういう光莉もさ、最近涼子と気まずい空気になってない?」
「え、なんの話?」
とぼけてみた。
さっき、都くんがとぼけた理由がわかった。
本当は、ちょっと――いやだいぶ心当たりがある。
なぜなのかはわからない。涼子ちゃんと真人くんはかなり親密な関係になっているはずなのに、時々彼女は私に素っ気ない態度をとる。私が真人くんのことを好きだって、勘づかれているのかな?
伸びしろか、とふと思う。
恋の進行度をランクであらわすとしたら、いま、私は涼子ちゃんに一段階か二段階負けている。私の伸びしろで、ここから逆転できるのかなあ。
「なんて、ごめん。ほんとはちょっとだけ自覚があるの。時々涼子ちゃん、言い方が少しキツいっていうか。たぶん、私嫌われてるんだと思う」
「光莉までそんなことを言う」
「だって、私は心が醜いから」
あーあ。言っちゃった。これでウザさ100%だ。
「私の心の汚さが、涼子ちゃんにはバレているんだと思う。今日、ここに来たのもね、これ以上涼子ちゃんに嫌われたくなかったからなの。せっかく教えてもらった情報を無下にしたら、あとあと悪口言われるに決まってるじゃん」
自分でも、なにを言っているのだろう、と思う。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いくらなんでも、涼子ちゃんがそこまで意地が悪くないのもわかっているのに、あふれ出した感情の
「ほんとはね、不安なんだ」
ふと、元気だった幼い頃を思う。明日は無条件に存在していて、毎日が満ち足りていた。病気が発覚してからは、将来は色味を失い、モノクロになって崩れ落ちた。それから、自分の居場所を確かめるように、かまってちゃんな発言が増えた。
「不安で不安でしょうがないけど、心臓がこんなだからって愚痴ばかり言ってたら、それこそ嫌な奴じゃん? だから、気持ち押し殺して本音隠して、いつも笑って見せているの。なんか惨めだ、私って。最悪なんだよ、私って」
「光莉」
強い口調で肩を揺すられて、やっと我に返った。
「落ち着いて、光莉。あんまり感情を昂らせちゃダメだ」
「うん」
動悸がひどくなっている。ひとつ、深呼吸をした。
「そうだね、ごめん。誰が悪いわけでもないの。全部自業自得で、全部私のせい」
「そんなことないよ」
「え?」
「光莉はさ、自分のこと卑下しすぎだと思う。もっと自信持っていいよ。不満があるなら吐き出せばいい。不安があるなら相談すればいい。誰も聞いてくれなかったとしても、僕だけは必ず聞くから」
「うん。ありがとう」
わかっていたんだ。最初から。
私がかまってちゃんな発言をすれば、かならず都くんが気遣ってくれることは。それに甘えてばかりの私は、年相応なくらいには子どもだった。
「真人も、僕ももちろんだけど、涼子も光莉のこと嫌ってなんかいないから」
「そうなのかな」
「うん。僕が保証する」
道端で突然手を引かれ、キラキラとした他人の幸せを押し売りされる感覚。私が、他人にやっかみを覚えるメカニズムはこれに近い。自分の心に余裕があるときは、どんな前向き発言でも、キラキラした幸せでも、付いていけるし向上心もわいてくる。しかし、傷つき疲弊した心には、時としてそれらが鋭利な刃物になってしまう。
眩しすぎて――。
自信をもつことか、と思う。
彼が言う通りなのだ。つまるところ、要因があるのは私のほうで、不用意に心が傷つかないようにするため、自分を愛して胸をはるしかないのだ。
傷のなめ合いなんて、と笑う人がいるかもしれない。
けれど、こういった、支え合うのが目的のなめ合いならば、そんなに悪くはないよね。
「僕らの間にも、ちょっとずつ気持ちのズレというか、誤解があるのかもしれないね」
「誤解って?」
「いや、なんでもない」
三秒くらい、意味深な間があった。
「気持ちを真っすぐ伝えたら、必ず届くよってこと。告白するという意思は変わらないんでしょ? 光莉は」
それとなく三味線を弾かれた気もしたが、今は聞き流した。願いが叶うかどうかは別として、私の覚悟は今さら揺らがない。だから「もちろんだよ」と、強い口調で宣言した。
ここで言いよどむのはカッコ悪いし。
そのために、ここに来たんだし。
そのとき、私の覚悟を後押しでもするように、灰色の空から一筋の陽が差した。「天使の梯子みたい」と呟きが漏れ、幻想的な光の帯に目を細めた。
「そろそろ雨止みそうだな」
そう言った都くんの目は、やっぱりどこか遠い目で。「都くんはさ」と言いかけたが、ここからあとに続く『誰か好きな人がいるの?』という肝心の台詞は喉元で急停止した。
「ん?」と首を傾げた彼に、「なんでもない」と曖昧に答えた。
聞けるはずなんてない。だって。
きっと彼は、何かを隠している。
きっと彼は、叶わぬ恋をしている。
私と同じ目をしているから、そう思う。
でも同時に、今は語りたくないんだろうな、ということもわかった。
「ねえ、私の気持ち届くかな?」
結局、そんなことを言った。
「大丈夫。届くさ」と彼は言った。
「うん。急いで帰ろう」
傘を少し閉じ、明るくなってきた空を見上げる。踵を返して一歩大きく足を踏み出したとき、ふわっとした浮遊感に襲われる。
「えっ……!」
強い雨が降ったことで地盤が緩み、山道が半分ほど土砂崩れを起こしていたのだ。あるはずの地面が、ない。
前方不注意になっていた自分を呪う間もなく、ぐらりと体が傾いた。足元にぽっかりと口を開けた、奈落のような崩落跡に落ちていく。
土砂が流れた先にあるのは、川だ――!
体を支えようと伸ばした手は、しかし虚しく空を切る。
怖いのに、まったく声が出なかった。
極限状態に陥ると、声なんて出せないらしいよ。キャーなんて叫べないんだって、と言っていたのは誰だったっけ? なんて、バカみたいなことを考える。
代わりに叫んだのは、都くんだった。
「光莉!」
右胸と脇腹に強い衝撃を感じて。地面と灰色の空が代わる代わる見えて。
落ちていく体を止める術もなく土砂にまみれて斜面を転がり落ちて、そのままザブンと川に落ちた。
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