【どうした? 来なよ?】

 ピシャ、という音がして引き戸が締まると、しん、と部屋が静まり返った。

 全員が、茫然自失と口を開いたままのなか、最初に声を発したのはやはり真人だ。


「ど、どうするよ」


 よほど動転しているのだろう。真人にしては珍しく頓狂声とんきょうごえだ。

 それも無理のないこと。僕らにしてみれば、この状況はまさしく青天の霹靂へきれきだ。


「来ているのがほんとにヤクザの人だったらさ、都くんのお母さん殺されちゃうの? それやばいよ絶対に……!」

「落ち着け。まだヤクザだと決まったわけじゃない。それに、罪を擦り付けようとしているかもしれないという、可能性の話だ」


 不安を隠そうともしない光莉を宥めて声を重ねる。とはいえ、容疑者が容疑者を訪ねてくる理由、他に何かあるだろうか。真犯人が別にいるなら、話は違うが。


「いや、でもよ。都の母親が犯人だという証拠もないのに、そんなにうまくいくか? 手にかけたら、そいつら余計に不利になるんじゃ?」

「そこをうまくやるという算段があるんだろ。くだんの男を殺す動機そのものは、母さんにだってある。遺書なりなんなり捏造することで、自殺に見せかけることだって可能だろうし」

「そういうことか。でもよ、それじゃただの卑怯者だろ!」

「ヤクザという職業の人間が、清廉潔白せいれんけっぱくだといつから錯覚していた?」


 正論で返すと、真人が押し黙った。

 真人は感情をむき出しにすることも多いが、本来曲がったことが嫌いな性格。他人の不幸をかえりみないその身勝手さに、嫌悪を示すのは当然のこと。


「加勢しなくていいのか?」

「だから落ち着けって。ああ言って出ていったからには、何か策でもあるんだろうさ。僕の母さんはそういう人だ。それに、ガキの僕らが行っても変わらない」

「でも、どうしてお母さんがここにいるってわかったんだろ」


 光莉が不安そうに眉尻を下げる。


「おそらく、涼子が家に電話したからだ。涼子の親父さんは、あの通り顔が広い人。この場所に僕たちがいるという情報が、各所に拡散した可能性が高い。それを嗅ぎつけられたということだろう。ついでに言うと、山の麓にゃ盗難車も置きっぱなしなのだし、情報が線で繋がったとしても不思議じゃない」

「そ、そっか」

「それに、僕だって、傘の件をこっそり警察に電話しておいたしね。そういう視点で見ると、来たのが刑事である可能性もあるにはあるが……」

「だと、思うか……?」


 真人の小声に、首を横に振って応じた。


「可能性は低い。なんせ、黒いスーツ姿の男だし」


 見た目からして胡散臭い、よな。

 何はともあれ移動しよう、と話をまとめ、玄関から死角になる場所を選んで廊下を進んだ。裏口を目指して。


「私のせい、なのかな」涼子の声は震えている。


 涼子は責任感の強い性格だ。先ほどから押し黙っていたその裏で、自分を責め続けていたんだろう。だから、「関係ない」と僕は否定した。


「涼子が何かをしたわけじゃないし。事件に巻き込まれたのは、僕の母さんの落ち度だ。気にすんな」

「だけど」

「いいんだ。今は、生き残ることだけを考えろ」


 今にも泣きそうな顔で、「うん」とかろうじて涼子が頷く。

 忍び歩きでたどり着いた裏口は、薄暗い廊下の突き当りにあった。手のひらが汗ばんでいるのを自覚しながら、ノブを捻ってこっそり開けてみた。

 風に乗って、話し声が聞こえてくる。男の声と女の声。スーツ姿の男と、母が話しているのだろう。

 裏口のある場所は、正面玄関から見ると死角になっている。恐る恐るといった体で全員が屋外に出る。光莉と涼子をその場に残し、僕は真人と一緒に壁沿いに進み、慎重に角から顔を覗かせた。


「玄関のところに母さんがいる。取り囲むような位置関係で男が四人。まあまあ、ガタイのいい男だ。距離は、ここから十数メートルってところか」

「やっぱり、ヤクザのほうなんか?」


 実況すると、背中から真人が疑問を被せてきた。


「たぶんね。あれが警察の人間なら、人相で人を判断するのは金輪際止めにしなくちゃいけない」

「つまり、人相悪いってことね?」

「まあな」

「もし、俺たちが見つかったらどうなる?」

「どうなると思う?」


 質問で返すなんて、自分でも悪趣味だなと思う。


「ああいった手合いは、好き好んで目撃者を残さない。母さんがもし負けたなら、ここにいる全員を闇に葬るかもしれないね」


 奇襲をしかけてこなかった以上、一応の交渉ラインがありそうだが――。母の性格だ。大人しく従うとは思えない。

 真人がごくりと生唾を飲んだ。


「今のうちに、光莉と涼子だけでも逃がすか?」


 光莉と涼子が待機している裏口からなら、走れば十秒足らずで森の中に入れる。もっとも、森の中は下草が生い茂っていて走りにくいので、奴らに気づかれたらすぐにでも追いつかれるだろう。


