【青みがかった月明かりが、真実を浮き彫りにしていく】

 離婚が成立して父と別れたあと、母は本土に渡ったそうだ。

 九州にある実家に戻ろうという気は最初からなかった。気難しい親だ。どんな考え方をしているのか、どんな性格なのかも心得ていたから。離婚したんだという事実をもし伝えたら、どんなリアクションをされるかもまた。

 そこで、松江市の中心部に、アパレル関連の店を開くことにした。僕と同じ町に住んでいたのか、という驚愕があったが、特に口は挟まない。

 小さい店であったが次第に固定客を増やし、事業は順調に拡大していった。全盛期には、年商一千万円程度までいったんだそうだ。


「そんなときだったかな。あの人と出会ったのは」


 母が当時契約を結んでいた税務会計事務所の社員に、五歳年下になる税理士の男がいた。人当たりがよく、受け答えもしっかりしているやり手の人物で、会社経営についての相談事をよく聞いてもらったそうだ。

 次第に、彼に対して寄り添うような感情が生まれ、それは向こうも同じだったらしい。数ヶ月の間に何度かデートを重ね、やがて彼の方から告白をしてきて交際することになった。

 趣味は旅行で、デートプランはいつも彼が考え、高級なお店に連れていってくれては常に支払いもしてくれる。

 離婚をしたのち、日々生きるのがやっとの乾いた生活を続けていた母にとって、まるで神様からのプレゼントのように感じる存在だった。自分を励ましてくれて、素直に甘えられて、隣にいてくれるだけで心地よい。


「そんな彼が、いつか結婚しよう、と言ってくれたんだ。不本意ながら舞い上がってしまうのも無理はない」


『結婚こそが女性の幸せ』と聞いたことがある。結婚することがすべてとはもちろん思わないが、僕の親権を手放した母が、再び幸せな家庭生活を夢見るのも自然なことなのだろう。

 ところが、真剣に結婚を考え始めた段階になってから、男に離婚歴があることが発覚する。娘を紹介され、この子の学費に三百万円ほど必要だという話をされた。


「渡したのか」


 母は無言で頷いた。貼り付けていた笑顔の仮面は、すっかり剥がれ落ちていた。


「恋は盲目って言うけど、本当だね。私、これっぽっちも疑ってなかった。お金が工面できたら、今抱えている問題が解決したら、お互いの両親のところに挨拶に行こうって言われたからかね。そこでなんとかお金をかき集めてさ、彼の口座に振り込んだの。でも、彼の実家に向かうはずだったあの日。待ち合わせ場所に彼は現れなかった」


 おかしいと思って電話をかけても繋がらないし、彼の職場があるはずの雑居ビルに行ってももぬけの殻だった。

 この段階に至って母はようやく気がついた。自分が結婚詐欺にあったのだと。この時アパレルショップの経営にも行き詰っていて、既に結構な額の借金があった。借金を返すためにまた借金をするという自転車操業に陥り始めており、間もなく店を畳むことになった。


「三百万という金額は、私にとっては大金さね。当然、親にだってこんなこと相談できないし、途方に暮れながらアルバイトで食いつなぐ日々になった」


 そうして一年が経過したとき、状況が動く。隣市の骨董品屋に、彼がいるという情報が人伝に入ったのだ。


「情報提供者は、探偵業をしている知人だった。名前と住所を変えていても、探偵の目は誤魔化せなかった。聞いて驚いたね。こちらが借金の取り立てに追われながら必死こいて生きているときに、のうのうと店を開いて生活してるって言うんだから。どうやらそうして、ちょっとした副業をしながら結婚詐欺をしている常習犯らしかった」

「それで? どうしたんだ?」

「行ったさもちろん。三百万、耳を揃えて返せとごねるつもりでもなかったが、文句のひとつでも言ってやらにゃ、腹の虫が収まらんしね。ところが」


 ここでまた、母の声音が変化した。憔悴しきった顔になる。


「そんな機会は、永遠に訪れなかった」

「どうして?」

「聞いた住所を元に店に行ってみたら、死んでたんだよ。彼が」


 寝起きの顔に、水をかけられたような衝撃。言葉を失っていると「違う、私が殺したんじゃないよ」と母が弁解した。

 その日、店内は無人で、呼んでも誰かが出てくる気配がなかった。

 不審に思った母が奥の事務室に向かうと、床の上に仰向けで男が倒れていた。胸から血を流しており、すでに男は絶命していた。

 因果応報だと母は思った。悪事を重ねてきたツケがまわってきたのだ、ザマあないねと。

 店を出たあと一一〇番にダイアルし、店の住所と、中で男が倒れていた事実のみを伝え、素性を明かさないまま電話を切った。

 話はこれで、終わりになるはずだった。

 ところがそれから数日後、母のところを警察の人間が尋ねてくる。

 事件当日、どこで何をしていたか? と問われて初めて気がついた。自分が殺人事件の容疑者になっているのだと。


「二ヶ月前にあった殺人事件の容疑者って、母さんのことだったのか!」

「大きい声だすない。まあ、そういうことだ」


 容疑をかけられる理由が、思えばいくつもあった。

 店を出入りする姿を、近隣の住民に目撃されていた可能性。(おそらく、挙動不審な動きもしていた)

