第五章「新城光莉」
【降水確率は50%】
今でもはっきりと覚えているのは、その日の天気予報があまり思わしくなかったことだ。
降水確率は50%。
『朝から小雨がパラつきますが、午後からは晴れ間も見えるでしょう。ただし雲の流れは速く、
テレビから流れる音声を、ただぼんやりと聞き流していた。
一定時間内に雨が降る確率の平均値なのだから、降水確率が50%だとしても地域によって異なる、という当たり前のことを知っていたなら。
この日しかないんだ、という焦燥を、抑え込むことができていたなら。
自分のことを最優先に考える傲慢さを、捨て去ることができていたなら。――きっと、あんな悲劇は起こらなかった。
ある意味これは――私が招いた、人災なのだ。
六月、と言えば梅雨入り。
私は梅雨の時期があまり好きじゃない。身体に様々な不調がでやすくなるからだ。
たとえば、頭痛、腹痛、喘息、手足のしびれにイライラ。
男性よりも女性の方が影響を受けやすいという、気圧や気温、湿度の変化などがきっかけとなって生じる不調のことを、『気象病』と呼ぶらしい。雨の日になると古傷が痛む的なアレも、気象病の一種らしい。
起こる原因は、自律神経の乱れなのだというが、私にとってはもっと由々しき問題だ。
不整脈が起きたとき、それが『気象病』なのか、『QT延長症候群』の症状なのか、判断が難しいからだ。
「梅雨は天敵。そんなわけで、私は今、電源をオフにしているのです」
教室の机に突っ伏していると、「いや、寝てるだけの話でしょ」と都くんが突っ込んできた。
気象庁による梅雨入り宣言から一週間あまりが過ぎたころで、なにかとぐずつき易い空模様が続いていた。
「省エネ、とでも言ってくださいな」
「カロリーを気にするような体型でもないでしょうに」
真正面にある、空席に都くんがどっかりと座る。そっと顔を上げると、どこか呆れたような眼差しと目が合った。
そんだけ食べてよく太らないね、とでも言いたげだ。
食べ物の吸収率が悪いのか、それとも遺伝なのかはわからないが、太らないのは体質である。給食を残さず食べるのは私のモットー。人生なんていつどうなるかわからないのだし、明日死んでも後悔しないよう、常に全力で生きなくちゃ、と私は思っているのだ。
「んー、まあね。細いって言われるのは悪い気はしないけど、もうちょっと脂肪がついてもいいんじゃないかなって思う」
特に胸とか。
落としかけて持ち上げた視線は、窓際の席で真人くんと話し込んでいる涼子ちゃんに自然と向いた。少し頬が膨らむ。
「ああ」と私の視線が向いてる先を目で追い、都くんが訳知り顔になる。
「そうだな。少しばかり、涼子に別けてもらった方がいいかもね」
「失礼だよ」
「ごめん。冗談だよ。まあ、んでも、持病を持っている人は、梅雨の時期結構辛いっていうもんね」
そう言って、即座に都くんが口を塞いだ。
「ごめん。気が利かない発言だった」
更なる謝罪が唇に乗る前に、「いいよ」と私は笑い飛ばした。気配りができる彼の性格はよく知っている。
でも、と線香花火ほどの閃きとともに、イタズラな心がむくりと体を起こした。
「お詫びでもないけど、私のお願い聞いてくれる?」
「お願い?」
「そう」
「僕に?」
「そう」
「真人じゃなくて?」
「真人くんになんかお願いできないよ……」
そっか、と再びの訳知り顔。
「そういうことなら、お安い御用だ」
こんな具合に、幼馴染様は私の事情を心得ている。
また利用したみたいな形になって、なんかゴメンね。
◇
悠久の木の噂は知っていた。もちろん。
でもそんなの、人々の欲望が生み出した噂、もしくは、作り話なんだとそう決めつけてきた。けど、一度気になり始めるともうダメで、涼子ちゃんに言われた一言が、ずっと私の心の中に引っかかっていた。
「誕生日にさ。悠久の木のある場所まで行って願い事を言うと、なんでもひとつだけ叶うんだって」
信じられる? と都くんに問いかけると、目を閉じしばらく黙り込んだ。
どうして、何も言わないの?
悠久の木の管理者を祖母に持つあなたがそうやって黙ると、いよいよ真実味が増してきちゃう。
「誰に聞いたの?」
「涼子ちゃん」
「そっか」
再びの沈黙。教室中を支配していた喧噪までが、消え失せたように静かだ。
「まあ、それもいいかもね」
「いや、待って。まだ私なにも言ってない」
話の筋が繋がっていない……と思う。たぶん。時々彼はこういうところがある。人の考えを先読みして会話を進めてしまうというか。普段ぼーっとしているようでなかなか切れ者だ。
「でも。そんなことを聞いてくるということは、したい願い事があるんでしょ?」
「まあ、それは……」
ここでノーと言ったなら、そもそも何のためにした話かわからない。
「行ってみたい?」
こちらからしかけていた提案を先に言われ、軽く戸惑った。
「うん」
「わかった。行こう」
話の結末は、あまりにもあっさりした同意に着地し、それはそれでまた困惑。ふわっと浮かんだ心の座りが悪いというか。
とにもかくにも、こうして私たちの悠久の木行きが決まる。
『光莉、頑張って』
そういった、同情めいた言葉をかけてくれた人たち。けれど、彼らから私は何をもらっただろう。なんの不自由もなく、平穏な日々が約束されている人らが向けてくる憐れみは、時として敗北感を抱かせる。相手に悪意があるわけじゃない。そんなことはわかっているのに、好きで病気になったわけじゃないんだぞ、という醜い嫉妬の感情が私の心を逆撫でして、先々のことを考えると過る不安と一緒になって私を内面からじくじくと汚していくのだ。
息苦しい嫉妬が全身を駆け巡り、治まったあとにやってくるのは自己嫌悪だ。汚れていく自分に耐えられなくなると、時々私は発作を起こした。
ところが、都くんだけは違った。他意も打算もなく、ただ純粋に手を差し伸べてくれるのだ。
そのことを私は心得ていた。
自分の体に不安がある。
体力にだって自信がない。
並べ立てると理由はいくつでもある。不安だからこそ、誰かに着いてきて欲しいと願ったのは真実だ。だが同時に、私が願えば、都くんが断らないであろうことも。
打算的なのはむしろ私のほうなのだ。私は、ズルい女だ。
◇
出発は、それから三日後。日曜日の朝七時。
言うまでもなく、私の誕生日だ。
待ち合わせ場所であるタバコ屋の前まで自転車に乗って行くと、華やいだ朝日をバックに都くんが手を上げた。
「あれ? 都くんその自転車は?」
彼が跨っている自転車は、普段乗っているものとは違う、地味なデザインの黒いママチャリだ。
「ああ、これね。爺さんの自転車借りてきた。僕の奴、いまちょうど修理に出してて」
「そか」
「変速付いてないから道中大変そうだけど、体力づくりになっていいかも?」
「はは、そだね」
朝の挨拶は、淡泊に終わった。
「じゃ、行こっか」という彼の言葉を合図に、私たちはペダルを漕ぎだした。「うん」
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