「いや。向こうは、こっちの人数を正しく把握していないかもしれない。今、下手に動き回って物音を立てるのは、むしろリスクが高い。何か動きがあってからにしよう」


 逃げろ、の合図は事前に決めておいた。女子二人を逃亡させたあと、僕か真人が追手の足止めをしなくちゃいけないだろう。願わくば、こうして時間を稼いでいるうちに警察が来てくれるといいのだが。

 つくづく思う。この場所が圏外だったのと、電話が玄関の近くにあることが不運だと。


「やれやれ……。私一人消すのに随分とまた雁首がんくび揃えちゃってまあ。人数集めに、苦労したのかい? それとも、私が怖くなって怖気づいていたとか?」


 意識が光莉たちのほうに一瞬向いたその時、玄関の方角からドスの効いた母の声がした。

「言わせておけば……」という男の声に、真人の顔が青くなる。


「こいつは……」

「交渉決裂って感じだね」


 身を潜めたまま、視線だけを戻した。余裕綽々よゆうしゃくしゃくという態度で直立している母を、武器を持った四人の男が包囲していた。

 建物の前は広場になっているが、スペースはさほど無い。なるべく母から間合いを取りたいのだろう。じりじりと男たちがすり足で動く。


「おいおい……。あいつら武器持ってんじゃねーかよ。大丈夫なのか?」


 男らが持っているのは、警棒のような武器に木刀。それと短刀だ。

 やはり明白な殺意があるらしい。


「どうだかね。一先ず見守る以外ないさ」


「油断するなよ。この女は来栖円。バケモノだ」という男の声に、母が反応した。「へえ、やっぱり知ってたのか」

 ぴん、と張り詰めた緊張感。緊張した空気を破ったのは、続いた母の低い声音だった。


「……どうした? 来なよ」


 挑発した直後、双方が地面を蹴った。

 右手から警棒を振るってきた男の肘に、いつの間にか握っていた短刀の柄を母が突き立てる。

 左側から振り下ろされた木刀は、返す刀を平行に構えて受け止める。

 短い鍔迫りの音が収まった刹那、正面から来た男を前蹴りで遠ざける。左の男の二撃目をかいくぐり、反撃で手首を浅く切りつけた。


「ぐあッ」


 悲鳴を上げて木刀を落とした男は、手首を押さえて蹲った。

 最小限の動きで相手の攻撃を受け流す様に、「さすがだな」と素直な感嘆がもれた。

 最後の男が振るってきた短刀を身を捩って二回避けると、すれ違いざまに太ももを切りつけた。この男も、戦意喪失して武器を取り落とした。これで二対一。

 地面を激しく踏みしめる音と、武器と刃が交錯する音が山の中に何度も響く。


「す、凄い……」


 肩越しに声がして振り返ると、目を丸くした光莉がすぐ後ろにいた。

 これが殺し合いであることを忘れてしまうほどに、母の戦いぶりは華麗にして、圧倒的。


「お前の母ちゃん、いったいどうなってんだよ……!」と真人。

「あの人さ、元々極道の女なんだよ。北九州にあった、ナントカ組ってところの幹部の三女。いったんヤクザの道に進んだものの、結婚を契機にカタギに戻ったんだけどね。しかし、血は争えんというか、腕っぷしはすこぶる強い。その道では有名人だよ」


 もっとも今は、他の組に吸収されて母が所属していた組はないらしいが。そんな家系だから義父も義母も小難しくて、寄り付きたくないって生前親父が言ってたっけな。


「なるほど……。お前が運動神経いい理由がようやくわかったぜ」


 母と男たちが何度か交錯するたびに倒れている人数が増えていき、やがてスーツ姿の男が四人地面に転がった。

 四対一もものともせず向かっていく度胸。

 致命傷を与えることなく、それでも確実に、相手の動きを止められる部位を適格に狙った斬撃。

 さすがだな、来栖円。いや、母さん。


「ゆ、許してくれ……。この通りだ。頼む」


 男の一人が母に向かって土下座する。


「アンタを首尾よく仕留めたら、本部長に推薦してやると言われたんだ。でも、これでわかった。アンタは噂通り強かったよ。俺たちが身の程知らずだったよ。どうか、どうか命だけは……!」

「思ってたより下っ端なんだね、お前ら。まあいい、命は大事にするもんさ」

「あ、ありがとうございます……!」


 どうやら、けりが付いたようだ。安堵し顔を出した、僕と真人に目を向け、母がニッコリと微笑んだ。

 死合しあいを演じたとは思えぬほど柔和な笑みに、釣られて苦い笑みになる。


「変なのに巻き込んじまって悪かったね。さっさとこの場所を去ろう――」


 ――が。母の言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 パアン、という乾いた音が響くと、こちらに向かって歩を進めていた母がゆっくりと崩れ落ちてくる。

 開いた瞳孔。スローモーションのように倒れてきた体を、物陰から飛び出した僕が必死に受け止める。

 抱きとめて背中に回した手が、真っ赤に染まっていた。


「母さん……ッ!!」

「キャアアアアアアアア!!」


 絹を裂くような光莉の悲鳴と、ははははは、という男の下卑た笑いとが、重なって周囲に木霊した。

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