 店から、自分の指紋が検出された可能性。

 そして何より、彼を殺害する動機があった。

 この日はのらりくらりと口八丁手八丁で乗り切ったが、再び捜査の手が伸びてくるのは確実。ここで捕まるわけにはいかない。

 そう考えた母は、着の身着のままアパートから逃走した。

 さて。どうやって濡れ衣を晴らそうか。真相究明の方法を、模索していく逃亡生活が始まる。しかしそんななか、ふと、気持ちの糸が切れる瞬間があったのだという。


「気持ちの糸が切れる瞬間?」

「ああ。瞬間というか、出来事というか。根底にある謎の話だ。最後に語るからもうちっと大人しく聞きな」


 もう、死んじゃってもいいかな、と思った。

 失った三百万どころか、借金は何倍にも膨らんでいた。留守番電話には、借金取り立てのメッセージがたびたび入っていた。

 自分を必要としてくれる家族なんて、最早一人もいないのだし。

 そうして行きついた場所が、自殺志願者を募る携帯サイトだった。


「中心となっていた人物に、いい場所を見つけました、と言われてたどり着いたのが、この神無し島だった。人生が行き詰った果てに行きついたのがこの島だったなんて、笑える話だと思わないか?」


 提案された自殺の方法は、島にある廃屋を利用しての練炭自殺。参加者は、母を含めて四名だった。

 流されるまま死に向かっていく最中、最後に車中で身の上話を披露しあった。みんな自殺に至るまでの、悲壮なエピソードを持っていたのだ。


「それなのに私ときたら、みっともないエピソードしかないんだよ。本当に惨めな人生だな、と思ったね」


 だから、何も言えなかった、と笑った母の顔は、これまで見たことのない悲痛なものだ。触るとひび割れてしまいそうなガラス細工とでもいうべきか。

 こんな顔をする人だったんだな、と思う。


「ところがだ。自殺をする場所に向かう途中、車の窓から信じられないものを見たんだよ」

「信じられないもの?」

「そう。それで死ぬのが怖くなった。まだ私は死ねないと、そう思った。だから、土壇場で車を降りたんだ」

「じゃあ、その運転免許証は」

「そうさね。練炭自殺パーティーの一人が持っていたものだ。死ぬ気はなくなったと駄々をこねて車を降りた私は、事が全部済んだ頃合いに廃屋に戻って、駐車していた車を持ち出した。運転免許証は、ダッシュボードに残されていたものだ」

「めちゃくちゃじゃないか。見損ないましたよ」

「借金がかさんで、殺人容疑をかけられて、逃げるために安易に自殺を選んだ。そのはてに怖くなって車を奪い逃走。とんでもないクズだと笑えばいいさ」


 笑えと言われても、到底笑えるもんじゃなかった。死ぬのは誰だって怖い。僕らだって、四人の中に人ならざるものとか死者が混ざっているんじゃないかと怯えているんだ。

 お互い口にだすことはないとしても。


「笑う気にはなれないよ。臆病者だとも最低だとも思うけど、母さんがそこで踏みとどまったからこそ、こうして再会できたのだと思えば」

「そうだねえ」

「でも、これでわかった。母さんが警察に電話をするのをためらった理由も、運転免許証を持っていた理由も。逃走時間を稼ぐために、身分を偽る道具にするつもりだったんだな?」

「その通り。なかなか切れ者に成長したもんだね」


 だけど、と僕は本題を切り出した。


「ひとつだけわからない。さっき言った、『信じられないもの』とは何だ? いったい何が、母さんに自殺を踏みとどまらせたんだ?」

「都という漢字にはねえ、文字通りの意味のほかに、集まる、集める、とか、雅やか、美しい、という意味もあるんだよ。いい名前だろ?」


 突然始まった名づけのエピソードに、話を逸らされたという困惑が先行する。


「誤魔化さないでくれ。僕が聞いているのはそういう話ではなくて――」

「誤魔化してなどいないさ。私が自殺を思いとどまったのは、都。お前の姿を見かけたからなんだよ」

「僕を?」


 車中から、歩いている僕を見かけたというのだろうか。それ自体は有り得ることだ。だとしても、なぜそれが?


「そうだ。なあ、都」


 その時、ぴーん、と空気が張り詰めたのを感じた。これから糸が切れる直前のような、極限まで張り詰めた緊張感。


「ここで話を、『気持ちが切れる出来事』に戻そう。逃亡生活をしている最中に飛び込んできたのは、最愛の息子が死んだ、という一報だった」

「はっ? ……え?」


 驚きを誤魔化そうとして、失敗したときみたいな声がでる。生きているはずの僕の胸に、『死』という単語が鋭く刺さる。


「どうしてお前は生きているんだ? いや、生きていたこと自体は素直に嬉しいんだ。けど、おかしいだろう。暦が七月に変わろうとしていたあの日、確かにお前は死んだはずなのに」


 僕が、死んでいる?

 そこから始まった母の話は、衝撃的なものだった。

 今年の六月の終わり頃、僕は死んでいるのだと。葬儀も済んでいるのだと。


「これが、悠久の木が起こした奇跡って奴なのかね? ……なんにせよ、死んだとばかり思っていた息子が生きてたんだ。そりゃあ、ここで死ぬわけにはいかんだろう」


 それは、月の綺麗な夜だった。

 青みがかった綺麗な月明かりが、真実を浮き彫りにしていく。


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